A. Tarski

진리에 대한 의미론적 개념과 의미론의 기초

이윤진이카루스 2014. 12. 12. 14:34

第3章 真理論


第1節タルスキ「真理の意味論的観点と意味論の基礎」-1
"The semantic conception of truth and the foundation of semantics"(1944)
(0)論文の構成
この論文はふたつの部分からなっている. 前半は,タルスキがこの論文の数年前に発表したテクニカルな性格をもつ論文を,哲学者のために書き直したものである. 後半は,その論文以降に提起された批判に対する応答である. そこで,第1節で,その前半部分の要約を,第2節で後半部分の要約をする.
タルスキの叙述は非常に簡潔で明快であるので,実は,ほとんど要約を必要としないほどであり,それゆえ,ここに示した要約はかなり無理があると,要約した本人が感じる. したがって,これを読んで興味をもたれた読者はぜひ,タルスキ自身の論文も読んでいただきたい. 勁草書房から出版されている『現代哲学基本論文集II』に邦訳が収録されている.
(1) 真理の対応説
真理の対応説(correspondence theoryof truth)とは, 歴史的にはアリストテレスが『形而上学』において述べた
存在するものを存在しないと言い,あるいは存在しないものを存在すると言うは偽であり, 存在するものを存在すると言い,あるいは存在しないものを存在しないと言うは真である….(1011b20-30)
という一文が有名であるが,タルスキ(Alfred Tarski,1902-1983)によると,これは「存在する」とか「存在しない」とかといった 特定の言明についての定義であり,一般的な定式ではない. そこでタルスキはこれに代わるふたつの定式を検討する. 
① 文の真理とは,それが実在と符合する(あるいは対応する)ことに存する.
もしくは,「表示する」という語句の普通の用法を拡張して,それを名前に対してだけでなく文に対しても適用するものと決め, 文が表示するものを「事態」と呼ぶことにすれば,同じことを次の句で表現できる. 
② 文が真であるのは,それが存在する事態を表示するときである.
しかし,タルスキによるとこれらは誤解を招きやすい表現であり,真理の満足な表現であるとはみなせないと言う.そこでわれわれはもっと正確な真理の定義が必要となるのだ. 
(2) T文
たとえば,「雪が白い」という文を考える.これが真であるのは,雪が白いときであり,偽であるのは雪が白くないときである. よって,次のような同値式が成り立つ.
文「雪が白い」が真であるのは,雪が白いときまたそのときに限る.
ここで注意することは,句「雪が白い」が前半では引用符の中に現れ,後半では引用符を伴っていないことである. つまり,後半では文そのものが現れ,前半ではその文の名前が現れている. 文の名前の作り方は引用符で囲む以外にもある. さて,この方法を一般化する. ある任意の文を考え,それを文字「p」で置き換え,その文の名前をつくり,それを文字「X」で置き換える. すると,次の同値式が成り立つ.
(T)Xが真であるのは,pときまたそのときに限る.
このような同値式をT文と呼ぶ.タルスキによると,
(T)の形の同値式のすべてが肯定できるような仕方で「真」という語句は用いられるべきであり,真理の定義が「適合している」 と言われるのは,その定義からこれらの同値式すべてが帰結するときである.
つまり,この(T)文そのものは真理の部分定義であって,真理の定義ではなく, 一般的定義は,これらの部分的定義全体の論理的連言でなければならないだろうというのだ.
(3) 形式的言語と真理の定義
タルスキによると,
真理の定義という問題はその構造が精密な仕方で明示されている言語に対してのみ,正確な意味をもち,厳密な仕方で解決することができる
という. つまり,自然言語に対する「真理の定義」はできないと言うのだ. この「構造が精密な仕方で明示されている言語」のひとつはいわゆる「形式化された言語」で, これは,証明なしで肯定すると決められた文である「公理」全体が示され, すでに肯定された文から新しく肯定される文を演繹するのに使う推論規則が与えられたような言語であり, 肯定されるのは公理およびそこから推論規則を用いて演繹された「定理」と呼ばれる文のみである.
(4) うそつきのパラドクス
さて,真理の定義を考える際,解決しなければいけないのは「うそつきのパラドクス」と呼ばれるものである. たとえば,<この段落に現れる<>で囲まれた文は真ではない>という文を考えよう. この文を文字「s」で置き換えると,(T)文は,
(1)「s」が真であるのは,この段落に現れる<>で囲まれた文が真でないときそのときに限る
となる. また,文字「s」は,この意味を考えると,この段落に現れる<>で囲まれた文と同一であるから, (1)の,「この段落に現れる<>で囲まれた文」という文を文字「s」で置き換えるならば,
「s」が真であるのは,「s」が真でないときそのときに限る
という文が得られ,これは明らかに矛盾である.
(5) 対象言語とメタ言語
では,このような二律背反が導かれるもととなった仮定は何であろう.タルスキはそれを3つ挙げているが, 否定できる可能性があるのはそのうちのひとつであり,次のようなものである.
二律背反がその中で構成される言語は,それに属する表現に加えて,そうした表現の名前をも含み, また,この言語の文に関わる「真」という語句のような意味論的語句をも含む,とわれわれは暗黙のうちに仮定している. また,この「真」という語句の適合的な用法を決定する文のすべてが,この言語の中で肯定されうる,とも仮定している. このような性質をもつ言語は,「意味論的に閉じている」と呼ばれるであろう.
したがって,このような意味で意味論的に閉じている言語を使わないようにしなければならない. すると,真理の定義の問題を論ずる際には,ふたつの相異なる言語を用いなければならない. そのうちのひとつは,「について語られる」言語であり,この議論全体の主題をなすものである. そして,われわれが求めている真理の定義は,この言語の文に当てはまるものである. もうひとつの言語は,その中でわれわれが第一の言語に「ついて語る」言語であり, とりわけ,それを使って第一の言語に対する真理の定義を構成しよう,とわれわれが考えている言語である. 第一の言語は「対象言語」と呼ばれ,第二の言語は「メタ言語」と呼ばれる.
ここで注意しておくことは,「対象言語」および「メタ言語」という語句は,単に相対的な意味しかもっていないことである.たとえばもともとの対象言語ではなく,そのメタ言語の文に当てはまるような真理の概念が問題になる場合は,このメタ言語がその議論の対象言語となる.
さて,メタ言語に含まれるべきようものは何であろうか.タルスキは以下のように述べる.
対象言語に属する語句,対象言語に属する表現の形を指し,これらの表現の名前をつくるのに使われる語句,そして,論理的な語句で有る. 特に,われわれは,対象言語に関わる意味論的語句は定義によってのみメタ言語に導入されることを要請する. なぜならば,もしこの要請が満足されるならば,真理やそれ以外の意味論的概念の定義は, われわれが定義に対して直感的に期待することにかなうであろうからだ. つまり,それは,定義されるべき語句の意味を,その意味が完全に明瞭であって,誤解の余地のない語句で説明することになろうからだ. そのうえ,そのときには,意味論的概念の使用がいかなる矛盾へも導かないということの一種の保証を,われわれは手に入れることになるだろうからだ.
対象言語およびメタ言語の形式的構造に対しては,現在知られているほかの形式化された言語の形式的構造と同様である,と仮定すればよい. 特に,メタ言語においては,定義に関する通常の形式的規則が守られると仮定する.
(6)中心問題の肯定的解決のための諸条件
真理の定義の問題は,肯定的に解決される場合と否定的に解決される場合がある. もし,メタ言語がその論理的部分において,対象言語よりも本質的に豊富であるならば,肯定的に解決され, そうでないならば,否定的である.
「本質的に豊富」という概念に正確な定義を与えることは容易でないが, ともかくも,メタ言語が対象言語より本質的に豊富でないなら,メタ言語の任意の語句に対して 対象言語のある確定した語句を対応させることができ, その結果,メタ言語の中で真理の満足な定義が定式化されたとする仮説は,この言語の中でのうそつきの二律背反の構成可能性を含意する, ということがわかる. したがって,真理の満足な定義が定式化されるという仮説は否定されなければならなくなる.
さて,こうして「本質的豊富さ」の条件は,メタ言語における真理の満足な定義の可能性の必要条件であることがわかったが, この条件は,実は,十分条件でもある. すなわち,メタ言語が対象言語よりも本質的に豊富ならば,真理の観念はその中で定義できるのである.
(7)定義の構成のアウトライン
真理の定義は,もうひとつの意味論的観念, すなわち,充足(satisfaction)の観念の定義からごく単純な仕方で得ることができる. ここで「充足」とは,任意の対象と「文関数」と呼ばれる表現との関係である. そして,「文関数」とは,「xは白い」とか「xはyより大きい」といった表現であり,その形式的構造は文の形式的構造と同様であるが, いわゆる自由変更(「xはyより大きい」における「x」「y」)を含むことができる(文には自由変更は現れることはできない).
形式化された言語において文関数を定義するのには,「再帰的手続き recursive procedure」と呼ばれるものを適用するのが普通である.すなわち,まず,もっとも単純な構造をもつ文関数を記述し,次に,より単純な関数から複合的な関数を構成するのに使う演算を示す.こうした演算は,たとえば,与えられたふたつの関数の論理的選言や連言をつくる,つまり,それらの関数を「あるいは」や「かつ」で結合すること,であったりする.そうすると,文は自由変更を含まない文関数として定義できる.
まずわれわれは,どの対象がもっとも単純な文関数を充足するかを示し, 次に,複合的な関数を構成する,より単純な関数を充足をする対象が何であるかを知っているものとの仮定のもとで, 与えられた対象がその複合的関数を充足するための条件を述べる,といった仕方で充足の定義を得る. たとえば,与えられた数が,「xはyより大きいかあるいはxはyと等しい」という論理的選言を充足するのは, それらの数が「xはyより大きい」と「xはyと等しい」という関数の少なくとも一方を充足するときである,と言うのである.
こうしていったん充足の一般的定義が得られると,その定義は,自由変更を含まない文関数,すなわち文にも自動的に適用される. 文の場合は,次のふたつの場合だけが可能である. すなわち,文はすべての対象によって充足されるか,あるいは,いかなる対象によっても充足されないか,のいずれかである. そして,前者の場合が真であり,後者の場合は偽である
ここで,まず文関数に対して再帰的手続きを適用する,という回りくどい方法を用いなくても, 直接文に再帰的手続きを適用すればよいように思われる. しかし,複合的な文は,つねにより単純な文関数から構成されるが,より単純な文から構成されるとは限らないからである.

第1節タルスキ「真理の意味論的観点と意味論の基礎」-2