誰か
慌たゞしく
門前を
馳けて行く
足音がした時、
代助の
頭の
中には、大きな
俎下駄が
空から、ぶら
下つてゐた。けれども、その
俎下駄は、
足音の
遠退くに従つて、すうと
頭から
抜け
出して消えて仕舞つた。さうして
眼が覚めた。
枕元を見ると、八重の
椿が
一輪畳の上に落ちてゐる。
代助は
昨夕床の
中で慥かに此花の落ちる
音を聞いた。彼の耳には、それが
護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が
更けて、
四隣が静かな
所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、
肋のはづれに
正しく
中る
血の
音を
確かめながら
眠に就いた。
ぼんやりして、
少時、赤ん坊の
頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を
当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の
脈を
聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて
確に打つてゐた。彼は胸に手を
当てた儘、此鼓動の下に、
温かい
紅の血潮の緩く流れる
様を想像して見た。是が
命であると考へた。自分は今流れる
命を
掌で抑へてゐるんだと考へた。それから、此
掌に
応へる、時計の針に似た
響は、自分を
死に
誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに
生きてゐられたなら、――血を
盛る
袋が、
時を
盛る
袋の用を兼ねなかつたなら、
如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に
生を味はひ得るだらう。けれども――
代助は覚えず
悚とした。彼は
血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、
生きたがる男である。彼は
時々寐ながら、左の
乳の
下に手を置いて、もし、
此所を
鉄槌で一つ
撲されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の
中から両手を
出して、大きく左右に
開くと、
左側に男が女を
斬つてゐる絵があつた。彼はすぐ
外の
頁へ
眼を移した。
其所には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、
惓怠さうな手から、はたりと新聞を夜具の
上に落した。夫から烟草を一本
吹かしながら、五寸許り布団を
摺り出して、畳の上の
椿を取つて、引つ
繰り
返して、鼻の先へ
持つて
来た。
口と
口髭と鼻の大部分が全く
隠れた。烟りは
椿の
瓣と
蕊に
絡まつて
漂ふ程濃く出た。それを
白い
敷布の
上に置くと、立ち
上がつて
風呂場へ行つた。
其所で
叮嚀に
歯を
磨いた。
彼は
歯並の
好いのを常に嬉しく思つてゐる。
肌を
脱いで
綺麗に
胸と
脊を
摩擦した。
彼の
皮膚には
濃かな一種の
光沢がある。香油を
塗り込んだあとを、よく拭き
取つた様に、
肩を
揺かしたり、
腕を
上げたりする
度に、
局所の
脂肪が
薄く
漲つて見える。かれは
夫にも満足である。次に黒い
髪を
分けた。
油を
塗けないでも面白い程自由になる。
髭も
髪同様に
細く且つ
初々しく、
口の
上を品よく蔽ふてゐる。
代助は其ふつくらした
頬を、両手で両三度撫でながら、鏡の
前にわが
顔を
映してゐた。丸で
女が
御白粉を
付ける時の
手付と一般であつた。実際彼は必要があれば、
御白粉さへ
付けかねぬ程に、肉体に
誇を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と
相好で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に
生れなくつて、まあ
可かつたと思ふ位である。其代り人から
御洒落と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。
約三十分の
後彼は食卓に就いた。
熱い紅茶を
啜りながら
焼麺麭に
牛酪を付けてゐると、
門野と云ふ書生が座敷から新聞を畳んで持つて来た。四つ折りにしたのを座布団の
傍へ置きながら、
「先生、大変な事が始まりましたな」と仰山な声で話しかけた。此書生は代助を
捕まへては、先生先生と敬語を使ふ。代助も、はじめ一二度は苦笑して抗議を申し込んだが、えへゝゝ、だつて先生と、すぐ先生にして仕舞ふので、已を得ず其儘にして置いたのが、いつか習慣になつて、今では、此男に
限つて、平気に先生として
通してゐる。実際書生が代助の様な主人を呼ぶには、先生以外に別段適当な名称がないと云ふことを、書生を置いて見て、代助も始めて悟つたのである。
「学校騒動の事ぢやないか」と代助は落付いた顔をして
麺麭を
食つて居た。
「だつて痛快ぢやありませんか」
「校長排斥がですか」
「えゝ、到底辞職もんでせう」と
嬉しがつてゐる。
「校長が辞職でもすれば、君は何か儲かる
事でもあるんですか」
「冗談云つちや
不可ません。さう
損得づくで、痛快がられやしません」
代助は矢つ張り
麺麭を
食つてゐた。
「君、あれは本当に校長が
悪らしくつて排斥するのか、
他に
損得問題があつて排斥するのか知つてますか」と云ひながら鉄瓶の湯を紅茶々碗の
中へ
注した。
「知りませんな。
何ですか、先生は御存じなんですか」
「僕も知らないさ。知らないけれども、今の人間が、
得にならないと思つて、あんな騒動をやるもんかね。ありや方便だよ、君」
「へえ、
左様なもんですかな」と
門野は稍
真面目な顔をした。代助はそれぎり
黙つて仕舞つた。
門野は是より以上通じない男である。是より以上は、いくら行つても、へえ
左様なもんですかなで押し通して
澄ましてゐる。
此方の云ふことが
応へるのだか、応へないのだか丸で要領を得ない。代助は、
其所が漠然として、刺激が
要らなくつて
好いと思つて書生に使つてゐるのである。其代り、学校へも行かず、勉強もせず、
一日ごろ/\してゐる。君、ちつと、外国語でも研究しちやどうだなどゝ云ふ事がある。すると
門野は
何時でも、
左様でせうか、とか、
左様なもんでせうか、とか
答へる丈である。決して
為ませうといふ事は
口にしない。又かう、
怠惰ものでは、さう
判然した
答が出来ないのである。代助の方でも、
門野を教育しに
生れて
来た訳でもないから、
好加減にして
放つて置く。
幸ひ
頭と
違つて、
身体の方は善く
動くので、代助はそこを大いに重宝がつてゐる。代助ばかりではない、従来からゐる婆さんも
門野の御蔭で此頃は大変助かる様になつた。その原因で婆さんと
門野とは頗る
仲が
好い。主人の留守などには、よく
二人で話をする。
「先生は
一体何を
為る気なんだらうね。
小母さん」
「あの
位になつて入らつしやれば、
何でも
出来ますよ。心配するがものはない」
「心配はせんがね。
何か
為たら
好ささうなもんだと思ふんだが」
「まあ奥様でも御貰ひになつてから、緩つくり、御役でも
御探しなさる御積りなんでせうよ」
「いゝ
積りだなあ。僕も、あんな風に
一日本を読んだり、音楽を聞きに行つたりして
暮して居たいな」
「
御前さんが?」
「
本は読まんでも
好いがね。あゝ云ふ具合に遊んで居たいね」
「
夫はみんな、
前世からの約束だから仕方がない」
「
左様なものかな」
まづ斯う云ふ調子である。
門野が代助の所へ引き移る二週
間前には、此若い独身の主人と、此
食客との間に下の様な会話があつた。
「君は
何方の学校へ行つてるんですか」
「もとは行きましたがな。今は
廃めちまいました」
「もと、
何処へ行つたんです」
「
何処つて
方々行きました。然しどうも
厭きつぽいもんだから」
「ぢき
厭になるんですか」
「まあ、
左様ですな」
「で、
大して勉強する考もないんですか」
「えゝ、
一寸有りませんな。それに近頃
家の都合が、あんまり
好くないもんですから」
「
家の
婆さんは、あなたの
御母さんを知つてるんだつてね」
「えゝ、もと、
直近所に居たもんですから」
「
御母さんは矢っ張り……」
「矢っ張りつまらない内職をしてゐるんですが、どうも
近頃は不景気で、
余まり
好くない様です」
「
好くない様ですつて、君、
一所に居るんぢやないですか」
「
一所に居ることは居ますが、つい面倒だから
聞いた
事もありません。何でも
能くこぼしてる様です」
「
兄さんは」
「
兄は郵便局の方へ出てゐます」
「
家は
夫丈ですか」
「まだ弟がゐます。是は銀行の――まあ
小使に少し毛の生えた位な所なんでせう」
「すると
遊んでるのは、君許りぢやないか」
「まあ、
左様なもんですな」
「それで、
家にゐるときは、何をしてゐるんです」
「まあ、大抵
寐てゐますな。でなければ散歩でも
為ますかな」
「
外のものが、みんな
稼いでるのに、君許り寐てゐるのは苦痛ぢやないですか」
「いえ、
左様でもありませんな」
「家庭が
余つ程円満なんですか」
「別段喧嘩もしませんがな。妙なもんで」
「だつて、
御母さんや
兄さんから云つたら、
一日も早く君に独立して
貰ひたいでせうがね」
「
左様かも知れませんな」
「君は余つ程気楽な
性分と見える。それが本当の所なんですか」
「えゝ、別に
嘘を
吐く料簡もありませんな」
「ぢや全くの
呑気屋なんだね」
「えゝ、まあ
呑気屋つて云ふもんでせうか」
「
兄さんは
何歳になるんです」
「
斯うつと、取つて
六になりますか」
「すると、もう細君でも貰はなくちやならないでせう。
兄さんの細君が出来ても、矢っ張り今の様にしてゐる積ですか」
「其時に
為つて見なくつちや、自分でも見当が付きませんが、
何しろ、どうか
為るだらうと思つてます」
「
其外に親類はないんですか」
「
叔母が
一人ありますがな。こいつは今、
浜で運漕業をやつてます」
「
叔母さんが?」
「
叔母が
遣つてる訳でもないんでせうが、まあ
叔父ですな」
「
其所へでも
頼んで使つて
貰つちや、どうです。運漕業なら大分
人が
要るでせう」
「根が
怠惰もんですからな。大方断わるだらうと思つてるんです」
「さう自任してゐちや困る。実は君の
御母さんが、
家の婆さんに頼んで、君を僕の
宅へ置いて呉れまいかといふ相談があるんですよ」
「えゝ、何だかそんな事を云つてました」
「君自身は、一体どう云ふ気なんです」
「えゝ、成るべく
怠けない様にして……」
「
家へ
来る方が
好いんですか」
「まあ、
左様ですな」
「然し寐て散歩する丈ぢや困る」
「そりや大丈夫です。
身体の方は達者ですから。風呂でも何でも汲みます」
「風呂は水道があるから汲まないでも
可い」
「ぢや、掃除でもしませう」
門野は斯う云ふ条件で代助の書生になつたのである。
代助はやがて食事を済まして、烟草を
吹かし出した。今迄茶
箪笥の
陰に、ぽつねんと
膝を
抱へて柱に
倚り
懸つてゐた
門野は、もう
好い時分だと思つて、又主人に質問を
掛けた。
「先生、
今朝は心臓の具合はどうですか」
此間から代助の癖を知つてゐるので、幾分か茶化した調子である。
「
今日はまだ大丈夫だ」
「何だか
明日にも
危しくなりさうですな。どうも先生見た様に
身体を気にしちや、――仕舞には本当の病気に
取つ
付かれるかも知れませんよ」
「もう病気ですよ」
門野は
只へえゝと云つた
限、代助の
光沢の
好い
顔色や
肉の
豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる。代助はこんな場合になると
何時でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の
頭は、
牛の
脳味噌で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。
話をすると、平民の
通る大通りを半町位しか
付いて
来ない。たまに横町へでも
曲ると、すぐ
迷児になつて仕舞ふ。論理の地盤を
竪に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。
彼の神経系に至つては猶更粗末である。恰も
荒縄で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の
為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも
此のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に
振舞たがる。其上頑強一点張りの肉体を
笠に
着て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して
来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた
報に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に
為れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。
門野にはそんな事は丸で分らない。
「
門野さん、郵便は
来て
居なかつたかね」
「郵便ですか。
斯うつと。
来てゐました。
端書と封書が。机の上に置きました。持つて
来ますか」
「いや、僕が
彼方へ行つても
可い」
歯切れのわるい返事なので、
門野はもう立つて仕舞つた。さうして
端書と郵便を持つて来た。端書は、今日二時東京着、たゞちに表面へ投宿、取敢へず御報、
明日午前
会ひたし、と
薄墨の
走り
書の簡単極るもので、表に裏神保町の
宿屋の
名と
平岡常次郎といふ差出人の姓名が、表と同じ乱暴さ加減で書いてある。
「もう
来たのか、
昨日着いたんだな」と
独り
言の様に云ひながら、封書の方を取り
上げると、是は
親爺の
手蹟である。二三日前帰つて
来た。急ぐ用事でもないが、色々話しがあるから、此手紙が
着いたら来てくれろと
書いて、あとには京都の花がまだ早かつたの、急行列車が一杯で窮屈だつた抔といふ閑文字が数行列ねてある。代助は封書を巻きながら、妙な顔をして、両方見較べてゐた。
「君、電話を掛けて呉れませんか。
家へ」
「はあ、
御宅へ。
何て
掛けます」
「
今日は約束があつて、
待ち
合せる人があるから
上がれないつて。
明日か
明後日屹度伺ひますからつて」
「はあ。
何方に」
「
親爺が旅行から帰つて
来て、話があるから
一寸来いつて云ふんだが、――
何親爺を
呼び出さないでも
可いから、
誰にでも
左様云つて
呉れ給へ」
「はあ」
門野は無雑作に
出て行つた。代助は茶の
間から、座敷を
通つて書斎へ帰つた。見ると、奇麗に
掃除が出来てゐる。
落椿も
何所かへ
掃き出されて仕舞つた。代助は
花瓶の
右手にある
組み
重ねの
書棚の
前へ行つて、
上に載せた重い写真帖を取り
上げて、
立ちながら、
金の
留金を
外して、一枚二枚と
繰り始めたが、中頃迄
来てぴたりと
手を
留めた。
其所には
廿歳位の女の
半身がある。代助は
眼を俯せて
凝と女の顔を見詰めてゐた。
着物でも
着換へて、
此方から
平岡の
宿を
訪ね様かと思つてゐる所へ、折よく
先方から
遣つて
来た。
車をがら/\と門前迄乗り付けて、
此所だ/\と
梶棒を
下さした声は
慥かに三年前
分れた時そつくりである。玄関で、
取次の婆さんを
捕まへて、
宿へ
蟇口を忘れて
来たから、
一寸二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄
馳け出して行つて、手を
執らぬ許りに旧友を座敷へ
上げた。
「
何うした。まあ
緩くりするが
好い」
「おや、
椅子だね」と云ひながら平岡は安楽
椅子へ、どさりと
身体を
投げ
掛けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが
肉に、三文の
価値を置いてゐない様な
扱かひ
方に見えた。それから
椅子の
脊に
坊主頭を
靠たして、
一寸部屋の
中を見廻しながら、
「
中々、
好い
家だね。思つたより
好い」と
賞めた。代助は
黙つて
巻莨入の
蓋を
開けた。
「それから、
以後何うだい」
「
何うの、
斯うのつて、――まあ
色々話すがね」
「もとは、よく手紙が
来たから、様子が
分つたが、近頃ぢや
些とも
寄さないもんだから」
「いや
何所も
彼所も御無沙汰で」と平岡は
突然眼鏡を
外して、脊広の胸から皺だらけの
手帛を出して、
眼をぱち/\させながら
拭き始めた。学校時代からの近眼である。代助は
凝と其様子を眺めてゐた。
「僕より君はどうだい」と云ひながら、
細い
蔓を
耳の
後へ
絡みつけに、両手で持つて行つた。
「僕は相変らずだよ」
「相変らずが一番
好いな。あんまり相変るものだから」
そこで
平岡は
八の
字を
寄せて、庭の模様を眺め
出したが、不意に語調を
更へて、
「やあ、
桜がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか
故の様にしんみりしない。代助も少し気の
抜けた風に、
「向ふは大分
暖かいだらう」と
序同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法
外に
熱した具合で、
「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は
巻莨に火を
点けた。其時婆さんが漸く
急須に茶を
注れて持つて出た。今しがた鉄瓶に
水を
射して仕舞つたので、
煮立るのに
暇が入つて、つい
遅くなつて
済みませんと言訳をしながら、
洋卓の
上へ
盆を載せた。
二人は
婆さんの
喋舌てる
間、紫檀の
盆を
見て
黙つてゐた。婆さんは相手にされないので、
独りで愛想笑ひをして座敷を
出た。
「ありや
何だい」
「
婆さんさ。
雇つたんだ。
飯を
食はなくつちやならないから」
「御世辞が
好いね」
代助は赤い
唇の両
端を、少し
弓なりに
下の方へ
彎げて
蔑む様に笑つた。
「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」
「君の
家から
誰か
連れて呉れば
好いのに。
大勢ゐるだらう」
「みんな
若いの許りでね」と代助は
真面目に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。
「
若けりや猶結構ぢやないか」
「兎に角
家の
奴は
好くないよ」
「あの
婆さんの
外に
誰かゐるのかい」
「書生が
一人ゐる」
門野は
何時の
間にか帰つて、
台所の方で婆さんと
話をしてゐた。
「それ
限りかい」
「それ
限りだ。
何故」
「細君はまだ
貰はないのかい」
代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。
「
妻を貰つたら、君の所へ通知
位する筈ぢやないか。
夫よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。
代助と平岡とは中学時代からの知り合で、殊に学校を卒業して
後、一年間といふものは、殆んど兄弟の様に親しく往来した。其時分は互に凡てを打ち明けて、互に
力に
為り
合ふ様なことを云ふのが、互に娯楽の尤もなるものであつた。この娯楽が変じて実行となつた事も少なくないので、彼等は双互の為めに
口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでゐると確信してゐた。さうして其犠牲を即座に払へば、娯楽の性質が、忽然苦痛に変ずるものであると云ふ陳腐な事実にさへ気が付かずにゐた。一年の後平岡は結婚した。同時に、自分の
勤めてゐる銀行の、京坂地方のある支店詰になつた。代助は、
出立の当時、新夫婦を新橋の停車場に送つて、愉快さうに、
直帰つて
来給へと平岡の手を握つた。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣る様に云つたが、其
眼鏡の裏には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急に此友達を憎らしく思つた。
家へ帰つて、
一日部屋に這入つたなり考へ込んでゐた。
嫂を連れて音楽会へ行く
筈の所を断わつて、大いに
嫂に気を揉ました位である。
平岡からは断えず
音信があつた。安着の
端書、向ふで世帯を持つた報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あつた。手紙の
来るたびに、代助は
何時も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を
書くときは、
何時でも一種の不安に襲はれる。たまには我慢するのが
厭になつて、途中で返事を已めて仕舞ふ事がある。たゞ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して
来る場合に限つて、
安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。
そのうち段々手紙の
遣り取りが疎遠になつて、月に二遍が、一遍になり、一遍が又
二月、
三月に跨がる様に
間を
置いて
来ると、今度は手紙を
書かない方が、却つて不安になつて、何の意味もないのに、只この感じを駆逐する
為に封筒の
糊を
湿す事があつた。それが半年ばかり続くうちに、代助の
頭も
胸も段々組織が変つて
来る様に感ぜられて
来た。此変化に
伴つて、平岡へは手紙を
書いても
書かなくつても、丸で苦痛を覚えない様になつて仕舞つた。
現に代助が一戸を構へて以来、約一年余と云ふものは、
此春年賀状の交換のとき、序を以て、今の住所を知らした丈である。
それでも、ある事情があつて、平岡の事は丸で忘れる訳には行かなかつた。
時々思ひ
出す。さうして今頃は
何うして
暮してゐるだらうと、色々に想像して見る事がある。然したゞ思ひ出す丈で、別段問ひ合せたり聞き合せたりする程に、気を揉む勇気も必要もなく、今日迄
過して
来た所へ、二週間前に突然平岡からの書信が届いたのである。其手紙には近々当地を引き
上げて、御地へまかり越す積りである。但し本店からの命令で、栄転の意味を含んだ他動的の進退と思つてくれては困る。少し考があつて、急に職業替をする気になつたから、着京の上は
何分宜しく
頼むとあつた。此何分宜しく
頼むの
頼むは本当の意味の
頼むか、又は単に辞令上の
頼むか不明だけれども、平岡の一身上に急劇な変化のあつたのは争ふべからざる事実である。代助は其時はつと思つた。
それで、
逢ふや否や此変動の一部始終を聞かうと待設けて居たのだが、不幸にして話が
外れて容易に
其所へ
戻つて
来ない。折を見て
此方から持ち掛けると、まあ
緩つくり話すとか何とか云つて、
中々埒を
開けない。代助は
仕方なしに、仕舞に、
「
久し
振りだから、
其所いらで
飯でも食はう」と云ひ出した。平岡は、それでも、まだ、
何れ
緩くりを繰返したがるのを、無理に引張つて、近所の西洋料理へ
上つた。
両人は
其所で
大分飲んだ。
飲む
事と
食ふ事は
昔の通りだねと
言つたのが
始りで、
硬い
舌が
段々弛んで
来た。代助は面白さうに、二三日
前自分の
観に行つた、ニコライの復活祭の話をした。
御祭が
夜の十二時を相図に、世の中の
寐鎮まる頃を
見計つて
始る。
参詣人が長い廊下を
廻つて本堂へ帰つて
来ると、
何時の
間にか
幾千本の蝋燭が
一度に
点いてゐる。
法衣を
着た坊主が行列して向ふを通るときに、
黒い
影が、
無地の
壁へ非常に大きく
映る。――平岡は頬杖を
突いて、
眼鏡の奥の
二重瞼を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃
広い
御成街道を
通つて、
深夜の
鉄軌が、
暗い
中を
真直に
渡つてゐる
上を、たつた
一人上野の
森迄
来て、さうして電燈に照らされた
花の
中に
這入つた。
「
人気のない
夜桜は
好いもんだよ」と云つた。平岡は
黙つて
盃を
干したが、
一寸気の毒さうに
口元を
動かして、
「
好いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな
真似が
出来る
間はまだ気楽なんだよ。世の
中へ
出ると、
中々それ
所ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。
其所でこんな答をした。
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
平岡は酔つた
眼を心持大きくした。
「
大分考へが
違つて
来た様だね。――けれども其苦痛が
後から
薬になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」
「そりや不見識な青年が、流俗の
諺に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「だつて、君だつて、もう大抵世の
中へ
出なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」
「世の
中へは
昔から
出てゐるさ。ことに君と
分れてから、大変世の中が
広くなつた様な気がする。たゞ君の
出てゐる
世の
中とは種類が
違ふ丈だ」
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、
何時でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を
嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
平岡の眉の
間に、
一寸不快の色が
閃めいた。赤い
眼を据ゑてぷか/\
烟草を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、
少し調子を
穏やかにした。――
「僕の知つたものに、丸で音楽の
解らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや
飯が
食へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、
下読をするのと、教場へ
出て器械的に
口を
動かしてゐるより外に全く
暇がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。だから
何所に音楽会があらうと、どんな名人が外国から
来やうと
聞に行く機会がない。つまり
楽といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。
麺麭に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。
麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
平岡は
巻莨の灰を、
皿の
上にはたきながら、
沈んだ
暗い調子で、
「うん、
何時迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其
重い言葉の
足が、
富に対する一種の呪咀を
引き
摺つてゐる様に
聴えた。
両人は
酔つて、
戸外へ
出た。
酒の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。
「
少し
歩かないか」と代助が
誘つた。平岡も
口程
忙がしくはないと見えて、
生返事をしながら、一所に
歩を
運んで
来た。
通を
曲つて横町へ
出て、成る
可く、
話の
為好い
閑な場所を撰んで行くうちに、
何時か
緒口が
付いて、思ふあたりへ
談柄が落ちた。
平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に
頭の
中に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、
何時も取り合はなかつた。
六※
[#濁点付き小書き平仮名つ、25-10]かしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が
悪い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も
分つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが
怖いからの様に思はれた。
其所に平岡の癪はあつた。衝突しかけた
事も
一度や
二度ではない。
けれども、
時日を経過するに従つて、肝癪が
何時となく薄らいできて、次第に自分の
頭が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に
力めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて
来た。
時々は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を
出たての平岡でないから、
先方に
解らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を
摺るのとは違ふが」と平岡はわざ/\断つた。代助は
真面目な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。
支店長は平岡の
未来の事に就て、
色々心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に
中つてゐるから、
其時は一所に
来給へ
抔と冗談半分に約束迄した。
其頃は
事務にも
慣れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする
暇が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の
妨をする様に感ぜられて
来た。
支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の
関といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。
所が此男がある芸妓と
関係つて、
何時の
間にか会計に穴を
明けた。それが
曝露したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、
放つて置くと、支店長に迄多少の
煩が及んで
来さうだつたから、
其所で自分が責を引いて辞職を申し
出た。
平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、
上になればなる程
旨い事が
出来るものでね。実は
関なんて、あれつ
許の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「ぢや支店長は一番
旨い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を
濁して仕舞つた。
「それで其男の使ひ込んだ
金は
何うした」
「
千に
足らない
金だつたから、僕が出して
置いた」
「よく
有つたね。君も大分
旨い事をしたと見える」
平岡は
苦い顔をして、ぢろりと代助を見た。
「
旨い
事をしたと仮定しても、
皆使つて仕舞つてゐる。
生活にさへ足りない位だ。其金は
借りたんだよ」
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は
何んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には
低く
明らかなうちに一種の
丸味が出てゐる。
「支店長から
借りて
埋めて置いた」
「
何故支店長がぢかに其
関とか何とか云ふ男に貸して
遣らないのかな」
平岡は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。
二人は無言の儘しばらくの
間並んで
歩いて行つた。
代助は
平岡が
語つたより
外に、まだ
何かあるに
違ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を
有つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に
nil admirari の域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の暗黒面に出逢つて
喫驚する程の
山出ではなかつた。
彼の神経は斯様に陳腐な秘密を
嗅いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の
中で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、
何時でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の
初心と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、
洗ひ
浚ひ自分の弱点を
打ち
明けては、
徒らに
馬糞を
投げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして
愛想を
尽かされるよりは
黙つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が
斯う
取れた。それで平岡が自分に返事もせずに
無言で
歩いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を
小供視する程度に於て、あるひは
其れ以上の程度に於て、代助は平岡を
小供視し
始めたのである。けれども
両人が十五六間
過ぎて、又
話を
遣り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は
更になかつた。最初に
口を切つたのは代助であつた。
「それで、
是から
先何うする
積かね」
「さあ」
「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が
可いかも知れないね」
「さあ。事情次第だが。実は
緩くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。
何うだらう、
君の
兄さんの会社の方に
口はあるまいか」
「うん、
頼んで見様、二三日
内に
家へ行く用があるから。然し
何うかな」
「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」
「
夫も
好いだらう」
両人は又電車の通る
通へ
出た。平岡は向ふから
来た電車の
軒を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ
出した。代助はさうかと答へた儘、
留めもしない、と云つて
直分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄
歩いて
来た。そこで、
「
三千代さんは
何うした」と
聞いた。
「難有う、まあ相変らずだ。君に
宜しく云つてゐた。実は
今日連れて
来やうと思つたんだけれども、何だか汽車に
揺れたんで
頭が
悪いといふから
宿屋へ置いて
来た」
電車が
二人の前で
留まつた。平岡は二三歩
早足に行きかけたが、代助から注意されて已めた。
彼の乗るべき車はまだ
着かなかつたのである。
「子供は
惜しい事をしたね」
「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が
好かつた」
「其
後は
何うだい。まだ
後は出来ないか」
「うん、
未だにも何にも、もう
駄目だらう。
身体があんまり
好くないものだからね」
「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で
可いかも知れない」
「
夫もさうさ。
一層君の様に
一人身なら、猶の事、気楽で
可いかも知れない」
「
一人身になるさ」
「冗談云つてら――夫よりか、
妻が頻りに、君はもう奥さんを持つたらうか、
未だだらうかつて気にしてゐたぜ」
所へ電車が
来た。
代助の
父は
長井得といつて、御維新のとき、戦争に
出た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を
已めてから、実業界に這入つて、
何か
彼かしてゐるうちに、自然と金が
貯つて、此十四五年来は
大分の財産家になつた。
誠吾と云ふ
兄がある。学校を卒業してすぐ、
父の関係してゐる会社へ
出たので、今では
其所で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、
二人の
子供が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は
縫といつて三つ違である。
誠吾の外に姉がまだ
一人あるが、是はある外交官に嫁いで、今は
夫と共に西洋にゐる。
誠吾と此姉の間にもう
一人、それから此姉と代助の間にも、まだ
一人兄弟があつたけれども、それは
二人とも早く死んで仕舞つた。母も死んで仕舞つた。
代助の
一家は是丈の
人数から
出来上つてゐる。そのうちで
外へ
出てゐるものは、西洋に行つた姉と、
近頃一戸を構へた代助ばかりだから、
本家には大小合せて
四人残る訳になる。
代助は月に
一度は必ず
本家へ
金を貰ひに行く。代助は
親の
金とも、
兄の金ともつかぬものを
使つて生きてゐる。
月に一度の
外にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に
調戯つたり、書生と
五目並をしたり、
嫂と芝居の評をしたりして帰つて
来る。
代助は此
嫂を
好いてゐる。此
嫂は、天保調と明治の現代調を、容赦なく
継ぎ
合せた様な一種の人物である。わざ/\
仏蘭西にゐる
義妹に注文して、六づかしい名のつく、頗る高価な
織物を取寄せて、それを四五人で
裁つて、帯に仕立てゝ
着て見たり
何かする。
後で、それは日本から輸出したものだと云ふ事が分つて大笑ひになつた。三越陳列所へ行つて、それを調べて来たものは代助である。
夫から西洋の音楽が
好きで、よく代助に誘ひ出されて
聞に行く。さうかと思ふと
易断に非常な興味を
有つてゐる。
石龍子と
尾島某を大いに崇拝する。代助も二三度御
相伴に、
俥で
易者の
許迄
食付いて行つた事がある。
誠太郎と云ふ子は近頃ベースボールに熱中してゐる。代助が行つて
時々球を
投げてやる事がある。彼は妙な希望を持つた子供である。
毎年夏の初めに、多くの
焼芋屋が俄然として
氷水屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、
氷菓を
食ふものは誠太郎である。
氷菓がないときには、
氷水で我慢する。さうして得意になつて帰つて
来る。近頃では、もし相撲の常設館が出来たら、一番
先へ這入つて見たいと云つてゐる。
叔父さん
誰か相撲を知りませんかと代助に聞いた事がある。
縫といふ
娘は、何か云ふと、
好くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃は
イオリンの稽古に行く。帰つて
来ると、
鋸の
目立ての様な声を出して御浚ひをする。たゞし人が見てゐると決して
遣らない。
室を
締め
切つて、きい/\云はせるのだから、
親は可なり上手だと思つてゐる。代助丈が
時々そつと戸を
明けるので、
好くつてよ、知らないわと
叱られる。
兄は大抵不在
勝である。ことに
忙がしい時になると、
家で
食ふのは
朝食位なもので、あとは、
何うして
暮してゐるのか、
二人の子供には全く
分らない。同程度に於て代助にも分らない。是は
分らない方が
好ましいので、必要のない
限りは、
兄の日々の
戸外生活に就て決して研究しないのである。
代助は
二人の子供に大変人望がある。
嫂にも
可なりある。
兄には、あるんだか、ないんだか
分らない。
会に
兄と
弟が顔を合せると、たゞ
浮世話をする。双方とも普通の顔で、大いに平気で
遣つてゐる。陳腐に
慣れ
抜いた様子である。
代助の
尤も
応へるのは
親爺である。
好い
年をして、
若い
妾を
持つてゐるが、それは
構はない。代助から
云ふと寧ろ賛成な位なもので、
彼は
妾を置く余裕のないものに
限つて、
蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる。
親爺は又
大分の
八釜し
屋である。小供のうちは
心魂に
徹して困却した事がある。しかし
成人の
今日では、それにも別段辟易する必要を
認めない。たゞ
応へるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方共
大した変りはないと信じてゐる事である。それだから、自分の昔し世に
処した時の
心掛けでもつて、代助も
遣らなくつては、
嘘だといふ論理になる。尤も代助の方では、
何が
嘘ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩にはならない。代助は小供の頃非常な肝癪持で、十八九の時分
親爺と組打をした事が一二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、此肝癪がぱたりと
已んで仕舞つた。それから以後ついぞ
怒つた
試しがない。
親爺はこれを自分の薫育の効果と信じてひそかに
誇つてゐる。
実際を云ふと
親爺の所謂薫育は、此父子の
間に纏綿する
暖かい情味を次第に冷却せしめた丈である。少なくとも代助はさう思つてゐる。所が
親爺の腹のなかでは、それが全く
反対に解釈されて仕舞つた。
何をしやうと
血肉の
親子である。子が
親に対する天賦の情
合が、子を取扱ふ方法の如何に因つて変る
筈がない。教育の
為め、少しの無理はしやうとも、其結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教の感化を受けた
親爺は、固く斯う信じてゐた。自分が代助に存在を与へたといふ単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考へた
親爺は、その信念をもつて、ぐん/\押して行つた。さうして自分に冷淡な一個の
息子を作り
上げた。尤も代助の卒業前後からは其待遇法も大分変つて
来て、ある点から云へば、驚ろく程寛大になつた所もある。然しそれは代助が
生れ落ちるや否や、此
親爺が代助に向つて作つたプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかつたのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至つては、今に至つて全く気が付かずにゐる。
親爺は戦争に
出たのを頗る自慢にする。
稍もすると、御
前抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が
据らなくつて
不可んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が
人間至上な能力であるかの如き
言草である。代助はこれを
聞かせられるたんびに
厭な心持がする。胆力は
命の
遣り
取りの
劇しい、
親爺の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の
類と大差はない道具と、代助は心得てゐる。否、胆力とは両立し得ないで、しかも胆力以上に難有がつて然るべき能力が沢山ある様に考へられる。
御父さんから又胆力の講釈を聞いた。
御父さんの様に云ふと、世の
中で石地蔵が一番
偉いことになつて仕舞ふ様だねと云つて、
嫂と笑つた事がある。
斯う云ふ代助は無論臆病である。又臆病で恥づかしいといふ気は
心から起らない。ある場合には臆病を以て自任したくなる位である。子供の時、
親爺の使嗾で、
夜中にわざ/\
青山の墓地迄出掛けた事がある。気味のわるいのを我慢して一時間も居たら、たまらなくなつて、蒼青な顔をして
家へ帰つて
来た。其折は自分でも残念に思つた。あくる
朝親爺に笑はれたときは、
親爺が
憎らしかつた。
親爺の云ふ所によると、
彼と同時代の少年は、胆力修養の
為め、
夜半に
結束して、たつた
一人、御
城の
北一里にある
剣が
峰の
天頂迄
登つて、
其所の辻堂で
夜明をして、日の
出を
拝んで
帰つてくる習慣であつたさうだ。今の若いものとは心得
方からして違ふと親爺が批評した。
斯んな事を
真面目に
口にした、又今でも
口にしかねまじき
親爺は気の毒なものだと、代助は考へる。彼は地震が
嫌である。瞬間の動揺でも
胸に
波が
打つ。あるときは書斎で
凝と
坐つてゐて、何かの拍子に、あゝ地震が遠くから寄せて
来るなと感ずる事がある。すると、尻の下に
敷いてゐる坐蒲団も、
畳も、乃至
床板も明らかに
震へる様に思はれる。
彼はこれが自分の本来だと信じてゐる。
親爺の如きは、神経
未熟の野人か、然らずんば
己れを
偽はる愚者としか代助には受け取れないのである。
代助は
今此親爺と対坐してゐる。
廂の長い
小さな部屋なので、
居ながら
庭を見ると、
廂の
先で
庭が
仕切られた様な感がある。
少なくとも
空は
広く見えない。其代り
静かで、落ち付いて、
尻の
据り具合が
好い。
親爺は
刻み
烟草を
吹かすので、
手のある長い烟草盆を前へ引き付けて、
時々灰吹をぽん/\と
叩く。それが静かな
庭へ響いて
好い
音がする。代助の方は
金の
吸口を四五本
手烙の
中へ
並べた。もう
鼻から
烟を出すのが
厭になつたので、
腕組をして
親爺の
顔を
眺めてゐる。其
顔には
年の割に
肉が多い。それでゐて
頬は
痩けてゐる。
濃い
眉の
下に
眼の
皮が
弛んで見える。
髭は
真白と云はんよりは、寧ろ
黄色である。さうして、
話をするときに
相手の
膝頭と
顔とを
半々に見較べる
癖がある。其時の
眼の
動かし
方で、
白眼が
一寸ちらついて、
相手に妙な心
持をさせる。
老人は
今斯んな事を云つてゐる。――
「さう
人間は自分丈を考へるべきではない。世の
中もある。国家もある。少しは
人の
為に
何かしなくつては心持のわるいものだ。御前だつて、さう、ぶら/\してゐて心持の
好い筈はなからう。そりや、下等社会の無教育のものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んで居て面白い理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が
出るものだからな」
「
左様です」と代助は答へてゐる。
親爺から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、
親爺の考は、万事
中途半端に、
或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、
何時の
間にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる
空談である。それを基礎から打ち崩して
懸かるのは大変な難事業だし、又必竟出来ない相談だから、始めより成るべく
触らない様にしてゐる。所が
親爺の方では代助を以て無論自己の太陽系に属すべきものと心得てゐるので、自己は飽までも代助の軌道を支配する権利があると信じて押して
来る。そこで代助も已を得ず
親爺といふ老太陽の周囲を、行儀よく廻転する様に見せてゐる。
「それは実業が
厭なら
厭で
好い。何も
金を儲ける丈が日本の
為になるとも限るまいから。
金は
取らんでも
構はない。
金の
為に兎や角云ふとなると、御前も心持がわるからう。
金は今迄通り
己が補助して
遣る。おれも、もう
何時死ぬか
分らないし、
死にや
金を持つて行く訳にも
行かないし。
月々御前の
生計位どうでもしてやる。だから奮発して何か
為るが
好い。国民の義務としてするが
好い。もう三十だらう」
「
左様です」
「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」
代助は決してのらくらして
居るとは思はない。たゞ職業の
為に
汚されない内容の多い時間を有する、上等人種と自分を考へてゐる丈である。
親爺が斯んな事を云ふたびに、実は気の毒になる。
親爺の幼稚な頭脳には、かく有意義に
月日を利用しつゝある結果が、自己の思想情操の上に、結晶して吹き
出してゐるのが、全く
映らないのである。仕方がないから、
真面目な顔をして、
「えゝ、困ります」と答へた。
老人は
頭から代助を小僧視してゐる
上に、其返事が
何時でも
幼気を失はない、簡単な、
世帯離れをした文句だものだから、
馬鹿にするうちにも、どうも坊ちやんは成人しても仕様がない、困つたものだと云ふ気になる。さうかと思ふと、代助の口調が如何にも平気で、冷静で、はにかまず、もぢ
付かず尋常極まつてゐるので、
此奴は手の付け様がないといふ気にもなる。
「
身体は丈夫だね」
「二三年このかた
風邪を
引いた
事もありません」
「
頭も
悪い方ぢやないだらう。学校の成蹟も
可なりだつたんぢやないか」
「まあ
左様です」
「
夫で
遊んでゐるのは勿体ない。あの何とか云つたね、そら
御前の所へ
善く話しに
来た男があるだらう。
己も一二度逢つたことがある」
「平岡ですか」
「さう平岡。あの人なぞは、あまり出来の
可い方ぢやなかつたさうだが、卒業すると、すぐ
何処かへ行つたぢやないか」
「其代り
失敗て、もう
帰つて
来ました」
老人は苦笑を禁じ得なかつた。
「どうして」と聞いた。
「
詰り
食ふ
為に
働らくからでせう」
老人には此意味が
善く
解らなかつた。
「
何か面白くない事でも
遣つたのかな」と聞き返した。
「其場合々々で当然の事を遣るんでせうけれども、其当然が矢っ張り
失敗になるんでせう」
「はあゝ」と気の乗らない返事をしたが、やがて調子を
易へて、説き出した。
「若い人がよく
失敗といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ。
己も多年の経験で、
此年になる迄
遣つて
来たが、どうしても此二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却つて遣り損ふこともあるでせう」
「いや、
先ないな」
親爺の
頭の
上に、誠者天之道也と云ふ額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰つたとか云つて、
親爺は尤も珍重してゐる。代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの
後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする。
其昔し藩の財政が疲弊して、始末が付かなくなつた時、整理の任に当つた長井は、藩侯に縁故のある町人を二三人呼び集めて、
刀を脱いで其前に
頭を
下げて、彼等に一時の融通を頼んだ事がある。固より
返せるか、返せないか、分らなかつたんだから、分らないと真直に自白して、それがために其時成功した。その因縁で此
額を藩主に
書いて
貰つたんである。爾来長井は
何時でも、之を自分の
居間に掛けて朝夕眺めてゐる。代助は此額の由来を何遍
聞かされたか知れない。
今から十五六年前に、旧藩主の
家で、
月々の支出が
嵩んできて、折角持ち直した経済が又
崩れ出した時にも、長井は前年の手腕によつて、再度の整理を委託された。其時長井は自分で風呂の
薪を焚いて
見て、実際の消費
高と帳面づらの消費
高との差違から
調べにかゝつたが、終日終夜この事丈に精魂を打ち込んだ結果は、約一ヶ月内に立派な方法を立て得るに至つた。それより以後藩主の家では比較的豊かな
生計をしてゐる。
斯う云ふ過去の歴史を持つてゐて、此過去の歴史以外には、一歩も踏み出して考へる事を敢てしない長井は、
何によらず、誠実と熱心へ持つて行きたがる。
「御前は、どう云ふものか、誠実と熱心が欠けてゐる様だ。それぢや不可ん。だから何にも出来ないんだ」
「誠実も熱心もあるんですが、たゞ人事上に応用出来ないんです」
「
何う云ふ訳で」
代助は又返答に窮した。代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が
出来合の
奴を胸に
蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて
火花の
出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者
二人の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が
悪くつては
起り様がない。
「
御父さんは論語だの、王陽明だのといふ、
金の
延金を
呑んで入らつしやるから、
左様いふ事を仰しやるんでせう」
「
金の
延金とは」
代助はしばらく
黙つてゐたが、漸やく、
「
延金の儘
出て
来るんです」と云つた。長井は、書物癖のある、偏窟な、世慣れない若輩のいひたがる不得要領の警句として、好奇心のあるにも拘はらず、取り合ふ事を敢てしなかつた。
それから約四十分程して、老人は
着物を
着換えて、
袴を
穿いて、
俥に
乗つて、
何処かへ
出て
行つた。代助も玄関迄送つて出たが、又引き返して
客間の戸を開けて
中へ
這入つた。
是は
近頃になつて
建て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に
本づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに
欄間の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に
頼んで、色々相談の
揚句に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、
画巻物を
展開した様な、
横長の
色彩を眺めてゐたが、どう云ふものか、
此前来て見た時よりは、
痛く見劣りがする。是では
頼もしくないと思ひながら、猶局部々々に
眼を
付けて吟味してゐると、突然
嫂が這入つて来た。
「おや、
此所に
入らつしやるの」と云つたが、「
一寸其所らに
私の
櫛が落ちて
居なくつて」と聞いた。
櫛は
長椅子の
足の
所にあつた。
昨日縫子に
貸して
遣つたら、
何所かへ
失なして仕舞つたんで、
探しに
来たんださうである。両手で
頭を抑へる様にして、
櫛を束髪の
根方へ押し付けて、
上眼で代助を見ながら、
「相変らず
茫乎してるぢやありませんか」と
調戯つた。
「
御父さんから御談義を
聞かされちまつた」
「また? 能く
叱られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し
貴方もあんまり、
好かないわ。些とも
御父さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「
御父さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が
悪いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、
些とも云ふ事を聞かないんだもの」
代助は苦笑して
黙つて仕舞つた。
梅子は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。
脊のすらりとした、色の浅黒い、眉の
濃い、唇の薄い女である。
「まあ、
御掛けなさい。少し話し相手になつて
上げるから」
代助は矢っ張り立つた儘、
嫂の
姿を見守つてゐた。
「
今日は妙な
半襟を掛けてますね」
「これ?」
梅子は
顎を
縮めて、八の字を寄せて、自分の襦袢の襟を見やうとした。
「
此間買つたの」
「
好い色だ」
「まあ、そんな事は、
何うでも
可いから、
其所へ
御掛けなさいよ」
代助は
嫂の
真正面へ腰を卸した。
「へえ
掛けました」
「
一体今日は何を
叱られたんです」
「何を
叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し
御父さんの国家社会の
為に尽すには驚ろいた。何でも十八の
年から
今日迄のべつに
尽してるんだつてね」
「それだから、あの位に御成りになつたんぢやありませんか」
「国家社会の為に
尽して、
金が
御父さん位儲かるなら、僕も
尽しても
好い」
「だから遊んでないで、御
尽しなさいな。
貴方は寐てゐて
御金を
取らうとするから狡猾よ」
「
御金を取らうとした事は、まだ
有りません」
「
取らうとしなくつても、
使ふから
同じぢやありませんか」
「
兄さんが
何とか云つてましたか」
「
兄さんは
呆れてるから、何とも云やしません」
「随分猛烈だな。然し
御父さんより
兄さんの方が
偉いですね」
「
何うして。――あら
悪らしい、又あんな御世辞を使つて。
貴方はそれが
悪いのよ。
真面目な顔をして
他を茶化すから」
「
左様なもんでせうか」
「
左様なもんでせうかつて、
他の事ぢやあるまいし。
少しや考へて御覧なさいな」
「
何うも
此所へ
来ると、丸で
門野と
同じ様になつちまふから
困る」
「
門野つて
何です」
「なに
宅にゐる書生ですがね。
人に何か云はれると、屹度
左様なもんでせうか、とか、
左様でせうか、とか答へるんです」
「あの人が? 余っ程妙なのね」
代助は
一寸話を
已めて、
梅子の
肩越に、
窓掛の
間から、奇麗な
空を
透かす様に見てゐた。遠くに大きな
樹が一本ある。
薄茶色の
芽を全体に吹いて、
柔らかい
梢の
端が
天に
接く所は、
糠雨で
暈されたかの如くに
霞んでゐる。
「
好い気候になりましたね。
何所か御花見にでも行きませうか」
「行きませう。行くから
仰しやい」
「
何を」
「
御父さまから云はれた事を」
「云はれた事は色々あるんですが、
秩序立てて
繰り
返すのは困るですよ。
頭が
悪いんだから」
「まだ
空つとぼけて
居らつしやる。ちやんと知つてますよ」
「ぢや、
伺ひませうか」
梅子は少しつんとした。
「
貴方は近頃余つ程
減らず
口が達者におなりね」
「
何、
姉さんが辟易する程ぢやない。――時に
今日は大変静かですね。どうしました、小供達は」
「小供は学校です」
十六七の
小間使が
戸を
開けて
顔を出した。あの、旦那様が、奥様に
一寸電話
口迄と取り
次いだなり、黙つて梅子の返事を待つてゐる。梅子はすぐ立つた。代助も立つた。つゞいて
客間を出やうとすると、梅子は振り向いた。
「あなたは、
其所に
居らつしやい。少し話しがあるから」
代助には
嫂のかう云ふ命令的の言葉が
何時でも面白く感ぜられる。
御緩と見送つた儘、又腰を掛けて、再び例の画を眺め
出した。しばらくすると、其色が
壁の上に塗り付けてあるのでなくつて、自分の
眼球の
中から飛び出して、
壁の
上へ行つて、べた/\
喰つ
付く様に見えて
来た。仕舞には
眼球から色を出す具合一つで、向ふにある人物樹木が、
此方の思ひ通りに変化出来る様になつた。代助はかくして、
下手な個所々々を悉く塗り
更へて、とう/\自分の想像し
得る限りの尤も美くしい色彩に包囲されて、恍惚と
坐つてゐた。所へ
梅子が帰つて
来たので、忽ち当り前の自分に戻つて仕舞つた。
梅子の用事と云ふのを改まつて聞いて見ると、又例の縁談の事であつた。代助は学校を卒業する前から、梅子の御蔭で写真実物色々な細君の候補者に接した。けれども、
何づれも不合格者ばかりであつた。始めのうちは体裁の
好い
逃口上で断わつてゐたが、二年程前からは、急に
図迂々々しくなつて、屹度相手にけちを付ける。
口と
顎の角度が
悪いとか、
眼の長さが顔の
幅に比例しないとか、耳の位置が
間違つてるとか、必ず妙な非難を持つて
来る。それが悉く尋常な
言草でないので、仕舞には梅子も少々考へ出した。是は必竟世話を焼き過ぎるから、付け上つて、人を
困らせるのだらう。当分
打遣つて置いて、向ふから頼み出させるに
若くはない。と決心して、夫からは縁談の事をついぞ
口にしなくなつた。所が本人は一向困つた様子もなく、依然として海のものとも、山のものとも見当が付かない態度で今日迄
暮して
来た。
其所へ
親爺が甚だ因念の
深いある候補者を見付けて、旅行
先から帰つた。梅子は代助の
来る二三日前に、其話を
親爺から聞かされたので、
今日の会談は必ずそれだらうと推したのである。然し代助は実際老人から結婚問題に付いては、
此日何にも
聞かなかつたのである。老人は或はそれを披露する気で、呼んだのかも知れないが、代助の態度を見て、もう少し控えて置く方が得策だといふ了見を起した結果、
故意と話題を避けたとも取れる。
此候補者に対して代助は一種特殊な関係を
有つてゐた。候補者の姓は知つてゐる。けれど名は知らない。年齢、容貌、教育、性質に至つては全く知らない。
何故その女が候補者に立つたと云ふ因念になると又能く知つて居る。
代助の
父には
一人の
兄があつた。
直記と云つて、
父とはたつた一つ違ひの
年上だが、
父よりは
小柄なうへに、
顔付眼鼻立が非常に
似てゐたものだから、知らない人には往々
双子と間違へられた。其折は父も
得とは云はなかつた。誠之進といふ幼名で
通つてゐた。
直記と誠之進とは外貌のよく似てゐた如く、
気質も本当の兄弟であつた。両方に差支のあるときは特別、都合さへ付けば、同じ所に
食つ付き合つて、同じ事をして暮してゐた。稽古も同時同刻に往き返りをする。読書にも一つ
燈火を分つた位
親しかつた。
丁度
直記の十八の
秋であつた。ある時
二人は
城下外の等覚寺といふ寺へ
親の使に行つた。これは藩主の菩提寺で、そこにゐる楚水といふ坊さんが、
二人の
親とは
昵近なので、用の手紙を、此楚水さんに渡しに行つたのである。用は囲碁の招待か何かで返事にも及ばない程簡略なものであつたが、楚水さんに
留められて、色々話してゐるうちに
遅くなつて、日の暮れる一時間程前に漸く寺を出た。その日は何か祭のある折で、
市中は大分雑沓してゐた。
二人は群集のなかを急いで帰る拍子に、ある横町を曲らうとする
角で、川向ひの
方限りの
某といふものに突き当つた。此
某と
二人とは、かねてから
仲が
悪かつた。其時
某は大分酒気を帯びてゐたと見えて、
二言三言いひ争ふうちに
刀を
抜いて、いきなり斬り
付けた。斬り
付けられた方は
兄であつた。已を得ず是も腰の物を
抜いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。
黙つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして
二人で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
其
頃の習慣として、
侍が
侍を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で
家へ帰つて
来た。
父も
二人を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が
母が生憎
祭で
知己の
家へ
呼ばれて留守である。父は
二人に切腹をさせる前、もう一遍
母に
逢はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ
母を迎にやつた。さうして母の
来る
間、
二人に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々してゐた。
母の客に行つてゐた所は、その
遠縁にあたる
高木といふ勢力家であつたので、大変都合が
好かつた。と云ふのは、其頃は世の
中の
動き掛けた当時で、
侍の
掟も昔の様には厳重に行はれなかつた。殊更殺された相手は評判の悪い無頼の青年であつた。ので高木は母とともに長井の
家へ
来て、何分の沙汰が
公向からある迄は、当分其儘にして、手を着けずに置くやうにと、父を
諭した。
高木はそれから奔走を始めた。さうして第一に家老を説き付けた。それから家老を通して藩主を説き付けた。殺された
某の
親は又、存外訳の
解つた人で、平生から
倅の
行跡の良くないのを苦に病んでゐたのみならず、斬り付けた当時も、
此方から狼藉をしかけたと同然であるといふ事が明瞭になつたので、兄弟を寛大に処分する運動に就ては別段の苦情を持ち出さなかつた。兄弟はしばらく
一間の
内に閉ぢ籠つて、謹慎の意を表して後、
二人とも
人知れず
家を
捨てた。
三年の後
兄は京都で浪士に殺された。四年目に天下が明治となつた。又五六年してから、誠之進は両親を国元から東京へ呼び寄せた。さうして妻を迎へて、
得といふ一字
名になつた。其時は自分の
命を助けてくれた高木はもう死んで、養子の代になつてゐた。東京へ出て仕官の方法でも講じたらと思つて色々勧めて見たが応じなかつた。此養子に子供が
二人あつて、男の方は京都へ出て同志社へ
這入つた。
其所を卒業してから、長らく亜米利加に居つたさうだが、今では神戸で実業に従事して、相当の資産家になつてゐる。女の方は県下の多額納税者の所へ
嫁に行つた。代助の細君の候補者といふのは此多額納税者の娘である。
「大変込み入つてるのね。
私驚ろいちまつた」と
嫂が代助に云つた。
「
御父さんから何返も聞いてるぢやありませんか」
「だつて、
何時もは御
嫁の
話が
出ないから、
好い加減に聞いてるのよ」
「
佐川にそんな娘があつたのかな。僕も
些つとも知らなかつた」
「
御貰なさいよ」
「賛成なんですか」
「賛成ですとも。因念つきぢやありませんか」
「先祖の拵らえた因念よりも、まだ自分の拵えた因念で貰ふ方が
貰ひ
好い様だな」
「おや、
左様なのがあるの」
代助は苦笑して答へなかつた。
代助は今読み
切つた
許の
薄い洋書を机の上に
開けた儘、両
肱を
突いて
茫乎考へた。代助の
頭は最後の
幕で一杯になつてゐる。――遠くの向ふに
寒さうな樹が立つてゐる
後に、二つの小さな角燈が
音もなく
揺めいて見えた。絞首台は
其所にある。刑人は
暗い所に立つた。
木履を
片足失くなした、
寒いと
一人が云ふと、
何を? と
一人が聞き
直した。
木履を
失くなして寒いと
前のものが同じ事を繰り返した。Mは
何処にゐると
誰か聞いた。
此所にゐると
誰か答へた。
樹の
間に大きな、白い様な、平たいものが見える。
湿つぽい
風が
其所から吹いて
来る。海だとGが云つた。しばらくすると、宣告文を
書いた
紙と、宣告文を持つた、白い手――
手套を
穿めない――を角燈が
照らした。
読上げんでも
可からうといふ声がした。其の声は顫へてゐた。やがて角燈が消えた。……もう
只一人になつたとKが云つた。さうして
溜息を
吐いた。Sも死んで仕舞つた。Wも死んで仕舞つた。Mも死んで仕舞つた。
只一人になつて仕舞つた。……
海から
日が
上つた。彼等は死骸を一つの車に積み込んだ。さうして引き出した。長くなつた
頸、飛び
出した
眼、
唇の
上に咲いた、怖ろしい花の様な血の
泡に
濡れた
舌を積み込んで
元の路へ引き返した。……
代助はアンドレーフの「七刑人」の最後の模様を、
此所迄
頭の
中で繰り返して見て、
竦と
肩を
縮めた。
斯う云ふ時に、
彼が尤も痛切に
感ずるのは、万一自分がこんな場に
臨んだら、どうしたら宜からうといふ心配である。考へると到底死ねさうもない。と云つて、無理にも殺されるんだから、
如何にも残酷である。彼は
生の慾望と死の圧迫の間に、わが身を想像して、
未練に両方に往つたり
来たりする苦悶を心に
描き出しながら
凝と
坐つてゐると、
脊中一面の
皮が
毛穴ごとにむづ/\して
殆んど
堪らなくなる。
彼の
父は十七のとき、
家中の
一人を斬り殺して、それが
為め切腹をする覚悟をしたと自分で常に人に
語つてゐる。
父の考では
兄の介錯を自分がして、自分の介錯を
祖父に頼む筈であつたさうだが、能くそんな真似が出来るものである。
父が過去を
語る
度に、代助は
父をえらいと思ふより、不愉快な
人間だと思ふ。さうでなければ
嘘吐だと思ふ。
嘘吐の方がまだ余っ程
父らしい気がする。
父許ではない。
祖父に就ても、こんな話がある。
祖父が若い時分、撃剣の同門の何とかといふ男が、あまり技芸に達してゐた所から、
他の
嫉妬を受けて、ある夜縄手
道を城下へ帰る途中で、
誰かに斬り殺された。其時第一に馳け
付けたものは
祖父であつた。左の手に提灯を
翳して、右の手に
抜身を持つて、其
抜身で
死骸を叩きながら、
軍平確かりしろ、
創は
浅いぞと云つたさうである。
伯父が京都で殺された時は、頭巾を着た人間にどや/\と、
旅宿に踏み込まれて、伯父は二階の
廂から飛び
下りる途端、庭石に
爪付いて倒れる所を
上から、容赦なく
遣られた為に、顔が
膾の様になつたさうである。殺される十日
程前、
夜中、
合羽を
着て、
傘に雪を
除けながら、
足駄がけで、四条から三条へ帰つた事がある。其時
旅宿の二丁程手前で、
突然後から長井
直記どのと呼び懸けられた。
伯父は振り向きもせず、矢張り
傘を
差した儘、
旅宿の
戸口迄
来て、
格子を
開けて
中へ
這入た。さうして格子をぴしやりと
締めて、
中から、長井
直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。
代助は斯んな話を聞く
度に、
勇ましいと云ふ気持よりも、まづ怖い方が先に
立つ。度胸を買つてやる前に、
腥ぐさい
臭が
鼻柱を抜ける様に
応へる。
もし死が可能であるならば、それは
発作の絶高頂に達した一瞬にあるだらうとは、代助のかねて期待する所である。所が、彼は決して
発作性の男でない。手も
顫へる、足も
顫へる。声の
顫へる事や、心臓の飛び
上がる事は始終ある。けれども、激する事は近来殆んどない。激すると云ふ心的状態は、死に近づき得る自然の階段で、激するたびに
死に易くなるのは
眼に見えてゐるから、時には好奇心で、せめて、其近所迄押し寄せて
見たいと思ふ事もあるが、全く駄目である。代助は此頃の自己を解剖するたびに、五六年前の自己と、丸で
違つてゐるのに驚ろかずにはゐられない。
代助は机の上の書物を伏せると立ち
上がつた。
縁側の
硝子戸を
細目に
開けた
間から
暖かい陽気な風が吹き込んで
来た。さうして鉢植のアマランスの赤い
瓣をふら/\と
揺かした。
日は大きな花の
上に落ちてゐる。代助は
曲んで、花の
中を
覗き込んだ。やがて、ひよろ長い雄
蕊の
頂きから、
花粉を取つて、
雌蕊の
先へ持つて
来て、
丹念に
塗り
付けた。
「
蟻でも
付きましたか」と
門野が玄関の方から
出て
来た。
袴を
穿いてゐる。代助は
曲んだ儘顔を
上げた。
「もう
行つて
来たの」
「えゝ、
行つて
来ました。
何ださうです。
明日御引移りになるさうです。
今日是から
上がらうと思つてた所だと
仰しやいました」
「
誰が? 平岡が?」
「えゝ。――どうも
何ですな。大分御
忙がしい様ですな。先生た余つ程
違つてますね。――蟻なら
種油を
御注ぎなさい。さうして
苦しがつて、穴から
出て
来る所を
一々殺すんです。何なら
殺しませうか」
「蟻ぢやない。
斯うして、天気の
好い時に、花粉を
取つて、
雌蕊へ塗り
付けて置くと、今に
実が
結るんです。
暇だから植木屋から
聞いた通り、
遣つてる所だ」
「なある程。どうも重宝な世の
中になりましたね。――然し盆栽は
好いもんだ。奇麗で、楽しみになつて」
代助は
面倒臭いから返事をせずに黙つてゐた。やがて、
「
悪戯も
好加減に
休すかな」と云ひながら立ち
上がつて、縁側へ
据付の、
籐の安楽
椅子に腰を掛けた。夫れ
限りぽかんと何か考へ込んでゐる。
門野は
詰らなくなつたから、自分の玄関
傍の三畳
敷へ引き取つた。障
子を
開けて這入らうとすると、又縁側へ呼び
返された。
「平岡が
今日来ると云つたつて」
「えゝ、
来る様な御話しでした」
「ぢや
待つてゐやう」
代助は外出を見合せた。実は平岡の事が
此間から大分気に
掛つてゐる。
平岡は
此前、代助を訪問した当時、
既に落ち
付いてゐられない身分であつた。
彼自身の代助に語つた所によると、地位の心当りが二三ヶ所あるから、差し当り其方面へ運動して見る積りなんださうだが、其二三ヶ所が今どうなつてゐるか、代助は殆んど知らない。代助の方から神保町の
宿を
訪ねた事が二返あるが、一度は留守であつた。一度は居つたには
居つた。が、洋服を
着た儘、
部屋の
敷居の上に立つて、
何か
急しい調子で、細君を
極め
付けてゐた。――案内なしに廊下を
伝つて、平岡の部屋の
横へ
出た代助には、突然ながら、たしかに
左様取れた。其時平岡は
一寸振り
向いて、やあ君かと云つた。其顔にも容子にも、少しも
快よさゝうな所は見えなかつた。部屋の
内から顔を出した細君は代助を見て、
蒼白い
頬をぽつと赤くした。代助は何となく席に
就き
悪くなつた。まあ這入れと申し訳に云ふのを聞き流して、いや別段用ぢやない。
何うしてゐるかと思つて
一寸来て見た丈だ。
出掛けるなら一所に
出様と、
此方から誘ふ様にして
表へ
出て仕舞つた。
其時平岡は、早く
家を
探して落ち付きたいが、あんまり
忙しいんで、
何うする事も出来ない、たまに
宿のものが教へてくれるかと思ふと、まだ人が立ち
退かなかつたり、あるひは今
壁を
塗つてる
最中だつたりする。などと、電車へ乗つて分れる迄諸事苦情づくめであつた。代助も気の毒になつて、そんなら
家は、
宅の書生に
探させやう。なに不景気だから、大分
空いてるのがある筈だ。と
請合つて帰つた。
夫から約束通り
門野を
探しに
出した。
出すや否や、門野はすぐ
恰好なのを見付けて
来た。
門野に案内をさせて平岡夫婦に見せると、大抵
可からうと云ふ事で
分れたさうだが、
門野は
家主の方へ責任もあるし、又
其所が気に入らなければ
外を
探す考もあるからと云ふので、借りるか借りないか
判然した所を、もう一遍確かめさしたのである。
「君、
家主の方へは
借りるつて、断わつて
来たんだらうね」
「えゝ、帰りに
寄つて、
明日引越すからつて、云つて
来ました」
代助は椅子に
腰を
掛けた儘、
新らしく二度の
世帯を東京に持つ、夫婦の未来を考へた。平岡は三年前新橋で分れた時とは、もう大分変つてゐる。
彼の経歴は処世の
階子段を一二段で
踏み
外したと同じ事である。まだ高い所へ
上つてゐなかつた丈が、
幸と云へば云ふ様なものゝ、世間の
眼に映ずる程、
身体に
打撲を受けてゐないのみで、其実精神状態には既に狂ひが出来てゐる。始めて逢つた時、代助はすぐ
左様思つた。けれども、三年間に起つた自分の方の変化を
打算して見て、或は
此方の
心が
向に反響を起したのではなからうかと訂正した。が、
其後平岡の旅宿へ尋ねて行つて、座敷へも這入らないで一所に
外へ
出た時の、容子から言語動作を眼の前に浮べて見ると、どうしても又最初の判断に
戻らなければならなくなつた。平岡は其時
顔の
中心に一種の神経を寄せてゐた。
風が
吹いても、
砂が
飛んでも、強い刺激を受けさうな
眉と
眉の
継目を、
憚らず、ぴくつかせてゐた。さうして、
口にする
事が、内容の如何に関はらず、如何にも
急しなく、且つ
切なさうに、代助の
耳に
響いた。代助には、平岡の凡てが、恰も肺の強くない人の、
重苦しい
葛湯の
中を
片息で
泳いでゐる様に取れた。
「あんなに、
焦つて」と、電車へ乗つて飛んで行く平岡の
姿を見送つた代助は、
口の
内でつぶやいだ。さうして旅宿に残されてゐる細君の事を考へた。
代助は此細君を
捕まへて、かつて奥さんと云つた事がない。
何時でも
三千代さん/\と、結婚しない前の通りに、
本名を
呼んでゐる。代助は平岡に
分れてから又引き返して、
旅宿へ行つて、
三千代さんに逢つて
話しをしやうかと思つた。けれども、
何だか
行けなかつた。
足を
停めて
思案しても、今の自分には、行くのが
悪いと云ふ意味はちつとも
見出せなかつた。けれども、
気が
咎めて
行かれなかつた。勇気を
出せば
行かれると思つた。たゞ代助には是丈の勇気を出すのが苦痛であつた。
夫で
家へ帰つた。其代り帰つても、
落ち
付かない様な、
物足らない様な、妙な心持がした。ので、又
外へ
出て酒を
飲んだ。代助は酒をいくらでも飲む男である。ことに其晩はしたゝかに飲んだ。
「あの時は、
何うかしてゐたんだ」と代助は椅子に
倚りながら、比較的
冷やかな自己で、自己の影を批判した。
「
何か御用ですか」と
門野が又
出て
来た。
袴を
脱いで、
足袋を
脱いで、
団子の様な
素足を
出してゐる。代助は
黙つて
門野の
顔を見た。
門野も代助の顔を見て、
一寸の
間突立つてゐた。
「おや、
御呼になつたんぢやないですか。おや、おや」と云つて引込んで行つた。代助は別段
可笑しいとも思はなかつた。
「
小母さん、
御呼びになつたんぢやないとさ。
何うも変だと思つた。だから手も何も鳴らないつて云ふのに」といふ言葉が茶の
間の方で
聞えた。夫から
門野と
婆さんの笑ふ声がした。
其時、待ち設けてゐる御客が
来た。
取次に
出た
門野は意外な顔をして這入つて
来た。さうして、其顔を代助の
傍迄持つて
来て、先生、奥さんですと
囁やく様に云つた。代助は
黙つて椅子を離れて坐敷へ這入つた。
平岡の細君は、色の白い割に
髪の黒い、
細面に
眉毛の
判然映る女である。
一寸見ると
何所となく
淋しい感じの起る所が、
古版の浮世絵に似てゐる。帰京後は
色光沢がことに
可くないやうだ。始めて旅宿で逢つた時、代助は
少し驚ろいた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思つて、聞いて見たら、
左様ぢやない、始終
斯うなんだと云はれた時は、気の毒になつた。
三千代は東京を
出て一年目に産をした。生れた子供はぢき死んだが、それから心臓を痛めたと見えて、兎角具合がわるい。始めのうちは、ただ、ぶら/\してゐたが、
何うしても、はか/″\しく癒らないので、仕舞に医者に見て
貰つたら、
能くは
分らないが、ことに
依ると何とかいふ六づかしい名の心臓病かも知れないと云つた。もし
左様だとすれば、心臓から動脈へ
出る
血が、少しづゝ、
後戻りをする難症だから、根治は覚束ないと宣告されたので、平岡も驚ろいて、出来る丈養生に手を尽した
所為か、一年許りするうちに、
好い
案排に、元気が
滅切りよくなつた。
色光沢も殆んど
元の様に
冴々して見える日が多いので、当人も
喜こんでゐると、帰る一ヶ月ばかり前から、又
血色が悪くなり
出した。然し医者の話によると、今度のは心臓の
為ではない。心臓は、夫程丈夫にもならないが、決して前よりは
悪くなつてゐない。
弁の作用に故障があるものとは、今は決して認められないといふ診断であつた。――是は三千代が
直に代助に
話した所である。代助は其時三千代の顔を見て、矢っ張り何か心配の
為ぢやないかしらと思つた。
三千代は
美くしい
線を奇麗に重ねた
鮮かな
二重瞼を持つてゐる。
眼の恰好は細長い方であるが、
瞳を据ゑて
凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助は是を
黒眼の働らきと判断してゐた。
三千代が細君にならない前、代助はよく、
三千代の
斯う云ふ
眼遣を見た。さうして今でも
善く覚えてゐる。
三千代の顔を
頭の
中に
浮べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出来
上らないうちに、此
黒い、
湿んだ様に
暈された
眼が、ぽつと
出て
来る。
廊下伝ひに坐敷へ案内された
三千代は今代助の前に
腰を掛けた。さうして奇麗な手を
膝の
上に
畳ねた。
下にした手にも
指輪を
穿めてゐる。
上にした手にも
指輪を
穿めてゐる。
上のは細い
金の
枠に比較的大きな
真珠を
盛つた当世風のもので、三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。
三千代は
顔を
上げた。代助は、
突然例の
眼を
認めて、思はず
瞬を一つした。
汽車で着いた
明日平岡と一所に
来る筈であつたけれども、つい気分が
悪いので、
来損なつて仕舞つて、それからは
一人でなくつては
来る機会がないので、つい
出ずにゐたが、
今日は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間
来て呉れた時は、平岡が
出掛際だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な
詫をして、
「
待つてゐらつしやれば
可かつたのに」と女らしく愛想をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も
是は此女の
持調子で、代助は却つて其昔を
憶ひ
出した。
「だつて、大変
忙しさうだつたから」
「えゝ、
忙しい事は
忙しいんですけれども――
好いぢやありませんか。
居らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。
例なら
調戯半分に、あなたは何か
叱られて、
顔を赤くしてゐましたね、どんな
悪い事をしたんですか位言ひかねない
間柄なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、
後から
其場を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も
一寸出なかつた。
代助は
烟草へ
火を
点けて、
吸口を
啣へた儘、椅子の
脊に
頭を
持たせて、
寛ろいだ様に、
「久し
振りだから、何か御馳走しませうか」と
聞いた。さうして
心のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
「
今日は
沢山。さう
緩りしちやゐられないの」と云つて、
昔の
金歯を
一寸見せた。
「まあ、
可いでせう」
代助は両手を
頭の
後へ
持つて行つて、
指と
指を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の
間から小さな時計を
出した。代助が真珠の指輪を此女に
贈ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて
遣つたのである。代助は、一つ
店で
別々の
品物を買つた
後、平岡と
連れ
立つて
其所の
敷居を
跨ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り
道をしてゐたものだから」
と独り
言の様に説明を加へた。
「そんなに
急ぐんですか」
「えゝ、
成り
丈早く帰りたいの」
代助は
頭から
手を
放して、
烟草の灰をはたき落した。
「
三年のうちに
大分世帯染ちまつた。
仕方がない」
代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には
何処かに
苦い所があつた。
「あら、だつて、
明日引越すんぢやありませんか」
三千代の声は、
此時急に
生々と
聞えた。代助は
引越の事を丸で忘れてゐた。
「ぢや
引越してから
緩くり
来れば
可いのに」
代助は相手の
快よささうな調子に釣り込まれて、
此方からも
他愛なく追窮した。
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、
額の所へあらはして、
一寸下を見たが、やがて
頬を
上げた。それが薄赤く
染まつて居た。
「
実は
私少し
御願があつて
上がつたの」
疳の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、
半意識の
下で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し
御金の
工面が
出来なくつて?」
三千代の
言葉は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の
頬は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな
気恥づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
段々聞いて見ると、
明日引越をする費用や、新らしく世帯を持つ
為めの
金が入用なのではなかつた。支店の方を引き
上げる時、向ふへ置き
去りにして
来た借金が
三口とかあるうちで、其
一口を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ
着いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ
堅い約束をして
来た
上に、少し訳があつて、
他の様に
放つて
置けない
性質のものだから、平岡も
着いた
明日から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに
寄したと云ふ事が
分つた。
「支店長から借りたと云ふ
奴ですか」
「いゝえ。
其方は
何時迄延ばして置いても構はないんですが、
此方の方を
何うかしないと困るのよ。東京で運動する方に
響いて
来るんだから」
代助は成程そんな事があるのかと思つた。
金高を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の
中で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が
金に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。
「
何でまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから
私考へると
厭になるのよ。
私も病気をしたのが、
悪いには
悪いけれども」
「病気の時の費用なんですか」
「ぢやないのよ。
薬代なんか知れたもんですわ」
三千代は
夫以上を
語らなかつた。代助も
夫以上を聞く勇気がなかつた。たゞ
蒼白い三千代の顔を眺めて、その
中に、漠然たる未来の不安を感じた。
翌日朝早く
門野は
荷車を三台
雇つて、新橋の
停車場迄平岡の
荷物を
受取りに
行つた。実は
疾うから
着いて居たのであるけれども、
宅がまだ
極らないので、
今日迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、
何うしても半日仕事である。早く行かなけりや、
間に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。
門野は例の調子で、なに
訳はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の
宅へ
届けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
それから十一時
過迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の
家の
部屋を、
青色と
赤色に
分つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に
外ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
代助は
何故ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な
赤の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り
好い心持はしない。出来得るならば、自分の
頭丈でも
可いから、
緑のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を
画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が
好い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
代助は縁側へ出て、
庭から
先にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は
新芽若葉の初期である。はなやかな
緑がぱつと
顔に吹き付けた様な心持ちがした。
眼を
醒す刺激の
底に
何所か
沈んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、
鳥打帽を
被つて、
銘仙の不断
着の儘
門を
出た。
平岡の新宅へ来て見ると、
門が
開いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の
着いた様子もなければ、平岡夫婦の
来てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が
一人縁側に腰を
懸けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、
先刻一返
御出になりましたが、此案排ぢや、どうせ
午過だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に
来たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち
着くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ
出た。
神田へ
来たが、平岡の旅館へ寄る気はしなかつた。けれども
二人の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので
一寸顔を
出した。夫婦は
膳を
並べて
飯を
食つてゐた。
下女が
盆を
持つて、敷居に
尻を向けてゐる。其
後から、声を懸けた。
平岡は驚ろいた様に代助を見た。
其眼が血ばしつてゐる。二三日
能く
眠らない
所為だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ
方だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。
留めるのを
外へ
出て、
飯を食つて、
髪を刈つて、九段の
上へ
一寸寄つて、又帰りに新
宅へ行つて見た。三千代は手拭を
姉さん
被りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、
襷がけで荷物の世話を
焼いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も
来てゐる。平岡は縁側で行李の
紐を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し
手伝はないかと云つた。
門野は袴を
脱いで、
尻を端折つて、
重ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ
抱へ込みながら、先生どうです、此
服装は、
笑つちや
不可ませんよと云つた。
翌日、代助が
朝食の
膳に
向つて、例の如く紅茶を
呑んでゐると、
門野が、
洗ひ
立ての
顔を
光らして茶の
間へ這入つて
来た。
「
昨夕は
何時御帰りでした。つい
疲れちまつて、
仮寐をしてゐたものだから、
些とも気が付きませんでした。――
寐てゐる所を御覧になつたんですか、先生も随分
人が
悪いな。全体何時
頃なんです、御帰りになつたのは。
夫迄何所へ
行つて
居らしつた」と
平生の調子で
苦もなく
※舌[#「口+堯」、U+5635、71-2]り立てた。代助は
真面目で、
「君、すつかり
片付迄居て
呉れたんでせうね」と聞いた。
「えゝ、すつかり
片付けちまいました。其代り、
何うも
骨が折れましたぜ。
何しろ、我々の
引越と
違つて、大きな物が
色々あるんだから。
奥さんが
坐敷の
真中へ
立つて、
茫然、
斯う
周囲を
見回してゐた
様子つたら、――随分
可笑なもんでした」
「
少し
身体の具合が
悪いんだからね」
「どうも
左様らしいですね。
色が
何だか
可くないと思つた。平岡さんとは大違ひだ。あの人の体格は
好いですね。
昨夕一所に
湯に入つて驚ろいた」
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本
書いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人
宛で、
先達て送つて呉れた高麗焼の礼状である。一本は仏蘭西に居る
姉婿宛で、タナグラの安いのを
見付けて呉れといふ依頼である。
昼過散歩の
出掛けに、
門野の
室を
覗いたら又
引繰り返つて、ぐう/\寐てゐた。代助は
門野の無邪気な鼻の穴を見て羨ましくなつた。実を云ふと、自分は
昨夕寐つかれないで大変難義したのである。例に
依つて、
枕の
傍へ
置いた
袂時計が、大変大きな
音を
出す。
夫が気になつたので、手を
延ばして、時計を
枕の
下へ押し込んだ。けれども
音は依然として
頭の
中へ
響いて
来る。
其音を
聞きながら、つい、うと/\する
間に、凡ての
外の意識は、全く
暗窖の
裡に
降下した。が、たゞ独り
夜を
縫ふミシンの
針丈が
刻み足に
頭の
中を
断えず
通つてゐた事を自覚してゐた。所が
其音が
何時かりん/\といふ虫の
音に変つて、奇麗な玄関の
傍の
植込みの奥で鳴いてゐる様になつた。――代助は
昨夕の夢を
此所迄
辿つて
来て、睡
眠と
覚醒との
間を
繋ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。
代助は、何事によらず
一度気にかゝり
出すと、
何処迄も気にかゝる男である。しかも自分で其馬鹿
気さ加減の程度を明らかに
見積る丈の脳力があるので、自分の気にかゝり
方が猶
眼に付いてならない。三四年前、平生の自分が
如何にして
夢に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事がある。
夜、蒲団へ這入つて、
好い案排にうと/\し掛けると、あゝ
此所だ、
斯うして
眠るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に
眼が
冴えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら
此所だと思ふ。代助は殆んど毎晩の様に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も
繰り返した。仕舞には自分ながら辟易した。どうかして、此苦痛を逃れ様と思つた。のみならず、つく/″\自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、
暗闇を検査する
為に蝋燭を
点したり、
独楽の運動を吟味する
為に
独楽を
抑へる様なもので、生涯
寐られつこない訳になる。と
解つてゐるが
晩になると又はつと思ふ。
此困難は約一年許りで
何時の
間にか漸く
遠退いた。代助は
昨夕の
夢と此困難とを比較して見て、妙に感じた。正気の
自己の一部分を切り
放して、其儘の
姿として、知らぬ
間に夢の
中へ
譲り渡す方が
趣があると思つたからである。同時に、此作用は
気狂になる時の状態と似て居はせぬかと考へ付いた。代助は今迄、自分は激昂しないから
気狂にはなれないと信じてゐたのである。
それから二三日は、代助も
門野も平岡の消息を
聞かずに
過ごした。
四日目の
午過に代助は
麻布のある
家へ園遊会に呼ばれて
行つた。御客は男女を合せて、
大分来たが、正賓と云ふのは、英国の国会議員とか実業家とかいふ、無暗に脊の高い男と、それから鼻眼鏡をかけた其細君とであつた。これは
中々の美人で、日本抔へ
来るには勿体ない位な容色だが、
何処で買つたものか、
岐阜出来の
絵日傘を得意に
差してゐた。
尤も其日は大変な
好い天気で、広い芝生の
上にフロツクで立つてゐると、もう
夏が
来たといふ感じが、
肩から
脊中へ掛けて
著るしく
起つた位、
空が
真蒼に
透き
通つてゐた。英国の紳士は
顔をしかめて
空を
見て、
実に美くしいと云つた。すると細君がすぐ、ラツヴレイと
答へた。非常に
疳の
高い声で尤も力を入れた挨拶の仕様であつたので、代助は英国の御世辞は、また格別のものだと思つた。
代助も
二言三言此細君から
話しかけられた。が
三分と
経たないうちに、
遣り切れなくなつて、すぐ退却した。あとは、日本服を
着て、わざと島田に
結つた令嬢と、長らく
紐育で商業に従事してゐたと云ふ某が引き受けた。此某は英語を
喋舌る天才を以て自ら任ずる男で、
欠かさず英語会へ出席して、日本人と英語の会話を
遣つて、それから英語で卓上演説をするのを、何よりの
楽みにしてゐる。何か云つては、あとでさも
可笑しさうに、げら/\
笑ふ
癖がある。英国人が時によると
怪訝な
顔をしてゐる。代助はあれ丈は已めたら
可からうと思つた。令嬢も中々
旨い。是は米国婦人を家庭教師に雇つて、英語を使ふ事を研究した、ある物持ちの娘である。代助は、顔より言葉の方が達者だと考へながら、つく/″\感心して聞いてゐた。
代助が
此所へ呼ばれたのは、個人的に
此所の主人や、此英国人夫婦に関係があるからではない。全く自分の
父と
兄との社交的勢力の余波で、招待状が廻つて来たのである。だから、万遍なく方々へ
行つて、好い加減に
頭を
下げて、ぶら/\してゐた。
其中に
兄も
居た。
「やあ、
来たな」と云つた儘、帽子に手も掛けない。
「
何うも、
好い天気ですね」
「あゝ。結構だ」
代助も脊の
低い方ではないが、
兄は一層
高く出来てゐる。其上この五六年来次第に肥満して
来たので、
中々立派に見える。
「
何うです、
彼方へ
行つて、ちと外国人と
話でもしちや」
「いや、
真平だ」と云つて
兄は
苦笑ひをした。さうして大きな
腹にぶら
下がつてゐる
金鎖を
指の
先で
弄つた。
「
何うも外国人は調子が
可いですね。
少し
可すぎる位だ。あゝ
賞められると、天気の方でも是非
好くならなくつちやならなくなる」
「そんなに天気を
賞めてゐたのかい。へえ。少し
暑過ぎるぢやないか」
「
私にも
暑過ぎる」
誠吾と代助は申し合せた様に、白い
手巾を
出して
額を
拭いた。
両人共
重い
絹帽を
被つてゐる。
兄弟は芝生の
外れの
木蔭迄
来て
留つた。近所には
誰もゐない。向ふの方で余興か
何か始まつてゐる。それを、誠吾は、
宅にゐると同じ様な顔をして、遠くから眺めた。
「
兄の様になると、
宅にゐても、客に
来ても同じ心持ちなんだらう。
斯う世の
中に慣れ切つて仕舞つても、楽しみがなくつて、
詰らないものだらう」と思ひながら代助は誠吾の様子を見てゐた。
「
今日は
御父さんは
何うしました」
「
御父さんは
詩の
会だ」
誠吾は相変らず普通の顔で答へたが、代助の方は多少
可笑しかつた。
「
姉さんは」
「御客の接待掛りだ」
また
嫂が
後で不平を云ふ事だらうと考へると、代助は又
可笑しくなつた。
代助は、誠吾の始終
忙しがつてゐる様子を知つてゐる。又その
忙しさの過半は、
斯う云ふ会合から
出来上がつてゐるといふ事実も心得てゐる。さうして、別に
厭な
顔もせず、
一口の不平も
零さず、不規則に酒を飲んだり、
物を
食つたり、女を相手にしたり、してゐながら、
何時見ても
疲れた
態もなく、
噪ぐ気色もなく、物外に平然として、年々肥満してくる技倆に敬服してゐる。
誠吾が待合へ這入つたり、料理茶屋へ
上つたり、晩餐に
出たり、午餐に呼ばれたり、倶楽部に行つたり、新橋に人を送つたり、横浜に人を迎へたり、大磯へ御機嫌伺ひに行つたり、朝から晩迄多勢の集まる所へ顔を
出して、得意にも見えなければ、失意にも思はれない様子は、
斯う云ふ生活に
慣れ
抜いて、
海月が
海に
漂ひながら、
塩水を
辛く感じ得ない様なものだらうと代助は考へてゐる。
其所が代助には難有い。と云ふのは、誠吾は
父と
異つて、嘗て小六※
[#濁点付き小書き平仮名つ、77-6]かしい説法抔を代助に向つて
遣つた事がない。主義だとか、主張だとか、人生観だとか云ふ窮窟なものは、てんで、これつ
許も
口にしないんだから、
有んだか、
無いんだか、殆んど要領を得ない。其代り、此窮窟な主義だとか、主張だとか、人生観だとかいふものを
積極的に
打ち
壊して
懸つた
試もない。実に平凡で
好い。
だが面白くはない。話し相手としては、
兄よりも
嫂の方が、代助に取つて遥かに興味がある。
兄に逢ふと屹度
何うだいと云ふ。以太利に地震があつたぢやないかと云ふ。土耳古の天子が廃されたぢやないかと云ふ。其外、向ふ島の花はもう駄目になつた、横浜にある外国船の
船底に
大蛇が
飼つてあつた、
誰が鉄道で
轢かれた、ぢやないかと云ふ。みんな新聞に出た事
許である。其代り、当らず障らずの材料はいくらでも持つて居る。いつ迄
経つても
種が尽きる様子が見えない。
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。
今日本の小説家では
誰が一番
偉いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし
易い。
斯う云ふ
兄と差し
向ひで話をしてゐると、刺激の乏しい代りには、
灰汁がなくつて、気楽で
好い。たゞ朝から晩迄
出歩いてゐるから滅多に
捕まへる事が
出来ない。
嫂でも、誠太郎でも、縫子でも、
兄が
終日宅に居て、三度の食事を家族と共に
欠かさず
食ふと、却つて
珍らしがる位である。
だから
木蔭に立つて、
兄と
肩を
比べた
時、代助は丁度
好い機会だと思つた。
「
兄さん、
貴方に少し
話があるんだが。
何時か
暇はありませんか」
「
暇」と繰り
返した誠吾は、
何にも説明せずに笑つて見せた。
「
明日の
朝は
何うです」
「
明日の
朝は
浜迄
行つて
来なくつちやならない」
「
午からは」
「
午からは、会社の方に居る事はゐるが、
少し相談があるから、
来ても
緩くり
話しちやゐられない」
「ぢや
晩なら
宜からう」
「
晩は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を
明日の
晩帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
代助は
口を
尖がらかして、
兄を
凝と見た。さうして
二人で笑ひ出した。
「そんなに
急ぐなら、
今日ぢや、
何うだ。
今日なら
可い。久し
振りで一所に
飯でも
食はうか」
代助は賛成した。所が
倶楽部へでも
行くかと思ひの
外、誠吾は
鰻が
可からうと云ひ出した。
「
絹帽で
鰻屋へ行くのは
始てだな」と代助は逡巡した。
「
何構ふものか」
二人は園遊会を辞して、
車に乗つて、
金杉橋の
袂にある
鰻屋へ
上つた。
其所は
河が流れて、
柳があつて、古風な
家であつた。
黒くなつた
床柱の
傍の
違ひ
棚に、
絹帽を
引繰返しに、二つ
並べて置いて見て、代助は妙だなと
云つた。然し
明け
放した二階の
間に、たつた
二人で
胡坐をかいてゐるのは、園遊会より却つて
楽であつた。
二人は
好い
心持に酒を
飲んだ。
兄は
飲んで、
食つて、
世間話をすれば其
外に用はないと云ふ
態度であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を
忘れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り
掛つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間
三千代から
頼まれた金策の件である。
実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし
過ぎて、其尻を
兄になすり付けた覚はある。其時
兄は叱るかと思ひの
外、さうか、困り者だな、
親爺には内々で置けと云つて
嫂を
通して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には
一口の
小言も云はなかつた。代助は其時から、
兄に恐縮して仕舞つた。
其後小遣に
困る事はよくあるが、困るたんびに
嫂を
痛めて事を済ましてゐた。従つて
斯う云ふ事件に関して
兄との交渉は、まあ初対面の様なものである。
代助から見ると、誠吾は
蔓のない
薬鑵と同じことで、
何処から手を出して
好いか
分らない。然しそこが代助には興味があつた。
代助は
世間話の
体にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\
話し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が
金を
借りに
来た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、
私も気の毒だから、
何うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。
左様かい」
「
何うでせう」
「
御前金が
出来るのかい」
「
私や一文も
出来やしません。
借りるんです」
「
誰から」
代助は始めから
此所へ
落す
積だつたんだから、
判然した調子で、
「
貴方から借りて
置かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の
顔を見た。
兄は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御
廃しよ」と答へた。
誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない
許ではない、
返す
返さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には
放つて置けば
自から
何うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて
住んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ
息子を
頼まれて
宅へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、
前以て国から送つてある学資も旅費も藤野が
使ひ
込んでゐると云ふので、一時の繰り合せを
頼みに
来た事がある。無論誠吾が
直に逢つたのではないが、
妻に云ひ
付けて
断らした。夫でも
其子は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を
済ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる
貸家の
敷金を、つい
使つて仕舞つて、
借家人が
明日引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて
来た事がある。然し是も
断らした。夫でも
別に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ
斯んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、
姉さんが
蔭へ
廻つて
恵んでゐるに
違ない。ハヽヽヽ。
兄さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「
何、そんな事があるものか」
誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて
口へ持つて行つた。
其日誠吾は
中々金を貸して
遣らうと云はなかつた。代助も
三千代が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ
泣言は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない
兄を、
其所迄
連れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を
口にすれば、
兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、
彼方へ
行つたり
此方へ
来たりして、飲んでゐた。飲みながらも、
親爺の所謂熱誠が足りないとは、
此所の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が
気障だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど
気障なものはないと自覚してゐる。
兄には其辺の消息がよく
解つてゐる。だから此手で
遣り
損なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を
落す事になる。と気が
付いてゐる。
代助は飲むに従つて、段々
金を
遠ざかつて
来た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、
旨く
飲めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ
段になつて、思ひ出した様に、
金は借りなくつても
好いから、平岡を
何処か
使つて
遣つて呉れないかと
頼んだ。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\
飯を掻き込んでゐた。
明日眼が
覚めた時、代助は
床の
中でまづ第一番に斯う考へた。
「
兄を
動かすのは、同じ
仲間の実業家でなくつちや駄目だ。単に
兄弟の
好丈では
何うする事も出来ない」
斯う考へた様なものゝ、別に
兄を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今
茲で平岡の
為に
判を
押して、連借でもしたら、
何うするだらう。矢っ張り
彼の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。
兄は
其所迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の
為に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、
兄が
其所を見抜いて
金を貸さないとすると、
一寸意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――
其所迄
来て、代助は自分ながら、あんまり
性質が能くないなと
心のうちで苦笑した。
けれども、唯
一つ
慥な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
斯う考へながら、代助は
床を出た。
門野は
茶の
間で、
胡坐をかいて新聞を読んでゐたが、
髪を
濡らして
湯殿から
帰つて
来る代助を見るや否や、急に
坐三昧を
直して、新聞を畳んで
坐蒲団の
傍へ
押し
遣りながら、
「
何うも『
煤烟』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。
「君読んでるんですか」
「えゝ、
毎朝読んでます」
「
面白いですか」
「
面白い様ですな。どうも」
「
何んな所が」
「
何んな所がつて。さう
改たまつて
聞かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が
出てゐる様ぢやありませんか」
「さうして、肉の
臭ひがしやしないか」
「しますな。大いに」
代助は
黙つて仕舞つた。
紅茶々碗を持つた儘、書斎へ引き取つて、椅子へ
腰を懸けて、
茫然庭を
眺めてゐると、
瘤だらけの
柘榴の
枯枝と、
灰色の
幹の
根方に、
暗緑と
暗紅を
混ぜ
合はした様な
若い芽が、一面に吹き
出してゐる。代助の
眼には
夫がぱつと
映じた丈で、すぐ刺激を失つて仕舞つた。
代助の
頭には今具体的な何物をも
留めてゐない。恰かも
戸外の天気の様に、それが
静かに
凝と
働らいてゐる。が、其底には
微塵の如き本体の分らぬものが無数に押し合つてゐた。
乾酪の
中で、いくら
虫が
動いても、
乾酪が
元の位置にある
間は、気が付かないと同じ事で、代助も此
微震には殆んど自覚を有してゐなかつた。たゞ、それが生理的に反射して
来る
度に、椅子の
上で、少し
宛身体の位置を
変へなければならなかつた。
代助は近頃流行語の様に人が使ふ、現代的とか不安とか云ふ言葉を、あまり
口にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云はずと知れてゐると考へたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分丈で信じて居たからである。
代助は露西亜文学に
出て
来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈してゐる。仏蘭西文学に出てくる不安を、有夫姦の多いためと見てゐる。ダヌンチオによつて代表される以太利文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断してゐる。だから日本の文学者が、好んで不安と云ふ
側からのみ社会を
描き出すのを、舶来の
唐物の様に見傚してゐる。
理智的に物を疑ふ方の不安は、学校時代に、
有つたにはあつたが、ある所迄進行して、ぴたりと
留つて、夫から逆戻りをして仕舞つた。丁度天へ向つて石を
抛げた様なものである。代助は今では、なまじい石抔を抛げなければ
可かつたと思つてゐる。禅坊さんの所謂
大疑現前抔と云ふ境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国である。代助は、
斯う真卒性急に万事を疑ふには、あまりに
利口に生れ
過ぎた男である。
代助は
門野の
賞めた「煤烟」を読んでゐる。
今日は紅茶々碗の
傍に新聞を置いたなり、
開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな
金に不自由のない男だから、
贅沢の
結果あゝ云ふ
悪戯をしても無理とは思へないが、「煤烟」の主人公に至つては、そんな余地のない程に
貧しい人である。それを
彼所迄押して行くには、全く
情愛の力でなくつちや出来る筈のものでない。所が、要吉といふ人物にも、
朋子といふ女にも、
誠の愛で、已むなく社会の
外に押し流されて行く様子が見えない。彼等を
動かす内面の力は何であらうと考へると、代助は不審である。あゝいふ境遇に居て、あゝ云ふ事を断行し得る主人公は、恐らく不安ぢやあるまい。これを断行するに
躇する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があつて然るべき筈だ。代助は独りで考へるたびに、自分は
特殊人だと思ふ。けれども要吉の
特殊人たるに至つては、自分より遥かに
上手であると承認した。それで
此間迄は好奇心に
駆られて「煤烟」を読んでゐたが、昨今になつて、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思はれ出したので、
眼を通さない事がよくある。
代助は椅子の
上で、
時々身を
動かした。さうして、自分では飽く迄落ち付いて居ると思つてゐた。やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、
例の通り
読書に取りかゝつた。約二時間ばかりは故障なく進行したが、ある
頁の中頃まで
来て急に
休めて頬杖を
突いた。さうして、
傍にあつた新聞を取つて、「煤烟」を読んだ。呼吸の合はない事は同じ事である。それから
外の雑報を読んだ。大隈伯が高等商業の紛擾に関して、大いに騒動しつゝある生徒側の味方をしてゐる。それが中々強い言葉で
出てゐる。代助は斯う云ふ記事を
読むと、是は大隈伯が早稲田へ生徒を呼び寄せる
為の方便だと解釈する。代助は新聞を放り
出した。
午過になつてから、代助は自分が落ち付いてゐないと云ふ事を、漸く自覚し
出した。
腹のなかに
小さな
皺が無数に
出来て、
其皺が絶えず、
相互の位地と、
形状とを
変へて、一面に
揺いてゐる様な気持がする。代助は
時々斯う云ふ情調の支配を受ける事がある。さうして、此種の経験を、今日迄、単なる生理上の現象としてのみ取り扱つて居つた。代助は
昨日兄と一所に
鰻を
食つたのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行て
見やうかと思ひ
出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかつた。婆さんに着物を
出さして、
着換へやうとしてゐる所へ、
甥の誠太郎が
来た。帽子を手に
持つた儘、恰好の
好い
円い
頭を、代助の頭へ出して、
腰を
掛けた。
「もう学校は引けたのかい。
早過ぎるぢやないか」
「ちつとも
早かない」と云つて、
笑ひながら、代助の
顔を見てゐる。代助は
手を
敲いて
婆さんを
呼んで、
「誠太郎、チヨコレートを
飲むかい」と聞いた。
「
飲む」
代助はチヨコレートを二杯命じて置いて誠太郎に
調戯だした。
「誠太郎、御前はベースボール
許遣るもんだから、
此頃手が大変大きくなつたよ。
頭より手の方が大きいよ」
誠太郎はにこ/\して、右の手で、
円い
頭をぐる/″\
撫でた。実際大きな手を
持つてゐる。
「
叔父さんは、
昨日御父さんから
奢つて
貰つたんですつてね」
「あゝ、御馳走になつたよ。
御蔭で
今日は
腹具合が
悪くつて
不可ない」
「
又神経だ」
「
神経ぢやない本当だよ。
全たく
兄さんの
所為だ」
「だつて
御父さんは
左様云つてましたよ」
「
何て」
「
明日学校の帰りに代助の所へ廻つて何か御馳走して
貰へつて」
「へえゝ、
昨日の御礼にかい」
「えゝ、
今日は
己が
奢つたから、
明日が
向ふの
番だつて」
「それで、わざ/\
遣つて
来たのかい」
「えゝ」
「
兄の子丈あつて、
中々抜けないな。だから今チヨコレートを
飲まして
遣るから
可いぢやないか」
「チヨコレートなんぞ」
「
飲まないかい」
「
飲む事は
飲むけれども」
誠太郎の注文を
能く
聞いて見ると、相撲が始まつたら、回向院へ
連れて行つて、正面の最上等の所で見物させろといふのであつた。代助は
快よく引き受けた。すると誠太郎は
嬉しさうな
顔をして、
突然、
「
叔父さんはのらくらして居るけれども実際
偉いんですつてね」と云つた。代助も是には
一寸呆れた。仕方なしに、
「
偉いのは知れ切つてるぢやないか」と答へた。
「だつて、
僕は
昨夕始めて
御父さんから
聞いたんですもの」と云ふ弁解があつた。
誠太郎の云ふ所によると、
昨夕兄が
宅へ帰つてから、
父と
嫂と三人して、代助の合評をしたらしい。小供のいふ事だから、能く
分らないが、比較的
頭が
可いので、能く断片的に其時の言葉を覚えてゐる。
父は代助を、どうも見込がなささうだと評したのださうだ。
兄は之に対して、あゝ
遣つてゐても、あれで中々
解つた所がある。当分
放つて
置くが
可い。
放つて
置いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か
遣るだらうと弁護したのださうだ。すると
嫂がそれに賛成して、一週間許り前
占者に見てもらつたら、
此人は屹度人の
上に立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのださうだ。
代助はうん、それから、と云つて、始終面白さうに聞いて居たが、
占者の
所へ
来たら、本当に可笑しくなつた。やがて
着物を
着換て、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の
家を
訪ねた。
平岡の
家は、此十数年来の物価騰
貴に
伴れて、中流社会が次第々々に
切り
詰められて
行く有様を、
住宅の
上に
善く代表してゐる、尤も粗悪な
見苦しき
構へである。とくに代助には
左様見えた。
門と玄関の
間が
一間位しかない。
勝手口も其通りである。さうして裏にも、
横にも同じ様な窮屈な
家が
建てられてゐる。東京市の貧弱なる膨脹に
付け
込んで、最低度の資本家が、なけなしの
元手を二割乃至三割の
高利に
廻さうと
目論で、あたぢけなく
拵へ
上げた、生存競争の
記念である。
今日の東京市、ことに
場末の東京市には、至る所に
此種の
家が散点してゐる、のみならず、
梅雨に
入つた
蚤の如く、日毎に、格外の増加律を以て殖えつゝある。代助はかつて、是を敗亡の
発展と
名づけた。さうして、之を目下の日本を代表する最好の
象徴とした。
彼等のあるものは、
石油缶の
底を
継ぎ
合はせた四角な
鱗で蔽はれてゐる。彼等の一つを借りて、
夜中に
柱の割れる
音で
眼を
醒まさないものは
一人もない。彼等の戸には必ず
節穴がある。彼等の
襖は必ず
狂ひが出ると極つてゐる。資本を
頭の
中へ
注ぎ
込んで、
月々其
頭から利息を取つて生活しやうと云ふ
人間は、みんな
斯ういふ所を
借りて
立て
籠つてゐる。平岡も其
一人である。
代助は
垣根の
前を通るとき、先づ其
屋根に
眼が
付いた。さうして、どす
黒い瓦の色が妙に
彼の心を刺激した。代助には此
光のない
土の
板が、いくらでも
水を
吸ひ
込む様に思はれた。玄関前に、
此間引越のときに
解いた
菰包の
藁屑がまだ
零れてゐた。
座敷へ
通ると、平岡は机の
前へ
坐つて、
長い
手紙を
書き
掛けてゐる所であつた。
三千代は
次の
部屋で簟笥の
環をかたかた鳴らしてゐた。
傍に
大きな
行李が
開けてあつて、
中から
奇麗な
長繻絆の
袖が
半分出かかつてゐた。
平岡が、失敬だが
鳥渡待つて呉れと云つた
間に、代助は
行李と
長繻絆と、
時々行李の
中へ
落ちる
繊い手とを見てゐた。
襖は
明けた儘
閉て
切る様子もなかつた。が三千代の顔は
陰になつて見えなかつた。
やがて、平岡は
筆を
机の上へ
抛げ付ける様にして、
座を
直した。
何だか込み入つた事を懸命に書いてゐたと見えて、耳を
赤くしてゐた。
眼も赤くしてゐた。
「
何うだい。
此間は
色々難有う。其
後一寸礼に
行かうと思つて、まだ
行かない」
平岡の言葉は
言訳と云はんより寧ろ挑
戦の調子を帯びてゐる様に
聞こえた。
襯衣も
股引も
着けずにすぐ
胡坐をかいた。
襟を
正しく
合せないので、
胸毛が少し
出ゝゐる。
「まだ
落ち
付かないだらう」と代助が聞いた。
「落ち付く
所か、
此分ぢや生涯落ち付きさうもない」と、いそがしさうに烟草を吹かし
出した。
代助は平岡が
何故こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に
中るのぢやない、つまり
世間に
中るんである、否
己れに
中つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ
腹が立たない丈である。
「
宅の都合は、どうだい。
間取の具合は
可ささうぢやないか」
「うん、まあ、
悪くつても
仕方がない。気に入つた
家へ這入らうと思へば、
株でも
遣るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な
家はみんな株屋が
拵へるんだつて云ふぢやないか」
「
左様かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な
家が一軒
立つと、其
陰に、どの位沢山な
家が
潰れてゐるか知れやしない」
「だから
猶住み
好いだらう」
平岡は
斯う云つて大いに
笑つた。
其所へ
三千代が
出て
来た。先達てはと、
軽く代助に挨拶をして、手に
持つた赤いフランネルのくる/\と
巻いたのを、
坐ると共に、
前へ
置いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤※
[#小書き平仮名ん、94-8]坊の
着物なの。
拵へた儘、つい、まだ、
解かずにあつたのを、今
行李の
底を
見たら
有つたから、
出して
来たんです」と云ひながら、
附紐を
解いて
筒袖を左右に
開いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く
壊して雑巾にでもして仕舞へ」
三千代は
小供の
着物を膝の
上に
乗せた儘、返事もせずしばらく
俯向いて眺めてゐたが、
「
貴方のと
同じに
拵へたのよ」と云つて
夫の方を見た。
「
是か」
平岡は
絣の
袷の
下へ、ネルを
重ねて、
素肌に
着てゐた。
「
是はもう
不可ん。
暑くて
駄目だ」
代助は
始めて、
昔の
平岡を
当面に
見た。
「
袷の
下にネルを
重ねちやもう
暑い。繻絆にすると
可い」
「うん、面倒だから
着てゐるが」
「洗濯をするから御
脱ぎなさいと云つても、
中々脱がないのよ」
「いや、もう
脱ぐ、
己も少々
厭になつた」
話は
死んだ
小供の事をとう/\
離れて仕舞つた。さうして、
来た時よりは幾分か空気に
暖味が
出来た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ
出した。
三千代も
支度をするから、
緩りして
行つて
呉れと
頼む様に
留めて、
次の
間へ
立つた。代助は其
後姿を見て、どうかして
金を
拵へてやりたいと思つた。
「君
何所か奉公
口の見当は
付いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な
無い様なもんだ。
無ければ当分
遊ぶ丈の事だ。
緩くり
探してゐるうちには
何うかなるだらう」
云ふ事は落ち
付いてゐるが、代助が
聞くと却つて
焦つて
探してゐる様にしか取れない。代助は、
昨日兄と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、
構へてゐる向ふの体面を、わざと
此方から毀損する様な気がしたからである。
其上金の事に
付いては平岡からはまだ
一言の相談も受けた事もない。だから
表向挨拶をする必要もないのである。たゞ、
斯うして
黙つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な
奴だと
悪く思はれるに
極つてゐる。けれども
今の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な
人間ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ
回してゐた。
渡金を
金に通用させ様とする
切ない工面より、真鍮を真鍮で
通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が
楽である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て
甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を
来たしたといふ様な、小説じみた歴史を
有つてゐる
為ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に
渡金を自分で剥がして
来たに
過ぎない。代助は此
渡金の大半をもつて、
親爺が
捺摺り付けたものと信じてゐる。其
時分は
親爺が
金に見えた。多くの先輩が
金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな
金に見えた。だから自分の
渡金が
辛かつた。早く
金になりたいと
焦つて見た。所が、
他のものゝ
地金へ、自分の眼光がぢかに
打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ
出した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には
兄と喧嘩をしても、
父と口論をしても、平岡の
為に計つたらう、又其
計つた通りを平岡の所へ
来て
事々しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で
已めて、あとは色々な雑談に時を
過ごすうちに酒が
出た。三千代が徳利の
尻を持つて御酌をした。
平岡は
酔ふに従つて、段々
口が多くなつて
来た。
此男はいくら酔つても、
中/\平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の
悦楽を帯びて
来る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的
真面目な問題を持ち出して、相手と議論を上下して
楽し
気に見える。代助は其昔し、
麦酒の
壜を
互の
間に
並べて、よく平岡と
戦つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が
斯う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで
本音を
吐かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。
今日の
二人の境界は其
時分とは、大分
離れて
来た。さうして、其離れて、
近づく
路を見出し
悪い事実を、双方共に腹の
中で心得てゐる。東京へ
着いた
翌日、三年振りで邂逅した
二人は、
其時既に、
二人ともに
何時か
互の
傍を
立退いてゐたことを発見した。
所が
今日は妙である。
酒に
親しめば
親しむ程、平岡が
昔の調子を
出して
来た。
旨い局所へ酒が
回つて、
刻下の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の
騒がしさやらを全然
痲痺して
[#「痲痺して」は底本では「痳痺して」]仕舞つた様に見える。平岡の談話は
一躍して
高い平面に飛び
上がつた。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても
働らいてゐる。又是からも
働らく
積だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、
其君は何も
為ないぢやないか。君は世の
中を、
有の
儘で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは
嘘だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに
違ない。僕は僕の意志を現実社会に
働き
掛けて、其現実社会が、僕の意志の
為に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の
価値を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、
頭の
中の世界と、
頭の
外の世界を
別々に
建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。
何故と云つて見給へ。僕のは其不調和を
外へ
出した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、
外面に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の
度は
少ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや
不可ないんだらう」
「
何笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
「そりや、
嘘だ。ねえ
三千代」
三千代は
先刻から
黙つて
坐つてゐたが、
夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。
「本当でせう、
三千代さん」と云ひながら、代助は
盃を
出して、酒を
受けた。
「そりや
嘘だ。おれの細君が、いくら
弁護したつて、
嘘だ。尤も君は
人を
笑つても、自分を笑つても、両方共
頭の
中で
遣る人だから、
嘘か本当か其辺はしかと
分らないが……」
「冗談云つちや
不可ない」
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや
昔の
君はさうぢや
無かつた。昔の君はさうぢや
無かつたが、今の君は大分
違つてるよ。ねえ
三千代。
長井は
誰が見たつて、大得意ぢやないか」
「
何だか
先刻から、
傍で
伺がつてると、
貴方の方が余っ程御得意の様よ」
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。
三千代は
燗徳利を持つて
次の間へ
立つた。
平岡は膳の
上の
肴を
二口三口、
箸で突つついて、下を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした
眼を上げて、云つた。――
「
今日は久し
振りに
好い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり
好い心持にならないね。
何うも
怪しからん。僕が
昔の平岡常次郎になつてるのに、君が
昔の長井代助にならないのは
怪しからん。是非なり
給へ。さうして、大いに
遣つて
呉れ
給へ。
僕も
是から
遣る。から
君も
遣つて呉れ
給へ」
代助は此言葉のうちに、今の自己を
昔に
返さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を
認めた。さうして、それに
動かされた。けれども一方では、
一昨日、
食つた
麺麭を今
返せと
強請られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、
頭は大抵
確かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが
厭になつた。
「君、
頭は
確かい」と聞いた。
「
確だとも。君さへ
確なら
此方は
何時でも
確だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――
「君はさつきから、
働らかない/\と云つて、大分
僕を攻撃したが、僕は
黙つてゐた。攻撃される通り僕は
働らかない
積だから
黙つてゐた」
「
何故働かない」
「
何故働かないつて、そりや僕が
悪いんぢやない。つまり
世の
中が
悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから
働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏
震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、
何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ
許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、
奥行を
削つて、一等国丈の
間口を
張つちまつた。なまじい張れるから、なほ
悲惨なものだ。
牛と競争をする
蛙と同じ事で、もう君、
腹が
裂けるよ。其影響はみんな我々個人の
上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、
頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の
今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の
困憊と、身体の衰弱とは不幸にして
伴なつてゐる。のみならず、道徳の
敗退も一所に
来てゐる。日本国中
何所を見渡したつて、
輝いてる
断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其
間に立つて僕
一人が、何と云つたつて、何を
為たつて、仕様がないさ。僕は元来
怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から
怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば
遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち
勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て
来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂
有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其
中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで
外の人を、
此方の考へ通りにするなんて、到底
出来た話ぢやありやしないもの――」
代助は
一寸息を
継いだ。さうして、
一寸窮屈さうに控えてゐる
三千代の方を見て、御世辞を
遣つた。
「
三千代さん。どうです、
私の
考は。随分
呑気で
宜いでせう。賛成しませんか」
「
何だか厭世の様な
呑気の様な妙なのね。
私よく
分らないわ。けれども、少し
胡麻化して入らつしやる様よ」
「へええ。
何処ん
所を」
「
何処ん
所つて、ねえ
貴方」と
三千代は
夫を見た。平岡は
股の
上へ
肱を
乗せて、
肱の上へ
顎を
載せて
黙つてゐたが、何にも云はずに
盃を代助の前に
出した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。
代助は
盃へ
唇を
付けながら、是から
先はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ
直させる
為の弁論でもなし、又平岡から意見されに
来た訪問でもない。
二人はいつ迄
立つても、
二人として
離れてゐなければならない運命を
有つてゐるんだと、始めから
心付てゐるから、議論は能い加減に引き
上げて、
三千代の
仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて
来やうと試みた。
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。
胸毛の
奥迄赤くなつた
胸を突き
出して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に
当つて、現実と
悪闘してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が
貧弱だつて、
弱虫だつて、
働らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の
中が
堕落したつて、世の
中の堕落に気が
付かないで、其
中に活動するんだからね。君の様な
暇人から見れば日本の
貧乏や、僕等の
堕落が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて
口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。
忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
平岡は
※舌[#「口+堯」、U+5635、104-10]つてるうち、自然と此比喩に
打つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、
其所で得意に一段落をつけた。代助は
仕方なしに
薄笑ひをした。すると平岡はすぐ
後を
附加へた。
「君は
金に不自由しないから
不可ない。生活に
困らないから、
働らく気にならないんだ。要するに
坊ちやんだから、
品の
好い様なこと
許かり云つてゐて、――」
代助は少々平岡が
小憎しくなつたので、突然中途で相手を
遮ぎつた。
「
働らくのも
可いが、
働らくなら、生活以上の
働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな
麺麭を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な
眼をして、代助の
顔を
窺つた。さうして、
「
何故」と
聞いた。
「
何故つて、生活の
為めの労力は、労力の
為めの労力でないもの」
「そんな論理学の
命題見た様なものは
分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり
食ふ
為めの職業は、誠実にや出来
悪いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には
働らけるかも知れないが誠実には
働らき
悪いよ。
食ふ
為の
働らきと云ふと、つまり
食ふのと、
働らくのと
何方が目的だと思ふ」
「無論
食ふ方さ」
「夫れ見給へ。
食ふ方が目的で
働らく方が方便なら、
食ひ
易い様に、
働らき
方を
合せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を
働らいたつて、又どう
働らいたつて、構はない、只
麺麭が得られゝば
好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、
何うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では
極上品な例で説明してやらう。
古臭い
話だが、ある本で
斯んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の
拵へたものを
食つて見ると
頗る
不味かつたんで、大変
小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を
食はして、
叱られたものだから、
其次からは二流もしくは三流の料理を
主人にあてがつて、始終
褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の
為に働らく事は
抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために
働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて
左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる
働らきでなくつちや、
真面目な仕事は
出来るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや
益遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか
話が、
元へ戻つちまつた。是だから議論は
不可ないよ」と云つて、代助は
頭を
掻いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。
代助は
風呂へ
這入た。
「先生、
何うです、
御燗は。もう少し
燃させませうか」と
門野が
突然入り
口から
顔を
出した。
門野は
斯う云ふ事には
能く
気の
付く男である。代助は、
凝と
湯に
浸つた儘、
「
結構」と答へた。すると、
門野が、
「ですか」と云ひ
棄てゝ、茶の
間の方へ引き
返した。代助は
門野の返事のし具合に、いたく興味を
有つて、独りにや/\と笑つた。代助には
人の感じ得ない事を感じる神経がある。それが
為時々苦しい
思もする。ある時、友達の
御親爺さんが死んで、葬式の
供に立つたが、不図其友達が装束を
着て、青竹を
突いて、
柩のあとへ
付いて行く
姿を見て
可笑しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の
父から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく
父の顔を見たら、急に吹き
出したくなつて弱り
抜いた事がある。自宅に風呂を
買はない時分には、つい近所の
銭湯に行つたが、
其所に
一人の
骨骼の逞ましい
三助がゐた。是が行くたんびに、
奥から飛び
出して
来て、
流しませうと云つては
脊中を
擦る。代助は
其奴に
体をごし/\
遣られる
度に、どうしても、
埃及人に
遣られてゐる様な気がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の
心臓の鼓動を、増したり、
減したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する
癖のある代助は、ためしに
遣つて見たくなつて、
一日に二三回位
怖々ながら
試してゐるうちに、
何うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。
湯のなかに、
静かに
浸つてゐた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の
上へ持つて行つたが、どん/\と云ふ
命の
音を二三度聞くや否や、忽ちウエーバーを思ひ
出して、すぐ
流しへ
下りた。さうして、
其所に
胡坐をかいた儘、茫然と、自分の
足を見詰めてゐた。すると其
足が変になり始めた。どうも自分の胴から
生えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、
其所に無作法に
横はつてゐる様に思はれて
来た。さうなると、今迄は気が
付かなかつたが、
実に見るに堪えない程醜くいものである。毛が
不揃に
延びて、
青い
筋が
所々に
蔓つて、如何にも不思議な動物である。
代助は又
湯に這入つて、平岡の云つた通り、全たく
暇があり
過ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から
出て、鏡に自分の姿を
写した時、又平岡の言葉を思ひ
出した。幅の
厚い西洋
髪剃で、
顎と頬を
剃る
段になつて、其
鋭どい
刃が、
鏡の
裏で
閃く色が、一種むづ
痒い様な気持を
起さした。
是が
烈敷なると、高い塔の上から、遥かの
下を
見下すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り
終つた。
茶の
間を
抜け様とする拍子に、
「
何うも先生は
旨いよ」と
門野が
婆さんに
話してゐた。
「
何が
旨いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。
門野は、
「やあ、もう
御上りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が
旨いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ
帰つて、
椅子に
腰を掛けて休息してゐた。
休息しながら、
斯う
頭が妙な方面に鋭どく
働き
出しちや、
身体の毒だから、
些と旅行でもしやうかと思つて見た。
一つは近来持ち
上つた結婚問題を
避けるに都合が
好いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に
掛つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り
三千代の事が気にかかるのである。代助は
其所迄押して
来ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。
代助が
三千代と
知り
合になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の
頃であつた。代助は長井
家の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて
出た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。
色合から云ふと、もつと
地味で、
気持から云ふと、もう少し
沈んでゐた。其頃、代助の学友に
菅沼と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく
附合つてゐた。
三千代は
其妹である。
此
菅沼は東京近県のもので、学生になつた二年目の
春、修業の
為と号して、
国から妹を
連れて
来ると同時に、今迄の下宿を引き
払つて、
二人して
家を持つた。其時
妹は
国の高等女学校を卒業した
許で、
年は
慥十八とか云ふ
話であつたが、派出な半襟を
掛けて、
肩上をしてゐた。さうして程なくある女学校へ
通ひ
始めた。
菅沼の
家は
谷中の
清水町で、
庭のない代りに、椽側へ
出ると、上野の
森の
古い
杉が
高く見えた。それがまた、
錆た
鉄の様に、
頗る
異しい
色をしてゐた。
其一本は殆んど
枯れ
掛かつて、
上の方には
丸裸の
骨許残つた所に、
夕方になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には
若い
画家が
住んでゐた。
車もあまり通らない細い横町で、至極閑静な
住居であつた。
代助は
其所へ
能く遊びに
行つた。始めて
三千代に
逢つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて
来た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を
持つて
出る丈であつた。其
癖狭い
家だから、
隣の
室にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と
話しながら、
隣の
室に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に
行かなかつた。
三千代と
口を
利き
出したのは、どんな
機会であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて
居ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に
厭いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦
口を
利き
出してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、
二人はすぐ
心安くなつて仕舞つた。
平岡も、代助の様に、よく
菅沼の
家へ
遊びに
来た。あるときは
二人連れ
立つて、
来た事もある。さうして、代助と前後して、
三千代と懇意になつた。三千代は兄と此
二人に
食付いて、時々池の
端抔を散歩した事がある。
四人は此関係で
約二年足らず
過ごした。すると
菅沼の卒業する
年の
春、
菅沼の
母と云ふのが、
田舎から
遊びに
出て
来て、しばらく
清水町に
泊つてゐた。此
母は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日
寐起する例になつてゐたんだが、其時は帰る
前日から
熱が
出だして、全く
動けなくなつた。それが一週間の後
窒扶斯と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の
為附添として一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり
返して、とう/\死んで仕舞つた。それ
許ではない。
窒扶斯が、見舞に
来た
兄に伝染して、是も程なく
亡くなつた。
国にはたゞ
父親が
一人残つた。
それが
母の死んだ時も、
菅沼の死んだ時も
出て
来て、始末をしたので、生前に関係の
深かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を
連れて国へ帰る時は、娘とともに
二人の下宿を別々に
訪ねて、
暇乞旁礼を
述べた。
其年の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其
間に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に
連なつて貰つたのだが、
身体を
動かして、
三千代の方を
纏めたものは代助であつた。
結婚して
間もなく
二人は東京を去つた。国に
居た
父は思はざるある事情の
為に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。
三千代は
何方かと云へば、
今心細い境遇に居る。どうかして、此東京に
落付いてゐられる様にして
遣りたい気がする。代助はもう一返
嫂に相談して、
此間の
金を調達する工面をして見やうかと思つた。又
三千代に逢つて、もう少し立ち入つた事情を
委しく聞いて見やうかと思つた。
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に
洗ひ
浚い
※舌[#「口+堯」、U+5635、112-13]り
散らす女ではなし、よしんば
何うして、そんな
金が
要る様になつたかの事情を、詳しく
聞き得たにした所で、
夫婦の
腹の
中なんぞは容易に
探られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、
彼の本当に知りたい点は、却つて
此所に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、
何故に
金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても
聞かなくつても、三千代に
金を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として
金を
拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を
有つてゐなかつたのである。
其上平岡の留守へ行き
中てゝ、
今日迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が
家にゐる以上は、詳しい
話の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄
真に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に
見栄を張つてゐる。
見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ
嫂に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄
嫂にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、
斯う短兵急に
痛め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか
持つてゐるから、或は出来ないとも限らない。
夫で駄目なら、又高利でも
借りるのだが、代助はまだ
其所迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、
一層此方から進んで、直接に
三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、
頭の
中に
潜んでゐた。
生暖かい
風の
吹く日であつた。
曇つた天気が
何時迄も
無精に
空に
引掛つて、
中々暮れさうにない四時過から
家を
出て、
兄の
宅迄電車で行つた。
青山御所の
少し手前迄
来ると、電車の
左側を
父と
兄が
綱曳で
急がして
通つた。
挨拶をする
暇もないうちに
擦れ
違つたから、向ふは元より気が
付かずに
過ぎ去つた。代助は
次の停留所で
下りた。
兄の
家の門を這入ると、
客間でピアノの
音がした。代助は
一寸砂利の
上に立ち
留つたが、すぐ左へ切れて勝手
口の方へ廻つた。
其所には格子の
外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな
口を革
紐で
縛られて
臥てゐた。代助の足音を
聞くや否や、ヘクターは毛の長い
耳を
振つて、
斑な
顔を急に
上げた。さうして尾を
揺かした。
入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の
上に立ちながら、
二言三言愛嬌を云つた
後、すぐ西洋
間の方へ
来て、
戸を
明けると、
嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を
動かして居た。
其傍に
縫子が
袖の長い着物を
着て、例の
髪を肩迄掛けて
立つてゐた。代助は
縫子の
髪を見るたんびに、ブランコに
乗つた縫子の
姿を思ひ
出す。
黒い
髪と、
淡紅色のリボンと、それから黄色い
縮緬の帯が、
一時に風に吹かれて
空に流れる
様を、
鮮かに
頭の
中に刻み込んでゐる。
母子は同時に
振り向いた。
「おや」
縫子の方は、
黙つて
馳けて
来た。さうして、代助の手をぐい/\
引張つた。代助はピヤノの
傍迄
来た。
「如何なる名人が
鳴らしてゐるのかと思つた」
梅子は何にも云はずに、
額に八の字を
寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、
向ふから
斯う云つた。
「代さん、
此所ん
所を
一寸遣つて
見せて
下さい」
代助は
黙つて
嫂と入れ
替つた。
譜を見ながら、両方の
指をしばらく奇麗に
働かした
後、
「
斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。
それから三十分程の
間、
母子して
交る/″\楽器の前に
坐つては、一つ
所を復習してゐたが、やがて梅子が、
「もう
廃しませう。
彼方へ
行つて、
御飯でも
食ませう。
叔父さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう
薄暗くなつてゐた。代助は
先刻から、ピヤノの
音を聞いて、
嫂や
姪の白い手の
動く様子を見て、さうして
時々は例の
欄間の
画を
眺めて、
三千代の事も、
金を
借りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を
出る時、振り返つたら、
紺青の
波が
摧けて、白く吹き
返す所
丈が、
暗い
中に
判然見えた。代助は此
大濤の
上に
黄金色の
雲の
峰を一面に
描かした。さうして、其
雲の
峰をよく見ると、
真裸な
女性の
巨人が、
髪を
乱し、身を
躍らして、一団となつて、
暴れ狂つてゐる
様に、
旨く輪廓を
取らした。代助は
ルキイルを
雲に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此
雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの
付かない、
偉な
塊を
脳中に
髣髴して、ひそかに
嬉しがつてゐた。が偖出来
上つて、
壁の
中へ
嵌め込んでみると、想像したよりは
不味かつた。梅子と共に部屋を
出た
時は、此
ルキイルは殆んど見えなかつた。
紺青の波は固より見えなかつた。たゞ白い
泡の大きな
塊が
薄白く見えた。
居間にはもう電燈が
点いてゐた。代助は
其所で、梅子と共に
晩食を
済ました。子供
二人も
卓を共にした。誠太郎に
兄の
部室からマニラを一本
取つて
来さして、
夫を
吹かしながら、雑談をした。やがて、
小供は
明日の
下読をする時間だと云ふので、
母から注意を受けて、自分の
部屋へ引き
取つたので、
後は差し
向になつた。
代助は突然例の
話を
持ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ/\進行を始めた。先づ
父と
兄が
綱曳で
車を
急がして
何所へ行つたのだとか、
此間は
兄さんに御馳走になつたとか、あなたは
何故麻布の園遊会へ
来なかつたのだとか、
御父さんの漢詩は大抵
法螺だとか、
色々聞いたり答へたりして
居るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは
外でもない。
父と
兄が、近来目に
立つ様に、
忙しさうに奔走し始めて、此四五日は
碌々寐るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が
始つたんですと、代助は平気な
顔で聞いて見た。すると、
嫂も普通の調子で、さうですね、
何か
始つたんでせう。
御父さんも、
兄さんも
私には
何にも
仰しやらないから、
知らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか
此間の
御嫁さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて
来た。
今夜も
遅くなる、もし、
誰と
誰が
来たら
何とか
屋へ
来る様に云つて呉れと云ふ電話を
伝へた儘、書生は再び
出て
行つた。代助は又結婚問題に
話が
戻ると面倒だから、時に
姉さん、
些御
願があつて
来たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。
梅子は代助の云ふ事を
素直に
聞いて
居た。代助は凡てを話すに約十分許を
費やした。最後に、
「だから思ひ切つて貸して
下さい」と云つた。すると梅子は
真面目な顔をして、
「さうね。けれども全体
何時返す気なの」と思ひも
寄らぬ事を問ひ返した。代助は
顎の
先を
指で
撮んだ儘、じつと
嫂の
気色を
窺つた。
梅子は益
真面目な
顔をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。
怒つちや
不可ませんよ」
代助は無論
怒つてはゐなかつた。たゞ
姉弟から
斯ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更
返す
気だの、
貰う積りだのと
布衍すればする程馬鹿になる
許だから、
甘んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、
後が大変云ひ
易かつた。――
「代さん、あなたは
不断から
私を馬鹿にして
御出なさる。――いゝえ、
厭味を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「
困りますね、
左様真剣に
詰問されちや」
「
善ござんすよ。
胡魔化さないでも。ちやんと
分つてるんだから。だから正直に
左様だと云つて御仕舞なさい。
左様でないと、
後が
話せないから」
代助は
黙つてにや/\
笑つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも
構やしません。いくら
私が威張つたつて、
貴方に
敵ひつこないのは無論ですもの。
私と
貴方とは今迄
通りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや
夫で
好いとして、
貴方は
御父さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
代助は
嫂の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は
左も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「
兄さんも馬鹿にして入らつしやる」
「
兄さんですか。
兄さんは大いに尊敬してゐる」
「
嘘を
仰しやい。
序だから、みんな
打ち
散けて御
仕舞なさい」
「そりや、
或点では馬鹿にしない事もない」
「それ御
覧なさい。あなたは一家族
中悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな
言訳はどうでも
好いんですよ。
貴方から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、
廃さうぢやありませんか。
今日は
中中きびしいですね」
「本当なのよ。
夫で
差支ないんですよ。喧嘩も
何も
起らないんだから。けれどもね、そんなに
偉い
貴方が、
何故私なんぞから
御金を
借りる必要があるの。
可笑しいぢやありませんか。いえ、
揚足を取ると思ふと、
腹が立つでせう。
左様なんぢやありません。それ程
偉い
貴方でも、
御金がないと、
私見た様なものに
頭を
下げなけりやならなくなる」
「だから
先きから
頭を
下げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が
私の本気な所なんです」
「ぢや、それも
貴方の
偉い所かも知れない。然し
誰も
御金を
貸し
手がなくつて、今の御友達を
救つて
上げる事が出来なかつたら、
何うなさる。いくら
偉くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は
車屋と
同なしですもの」
代助は今迄
嫂が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は
金の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の
裡に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから
姉さんに
頼むんです」
「仕方がないのね、
貴方は。あんまり、
偉過て。
一人で御
金を御
取んなさいな。本当の車屋なら
貸して上げない事もないけれども、
貴方には
厭よ。だつて
余りぢやありませんか。
月々兄さんや
御父さんの厄介になつた
上に、
人の
分迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。
誰も
出し
度はないぢやありませんか」
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此
尤を通り越して、気が
付かずにゐた。振り返つて見ると、
後の方に
姉と
兄と
父がかたまつてゐた。自分も
後戻りをして、
世間並にならなければならないと感じた。
家を
出る時、
嫂から無心を断わられるだらうとは
気遣つた。けれども
夫が
為めに、大いに
働らいて、自から金を取らねばならぬといふ決心は決して起し得なかつた。代助は此事件を夫程重くは見てゐなかつたのである。
梅子は、此機会を利用して、色々の方面から代助を刺激しやうと力めた。所が代助には梅子の
腹がよく
解つてゐた。
解れば
解る程激する気にならなかつた。そのうち話題は
金を離れて、再び結婚に
戻つて
来た。代助は最近の候補者に就て、
此間から
親爺に二度程
悩まされてゐる。
親爺の論理は
何時聞いても昔し風に甚だ義理
堅いものであつたが、其代り今度は左程権柄づくでもなかつた。自分の
命の
親に
当る
人の血統を受けたものと縁組をするのは結構な事であるから、
貰つて呉れと云ふんである。さうすれば幾分か恩が
返せると云ふんである。要するに代助から見ると、何が結構なのか、何が恩返しに当るのか、丸で筋の
立たない主張であつた。尤も候補者自身に就ては、代助も格別の苦情は持つてゐなかつた事丈は慥かである。だから
父の云ふ事の当否は論弁の
限にあらずとして、
貰へば
貰つても
構はないのである。代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、
結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない。佐川の娘といふのは只写真で知つてゐる許であるが、夫丈でも沢山な様な気がする。――尤も写真は大分美くしかつた。――従つて、貰ふとなれば、
左様面倒な条件を持ち出す考も何もない。たゞ、貰ひませうと云ふ確答が
出なかつた丈である。
その不明晰な態度を、
父に評させると、丸で要領を得てゐない鈍物同様の挨拶振になる。結婚を生死の
間に
横はる一大要件と見傚して、あらゆる他の出来事を、これに従属させる考の
嫂から云はせると、不可思議になる。
「だつて、
貴方だつて、生涯
一人でゐる気でもないんでせう。さう我儘を云はないで、
好い加減な所で
極めて仕舞つたら
何うです」と梅子は
少し
焦れつたさうに云つた。
生涯
一人でゐるか、或は
妾を置いて
暮すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画は丸でなかつた。
只、
今の彼は結婚といふものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を
持てなかつた事は
慥である。是は、彼の性情が、一図に物に向つて集注し得ないのと、彼の
頭が普通以上に
鋭どくつて、しかも其
鋭さが、日本現代の社会状況のために、
幻像打破の方面に
向つて、今日迄多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知つてゐるのとに帰着するのである。が代助は
其所迄解剖して考へる必要は認めてゐない。たゞ結婚に興味がないと云ふ、自己に
明かな事実を
握つて、それに応じて未来を自然に
延ばして行く気でゐる。だから、結婚を必要事件と、初手から断定して、
何時か之を成立させ様と
喘る努力を、不自然であり、不合理であり、且つあまりに俗臭を帯びたものと解釈した。
代助は固より
斯んな
哲理を
嫂に向つて講釈する気はない。が、段々押し
詰られると、苦し
紛れに、
「だが、
姉さん、僕は
何うしても
嫁を
貰はなければならないのかね」と
聞く事がある。代助は無論
真面目に
聞く
積だけれども、
嫂の方では
呆れて仕舞ふ。さうして、自分を茶にするのだと取る。梅子は其晩代助に向つて、
平生の
手続を
繰り
返した
後で、
斯んな事を云つた。
「妙なのね、そんなに
厭がるのは。――
厭なんぢやないつて、
口では
仰しやるけれども、
貰はなければ、
厭なのと
同なしぢやありませんか。それぢや
誰か
好きなのがあるんでせう。
其方の名を
仰やい」
代助は今迄
嫁の候補者としては、たゞの一人も
好いた
女を
頭の
中に指名してゐた覚がなかつた。が、
今斯う云はれた時、どう云ふ訳か、不意に三千代といふ名が心に浮かんだ。つゞいて、だから
先刻云つた
金を貸して
下さい、といふ文句が
自から
頭の
中で
出来上つた。――けれども代助はたゞ苦笑して
嫂の前に
坐つてゐた。
代助が
嫂に失敗して帰つた
夜は、
大分更けてゐた。彼は
辛うじて青山の通りで、
最後の電車を
捕まえた位である。それにも拘はらず
彼の話してゐる
間には、
父も
兄も帰つて
来なかつた。尤も
其間に梅子は電話
口へ二返呼ばれた。然し、
嫂の様子に別段変つた
所もないので、代助は
此方から進んで何にも聞かなかつた。
其夜は
雨催の
空が、
地面と
同じ様な
色に見えた。停留所の赤い柱の
傍に、たつた
一人立つて電車を待ち合はしてゐると、
遠い
向ふから小さい火の
玉があらはれて、それが一直線に暗い
中を
上下に
揺れつつ代助の方に
近いて来るのが非常に淋しく感ぜられた。
乗り込んで見ると、
誰も居なかつた。
黒い
着物を
着た車掌と運転手の
間に
挟まれて、一種の
音に
埋まつて
動いて行くと、
動いてゐる
車の
外は
真暗である。代助は
一人明るい
中に腰を
掛けて、どこ迄も電車に乗つて、
終に
下りる機会が
来ない迄引つ張り
廻される様な気がした。
神楽坂へかゝると、
寂りとした
路が左右の
二階家に
挟まれて、
細長く
前を
塞いでゐた。中途迄
上つて
来たら、それが急に鳴り
出した。代助は
風が
家の
棟に当る事と思つて、立ち
留まつて
暗い
軒を見上げながら、屋根から
空をぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。
戸と障子と
硝子の
打ち
合ふ
音が、見る/\
烈しくなつて、あゝ地震だと気が
付いた時は、代助の足は立ちながら半ば
竦んでゐた。其時代助は左右の二階
家が
坂を
埋むべく、双方から倒れて
来る様に感じた。すると、突然
右側の
潜り
戸をがらりと
開けて、小供を
抱いた
一人の男が、地震だ/\、大きな地震だと云つて
出て来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
家へ
着いたら、婆さんも
門野も大いに地震の噂をした。けれども、代助は、
二人とも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置し
様かと思案して見た。然し分別を
凝らす迄には至らなかつた。
父と
兄の近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡を
極めた。さうして
眠に入つた。
其明日の新聞に始めて日糖事件なるものがあらはれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の
金を使用して代議士の何名かを買収したと云ふ報知である。門野は例の如く重役や代議士の拘引されるのを痛快だ々々々と評してゐたが、代助にはそれ程痛快にも思へなかつた。が、二三日するうちに取り調べを受けるものゝ
数が大分多くなつて
来て、世間ではこれを大疑獄の様に囃し
立てる様になつた。ある新聞ではこれを英国に対する検挙と称した。其説明には、英国大使が日糖株を買ひ込んで、損をして、苦情を鳴らし
出したので、日本政府も英国へ対する申訳に手を
下したのだとあつた。
日糖事件の起る少し前、東洋汽船といふ会社は、壱割二分の配当をした
後の半期に、八十万円の欠損を報告した事があつた。それを代助は記憶して居た。其時の新聞が此報告を評して信を置くに足らんと云つた事も記憶してゐた。
代助は自分の
父と
兄の関係してゐる会社に就ては
何事も知らなかつた。けれども、いつ
何んな事が起るまいものでもないとは常から考へてゐた。さうして、
父も
兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じてゐなかつた。もし八釜
敷い吟味をされたなら、両方共拘引に
価する資格が出来はしまいかと迄疑つてゐた。それ程でなくつても、
父と
兄の財産が、彼等の脳力と手腕丈で、
誰が見ても
尤と認める様に、
作り
上げられたとは
肯はなかつた。明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与へた事がある。其時たゞ
貰つた地面の御蔭で、今は非常な金満家になつたものがある。けれども是は寧ろ天の与へた偶然である。
父と
兄の如きは、此自己にのみ幸福なる偶然を、人為的に且政略的に、
暖室を造つて、
拵え
上げたんだらうと代助は鑑定してゐた。
代助は
斯う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。
父と
兄の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、
徒手で行くのが面白くないんで、其うちの事と
腹の
中で料簡を
定めて、
日々読書に耽つて四五日
過した。不思議な事に
其後例の
金の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて
来なかつた。代助は
心のうちに、あるひは三千代が又
一人で返事を
聞きに
来る事もあるだらうと、
実は
心待に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
仕舞にアンニユイを感じ
出した。
何処か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を
捜して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から
外濠線へ乗つて、御茶の
水迄
来るうちに気が
変つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は
厭だから文学を職業とすると云ひ出して、
他のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も
上らず、
窮々云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、
何でも
好いから書けと
逼るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に
曝されたぎり、永久人間世界から
何処かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、
己を見ろと云ふのが
口癖であつた。けれども
外の
人に
聞くと、寺尾ももう
陥落するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが
好で、ことに人が名前を知らない作家が
好で、なけなしの
銭を工面しては新刊
物を買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと
冷評返した事がある。すると寺尾は
真面目な
顔をして、戦争は
何時でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや
詰らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は
真中へ一貫
張の机を据ゑて、頭痛がすると云つて
鉢巻をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を
書いてゐた。邪魔ならまた
来ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう
今朝から
五五、二円五十銭丈
稼いだからと云ふ挨拶であつた。やがて
鉢巻を
外して、
話を
始めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を
誰も
賞めないので、其対抗運動として、自分の方では
他を
貶すんだらうと思つた。ちと、
左様云ふ意見を発表したら
好いぢやないかと勧めると、
左様は
行かないよと笑つてゐる。
何故と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に
暮せる身分なら随分云つて見せるが――
何しろ
食ふんだからね。どうせ
真面目な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、
夫で結構だ、
確かり
遣り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや
些とも結構ぢやない。どうかして、
真面目になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと
金を
借して僕を
真面目にする了見はないかと
聞いた。いや、君が今の様な事をして、
夫で
真面目だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと
調戯つて、代助は表へ
出た。
本郷の通り迄
来たが
惓怠の感は依然として
故の通りである。
何処をどう
歩いても物足りない。と云つて、
人の
宅を
訪ねる気はもう
出ない。自分を検査して見ると、
身体全体が、大きな胃病の様な心持がした。四丁目から又電車へ
乗つて、今度は伝通院前迄
来た。車中で
揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃
嚢の
中で、
腐つたものが、
波を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり
宅へ
帰つた。玄関で門野が、
「
先刻御
宅から
御使でした。手紙は書斎の机の
上に載せて置きました。受取は
一寸私が
書いて
渡して
置きました」と云つた。
手紙は
古風な
状箱の
中にあつた。
其赤塗の
表には
名宛も
何も
書かないで、
真鍮の
環に
通した
観世撚の
封じ
目に
黒い
墨を着けてあつた。代助は
机の
上を
一目見て、此手紙の
主は
嫂だとすぐ
悟つた。
嫂は
斯う云ふ旧式な趣味があつて、それが
時々思はぬ方角へ
出てくる。代助は
鋏の
先で
観世撚の
結目を
突つつきながら、面倒な
手数だと思つた。
けれども
中にあつた
手紙は、状箱とは正反対に、簡単な言文一致で用を
済してゐた。
此間わざ/\
来て
呉れた時は、
御依頼通り取り
計ひかねて、御気の毒をした。
後から考へて見ると、
其時色々無遠慮な失礼を云つた事が気にかゝる。どうか
悪く
取つて
下さるな。其代り
御金を
上げる。
尤もみんなと云ふ
訳には行かない。二百円丈都合して
上げる。から
夫をすぐ
御友達の所へ届けて
御上げなさい。是は
兄さんには
内所だから
其積でゐなくつては
不可ない。奥さんの事も宿題にするといふ約束だから、よく考へて返事をなさい。
手紙の
中に
巻き込めて、二百円の小切手が
這入つてゐた。代助は、しばらく、それを
眺めてゐるうちに、
梅子に
済まない様な気がして
来た。此
間の
晩、
帰りがけに、
向から、ぢや
御金は
要らないのと
聞いた。
貸して呉れと切り
込んで
頼んだ時は、あゝ
手痛く跳ね付けて
置きながら、いざ断念して帰る段になると、却つて断わつた方から、
掛念がつて
駄目を
押して
出た。代助はそこに
女性の美くしさと
弱さとを見た。さうして其弱さに付け入る勇気を失つた。此
美しい弱点を
弄ぶに
堪えなかつたからである。えゝ
要りません、
何うかなるでせうと云つて
分れた。それを梅子は
冷かな挨拶と思つたに
違ない。其
冷かな言葉が、梅子の平生の思ひ切つた
動作の
裏に、
何処にか引つ
掛つてゐて、とう/\此手紙になつたのだらうと代助は判断した。
代助はすぐ返事を書いた。さうして出来る丈
暖かい言葉を使つて感謝の意を表した。代助が
斯う云ふ気分になる事は
兄に対してもない。
父に対してもない。世間一般に対しては固よりない。近来は梅子に対してもあまり
起らなかつたのである。
代助はすぐ三千代の所へ出掛け様かと考へた。
実を云ふと、二百円は代助に取つて
中途半端な
額であつた。
是丈呉れるなら、
一層思ひ切つて、
此方の
強請つた通りにして、満足を買へばいゝにと云ふ気も
出た。が、それは代助の
頭が梅子を離れて三千代の方へ
向いた時の事であつた。その
上、女は
如何に思ひ切つた女でも、感情上
中途半端なものであると信じてゐる代助には、それが別段不平にも思へなかつた。
否女の斯う云ふ態度の方が、却つて男性の断然たる所置よりも、同情の弾力性を示してゐる点に於て、
快よいものと考へてゐた。だから、もし二百円を自分に贈つたものが、梅子でなくつて、
父であつたとすれば、代助は、それを経済的
中途半端と解釈して、却つて不愉快な感に打たれたかも知れないのである
代助は
晩食も
食はずに、すぐ又
表へ出た。五軒町から江戸川の
縁を
伝つて、
河を
向へ越した時は、
先刻散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。坂を
上つて伝通院の横へ
出ると、細く高い烟突が、
寺と
寺の
間から、
汚ない
烟を、
雲の多い
空に
吐いてゐた。代助はそれを
見て、貧弱な工業が、生存の
為に無理に
吐く
呼吸を
見苦しいものと思つた。さうして其
近くに
住む平岡と、此烟突とを
暗々の
裏に連想せずにはゐられなかつた。
斯う云ふ場合には、同情の念より美醜の念が
先に立つのが、代助の
常であつた。代助は此瞬間に、三千代の事を殆んど忘れて仕舞つた位、
空に
散る憐れな石炭の
烟に刺激された。
平岡の玄関の
沓脱には女の
穿く
重ね草履が
脱ぎ棄てゝあつた。格子を
開けると、奥の方から三千代が
裾を
鳴らして
出て
来た。其時
上り
口の
二畳は
殆んど
暗かつた。
三千代は其
暗い
中に
坐つて挨拶をした。始めは
誰が
来たのか、よく
分らなかつたらしかつたが、代助の
声を
聞くや否や、
何方かと思つたら……と寧ろ低い声で云つた。代助は
判然見えない三千代の姿を、常よりは
美しく眺めた。
平岡は
不在であつた。それを
聞いた時、代助は
話してゐ
易い様な、又
話してゐ
悪い様な変な気がした。けれども三千代の方は
常の通り落ち
付いてゐた。
洋燈も
点けないで、
暗い
室を
閉て切つた儘
二人で
坐つてゐた。三千代は下女も留守だと云つた。自分も
先刻其所迄用
達に
出て、今帰つて
夕食を済ました許りだと云つた。やがて平岡の話が
出た。
予期した通り、平岡は相変らず奔走してゐる。が、此一週間程は、あんまり
外へ
出なくなつた。
疲れたと云つて、よく
宅に
寐てゐる。でなければ
酒を
飲む。
人が
尋ねて
来れば猶
飲む。さうして
善く
怒る。さかんに
人を罵倒する。のださうである。
「
昔と
違つて気が
荒くなつて
困るわ」と云つて、
三千代は暗に同情を求める様子であつた。代助は
黙つてゐた。下女が
帰つて
来て、勝手
口でがた/\
音をさせた。しばらくすると、
胡摩竹の
台の
着いた
洋燈を持つて
出た。
襖を
締める
時、代助の
顔を
偸む様に見て行つた。
代助は
懐から例の小
切手を
出した。二つに
折れたのを其儘三千代の前に置いて、奥さん、と呼び
掛けた。代助が三千代を奥さんと呼んだのは始めてゞあつた。
「
先達て
御頼の
金ですがね」
三千代は何にも答へなかつた。たゞ
眼を
挙げて代助を見た。
「
実は、
直にもと思つたんだけれども、
此方の都合が
付かなかつたものだから、
遂遅くなつたんだが、
何うですか、もう始末は
付きましたか」と聞いた。
其時三千代は急に心細さうな
低い声になつた。さうして
怨ずる様に、
「
未ですわ。だつて、
片付く訳が
無いぢやありませんか」と云つた儘、
眼を
つて
凝と代助を見てゐた。代助は
折れた小切手を取り
上げて二つに
開いた。
「是丈ぢや
駄目ですか」
三千代は手を
伸ばして小切手を
受取つた。
「難有う。平岡が喜びますわ」と
静かに小切手を
畳の
上に
置いた。
代助は
金を借りて
来た由来を、極ざつと説明して、自分は
斯ういふ呑気な身分の様に見えるけれども、何か必要があつて、自分以外の事に、手を
出さうとすると、丸で無能力になるんだから、そこは
悪く思つて呉れない様にと言訳を付け加へた。
「それは、
私も承知してゐますわ。けれども、
困つて、
何うする事も
出来ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに
詫を述べた。代助はそこで念を押した。
「
夫丈で、
何うか始末が
付きますか。もし
何うしても
付かなければ、もう一遍
工面して見るんだが」
「もう
一遍工面するつて」
「判を
押して高い利のつく
御金を
借りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち
消す様に云つた。「それこそ大変よ。
貴方」
代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、
性質の
悪い
金を
借り始めたのが
転々して祟つてゐるんだと云ふ事を
聞いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として
通つてゐたのだが、三千代が
産後心臓が
悪くなつて、ぶら/\し
出すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、
夫程烈しくもなかつたので、三千代はたゞ
交際上
已を得ないんだらうと
諦めてゐたが、仕舞にはそれが段々
高じて、
程度が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば
身体が
悪くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。
私が
悪いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい
顔をして、
責めて小供でも生きてゐて呉れたら
嘸可かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く
此方から
問ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに
弱つちや
不可ない。
昔の様に元気に
御成んなさい。さうして
些と遊びに御
出なさい」と勇気をつけた。
「
本当ね」と三千代は笑つた。彼等は
互の
昔を
互の
顔の
上に認めた。平岡はとう/\帰つて
来なかつた。
中二日置いて、突然平岡が
来た。其
日は乾いた
風が
朗らかな
天を
吹いて、
蒼いものが
眼に
映る、
常よりは
暑い天気であつた。
朝の新聞に菖蒲の案内が
出てゐた。代助の買つた大きな鉢植の
君子蘭はとう/\縁側で
散つて仕舞つた。其代り
脇差程も
幅のある
緑の
葉が、
茎を押し分けて
長く
延びて
来た。
古い
葉は
黒ずんだ
儘、日に
光つてゐる。其一枚が何かの拍子に
半分から折れて、
茎を去る五寸
許の
所で、急に
鋭く
下つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は
鋏を
持つて椽に出た。さうして其
葉を
折れ
込んだ
手前から、
剪つて棄てた。時に厚い
切り
口が、急に
煮染む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に
音がした。
切口に
集つたのは
緑色の濃い
重い
汁であつた。代助は
其香を
嗅がうと思つて、
乱れる
葉の
中に鼻を
突つ込んだ。椽側の
滴は其儘にして置いた。立ち
上がつて、
袂から
手帛を
出して、
鋏の
刃を
拭いてゐる所へ、
門野が平岡さんが
御出ですと
報せて
来たのである。代助は其時平岡の
事も三千代の事も、丸で
頭の
中に考へてゐなかつた。
只不思議な
緑色の
液体に支配されて、比較的
世間に関係のない情調の
下に
動いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「
此方へ御
通し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから
席に
導かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を
着てゐた。
襟も
白襯衣も
新らしい
上に、流行の
編襟飾を
掛けて、浪人とは
誰にも受け取れない位、ハイカラに取り
繕ろつてゐた。
話して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日
斯うして
遊んで
歩く。それでなければ、
宅に
寐てゐるんだと云つて、大きな声を
出して笑つて見せた。代助もそれが
可からうと答へたなり、
後は
当らず障らずの
世間話に
時間を
潰してゐた。けれども自然に
出る世間
話といふよりも、寧ろある問題を回避する
為の
世間話だから、両方共に
緊張を
腹の
底に
感じてゐた。
平岡は三千代の事も、
金の事も
口へ
出さなかつた。
従がつて
三日前代助が
彼の留守宅を訪問した事に就ても何も
語らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に
触れないで
澄してゐたが、
何時迄
経つても、平岡の方で
余所々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日
前君の
所へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。
左様だつたさうだね。其節は又難有う。御
蔭さまで。――なに、君を煩はさないでも
何うかなつたんだが、
彼奴があまり心配し
過て、つい君に迷惑を掛けて
済まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に
来た
様なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が
出るだらうから」と丸で三千代と自分を
別物にした
言分であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。
話は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を
持たない方面に
摺り
滑つて
行つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は
已めるかも知れない。実際
内幕を知れば知る程
厭になる。其上
此方へ
来て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と
心底かららしい告白をした。代助は、
一口、
「それは、
左様だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを
付けた。
「先達ても
一寸話したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「
口があるのかい」と代助が
聞き返した。
「
今、
一つある。多分
出来さうだ」
来た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に
口があるから出様と云ふし、少し要領を
欠いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。
平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に
身を寄せて、
敷居の
上に立つてゐた。
門野も御
附合に平岡の
後姿を
眺めてゐた。が、すぐ
口を
出した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの
服装ぢや、
少し
宅の方が御粗末
過る様です」
「
左様でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「
全たく、
服装丈ぢや
分らない世の
中になりましたからね。
何処の紳士かと思ふと、どうも
変ちきりんな
家へ
這入てますからね」と
門野はすぐあとを付けた。
代助は返事も
為ずに書斎へ引き返した。椽側に
垂れた君子
蘭の
緑の
滴がどろ/\になつて、
干上り
掛つてゐた。代助はわざと、書斎と
座敷の
仕切を
立て
切つて、
一人室のうちへ
這入つた。来客に
接した
後しばらくは、
独坐に
耽るが代助の
癖であつた。ことに
今日の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。
逢ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。
誰に逢つても
左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に
過なかつた。
大地は自然に
続いてゐるけれども、其上に
家を
建てたら、忽ち
切れ
/\になつて仕舞つた。
家の
中にゐる
人間も亦
切れ
切れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近してゐた時分の平岡は、人に
泣いて
貰ふ事を
喜こぶ
人であつた。
今でも
左様かも知れない。が、
些ともそんな
顔をしないから、
解らない。否、
力めて、
人の同情を
斥ける様に
振舞つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ
悟りか、
何方かに帰着する。
平岡に接近してゐた時分の代助は、
人の
為に
泣く事の
好きな男であつた。それが次第々々に
泣けなくなつた。
泣かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は
寧ろ
之を
逆にして、
泣かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の
圧迫を
受けて、其重
荷の
下に
唸る、劇烈な生存競争場裏に立つ
人で、
真によく
人の
為に泣き得るものに、代助は
未だ
曾て
出逢はなかつた。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ
嫌悪の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が
萌してゐると判じた。昔しの代助も、
時々わが胸のうちに、斯う云ふ
影を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に
悲しかつた。
今は其
悲しみも殆んど
薄く
剥がれて仕舞つた。だから自分で黒い
影を
凝と見詰めて見る。さうして、これが
真だと思ふ。
已を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯う云ふ意味の孤独の
底に
陥つて煩悶するには、代助の
頭はあまりに
判然し
過てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の
踏むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、
今の自分の
眼に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に
過ないと見傚した。けれども、同時に、
両人の
間に
横たはる一種の特別な事情の
為、此隔離が
世間並よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは
三千代の結婚であつた。
三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に
悔る様な薄弱な
頭脳ではなかつた。
今日に至つて振り返つて見ても、自分の
所作は、過去を
照らす
鮮かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等
二人の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に
頭を
下げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり/\と
何故三千代を
貰つたかと思ふ様になつた。代助は
何処かしらで、
何故三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は書斎に
閉ぢ
籠つて
一日考へに
沈んでゐた。
晩食の時、門野が、
「先生
今日は
一日御勉強ですな。どうです、
些と御散歩になりませんか。
今夜は
寅毘沙ですぜ。演芸館で
支那人の留学生が芝居を
演つてます。どんな事を
演る積ですか、
行つて御覧なすつたら
何うです。
支那人てえ
奴は、臆面がないから、
何でも
遣る気だから呑気なもんだ。……」と
一人で
喋舌つた。
代助は
又父から
呼ばれた。代助には其用事が大抵
分つてゐた。代助は
不断から成るべく
父を
避けて
会はない様にしてゐた。
此頃になつては猶更
奥へ
寄り
付かなかつた。
逢ふと、叮嚀な言葉を
使つて応対してゐるにも拘はらず、
腹の
中では、
父を
侮辱してゐる様な気がしてならなかつたからである。
代助は人類の
一人として、
互を
腹の
中で侮辱する事なしには、
互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた
海嘯と心得てゐた。
この
二つの
因数は、
何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を
較べる日の
来る迄は、此平衡は日本に於て
得られないものと代助は信じてゐた。さうして、
斯ゝる
日は、到底日本の上を
照らさないものと
諦めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ
頭の
中に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の
一人として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。
代助の
父の場合は、一般に
比べると、
稍特殊的傾向を帯びる丈に複雑であつた。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき
手近な
真を、
眼中に置かない無理なものであつた。にも
拘はらず、
父は習慣に囚へられて、
未だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の
為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを
父は自認してゐなかつた。
昔の自分が、
昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し
遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を
狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に
充たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、
之を敢てする個人は、矛盾の
為に大苦痛を
受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈
明らかで、何の
為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の
鈍い劣等な人種である。代助は父に対する
毎に、
父は自己を
隠蔽する
偽君子か、もしくは分別の足らない
愚物か、
何方かでなくてはならない様な気がした。さうして、
左う云ふ気がするのが
厭でならなかつた。
と云つて、
父は代助の手際で、
何うする事も出来ない男であつた。代助には
明らかに、それが
分つてゐた。だから代助は
未だ
曾て
父を矛盾の極端迄追ひ
詰めた事がなかつた。
代助は凡ての道徳の
出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから
頭の中に
硬張つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に
過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る
時、
昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の
父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、
頭の
中に起した。代助はそれを
恨めしく思つてゐる位であつた。
代助は
此前梅子に礼を云ひに行つた時、梅子から
一寸奥へ行つて、挨拶をしてゐらつしやいと注意された。代助は笑ひながら御
父さんはゐるんですかと
空とぼけた。ゐらつしやるわと云ふ確答を得た時でも、
今日はちと
急ぐから
廃さうと帰つて
来た。
今日はわざ/\
其為に
来たのだから、
否でも応でも
父に逢はなければならない。相変らず、
内玄関の方から廻つて座敷へ
来ると、
珍らしく
兄の誠吾が
胡坐をかいて、
酒を呑んでゐた。梅子も
傍に
坐つてゐた。
兄は代助を見て、
「
何うだ、一盃
遣らないか」と、前にあつた葡萄酒の
壜を持つて
振つて見せた。
中にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を
敲いて
洋盞を取り寄せた。
「
当てゝ御
覧なさい。どの位
古いんだか」と一杯
注いだ。
「代助に
分るものか」と云つて、誠吾は弟の
唇のあたりを
眺めてゐた。代助は
一口飲んで
盃を
下へ
下した。
肴の代りに薄いウエーファーが菓子
皿にあつた。
「
旨いですね」と云つた。
「だから時代を
当てゝ御覧なさいよ」
「
時代があるんですか。
偉いものを買ひ込んだもんだね。
帰りに
一本貰つて
行かう」
「御生憎様、もう
是限なの。
到来物よ」と云つて梅子は椽側へ
出て、
膝の
上に
落ちたウエーフアーの
粉を
払いた。
「
兄さん、
今日は
何うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が
聞いた。
「
今日は休養だ。
此間中は
何うも
忙し
過て降参したから」と誠吾は火の消えた
葉巻を
口に啣えた。代助は自分の
傍にあつた
燐寸を
擦つて
遣つた。
「
代さん
貴方こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から
帰つて
来た。
「
姉さん歌舞伎座へ
行きましたか。まだなら、
行つて御覧なさい。面白いから」
「
貴方もう
行つたの、驚ろいた。
貴方も
余っ程
怠けものね」
「
怠けものは
可くない。勉強の方向が違ふんだから」
「
押の強い事ばかり云つて。
人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は
赤い
瞼をして、ぽかんと
葉巻の
烟を
吹いてゐた。
「ねえ、
貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに
葉巻を
指の
股へ移して、
「今のうち
沢山勉強して
貰つて置いて、
今に
此方が貧乏したら、
救つて
貰ふ方が
好いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、
洋盞を姉の前に
出した。梅子も
黙つて葡萄酒の壜を取り
上げた。
「
兄さん、
此間中は何だか大変
忙しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は
寐転んで仕舞つた。
「
何か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、
忙しかつた」
兄の答は
何時でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも
楽に其返事の
中に
這入てゐた。
「日糖も
詰らない
事になつたが、あゝなる前に
何うか方法はないもんでせうかね」
「
左うさなあ。実際
世の
中の事は、
何が
何うなるんだか
分らないからな。――
梅、
今日は
直木に云ひ
付けて、ヘクターを少し運動させなくつちや
不可いよ。あゝ
大食をして寐て
許ゐちや毒だ」と誠吾は
眠さうな
瞼を
指でしきりに
擦つた。代助は、
「
愈奥へ
行つて
御父さんに
叱られて
来るかな」と云ひながら又
洋盞を
嫂の前へ
出した。梅子は
笑つて
酒を
注いだ。
「
嫁の事か」と誠吾が
聞いた。
「まあ、
左うだらうと思ふんです」
「
貰つて
置くがいゝ。さう
老人に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと
判然した語勢で、
「気を
付けないと
不可よ。少し低気圧が
来てゐるから」と注意した。代助は
立ち掛けながら、
「まさか
此間中の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。
兄は寐転んだ儘、
「
何とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、
何時拘引されるか
分らない
身体なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を
仰しやるなよ」と梅子が
窘めた。
「矢っ張り
僕ののらくらが持ち
来たした低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。
廊下
伝ひに
中庭を
越して、
奥へ
来て見ると、
父は
唐机の
前へ
坐つて、
唐本を
見てゐた。
父は詩が
好で、
閑があると折々支那人の詩集を
読んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい
索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来
上つた
兄でも、成るべく
近寄らない事にしてゐた。是非
顔を
合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、
何方か
引張て
父の
前へ
出る手段を
取つてゐた。代助も椽側迄
来て、そこに気が
付いたが、
夫程の必要もあるまいと思つて、座敷を
一つ
通り越して、
父の居
間に這入つた。
父はまづ
眼鏡を
外した。それを読み掛けた書物の
上に置くと、代助の方に向き
直つた。さうして、たゞ
一言、
「
来たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて
穏な位であつた。代助は
膝の
上に手を置きながら、
兄が
真面目な顔をして、自分を
担いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又
苦い茶を
飲ませられて、しばらく雑談に時を
移した。
今年は
芍薬の
出が早いとか、
茶摘歌を
聞いてゐると
眠くなる時候だとか、
何所とかに、大きな
藤があつて、其花の長さが四尺
足らずあるとか、
話は
好加減な方角へ
大分長く
延びて
行つた。代助は
又其方が勝手なので、いつ迄も
延ばす様にと、
後から
後を
付けて
行つた。
父も仕舞には持て
余して、とう/\、時に
今日御前を呼んだのはと云ひ出した。
代助はそれから
後は、
一言も
口を
利かなくなつた。只謹んで
親爺の云ふことを
聴いてゐた。
父も代助から
斯う云ふ態度に出られると、長い
間自分
一人で、講義でもする様に、
述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて
聞いてゐた。
父の
長談義のうちに、代助は二三の
新しい点も
認めた。その一つは、御前は一体是からさき
何うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄
父からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に
外す事に
慣れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう
口から
出任せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ
父を
怒らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間
父の
頭を教育した
上でなくつては、通じない理窟になる。
何故と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に
道破る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、
父が、其通りを
聞いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯
通じつこないかも知れない。
父の気に入る様にするのは、何でも、国家の
為とか、天下の
為とか、景気の
好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、
述べて置けば
済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは
馬鹿気てゐて、
口へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序
立てゝ
来て、御相談をする積であると答へた。答へた
後で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
代助は
次に、独立の出来る丈の財産が
欲しくはないかと聞かれた。代助は無論
欲しいと答へた。すると、
父が、では佐川の
娘を
貰つたら
好からうと云ふ条件を
付けた。其財産は佐川の
娘が持つて
来るのか、又は
父が
呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は
少し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて
已めた。
次に、
一層洋行する気はないかと云はれた。代助は
好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として
出て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると
父の
顔が
赤くなつた。
代助は
父を
怒らせる気は少しもなかつたのである。
彼の近頃の主義として、
人と喧嘩をするのは、
人間の堕落の一
範鋳になつてゐた。
喧嘩の一部分として、
人を
怒らせるのは、
怒らせる事自身よりは、
怒つた
人の
顔色が、如何に不愉快にわが
眼に
映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を
傷ける打撃に
外ならぬと心得てゐた。
彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を
有つてゐた。けれども、それが
為に、自然の儘に振舞ひさへすれば、
罰を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を
斬つたものゝ受くる
罰は、
斬られた
人の
肉から
出る血潮であると
固く
信じてゐた。
迸しる血の色を見て、
清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから
顔の
色を赤くした
父を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、
父の云ふ通りにしやうと云ふ気は
些とも起らなかつた。
彼は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
其時
父は
頗る熱した語気で、
先づ自分の
年を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に
嫁を
持たせるのは
親の義務であると云ふ事、
嫁の資格其他に就ては、本人よりも
親の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、
他の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、
後になると、もう一遍うるさく
干渉して貰ひたい時機が
来るものであるといふ事を、非常に叮嚀に
説いた。代助は慎重な態度で、
聴いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許
諾の意を表さなかつた。すると
父はわざと
抑えた調子で、
「ぢや、佐川は
已めるさ。さうして
誰でも御前の
好なのを
貰つたら
好いだらう。
誰か
貰ひたいのがあるのか」と云つた。是は
嫂の質問と同様であるが、代助は
梅子に
対する様に、たゞ
苦笑ばかりしてはゐられなかつた。
「
別にそんな貰ひたいのもありません」と
明らかな返事をした。すると
父は急に肝の発した様な声で、
「ぢや、
少しは
此方の事も考へて呉れたら
好からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然
父が代助を離れて、
彼自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の
上に
注がれた丈であつた。
「
貴方にそれ程御都合が
好い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。
父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、
何うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。
夫が
為め、よく
人から、相手を
遣り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、
彼程人を
遣り込める事の嫌な男はないのである。
「何も
己の都合
許で、
嫁を貰へと云つてやしない」と
父は
前の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、参考の
為、云つて聞かせるが、
御前はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、
世間では
何と思ふか大抵
分るだらう。そりや
今は
昔と違ふから、独身も本人の随意だけれども、独身の
為に
親や兄弟が
迷惑したり、
果は自分の名誉に
関係する様な事が
出来したりしたら
何うする気だ」
代助はたゞ茫然として
父の
顔を見てゐた。
父は
何の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど
分らなかつたからである。しばらくして、
「そりや
私のことだから
少しは道楽もしますが……」と云ひかけた。
父はすぐ
夫を
遮ぎつた。
「そんな
事ぢやない」
二人は
夫限りしばらく
口を
利かずにゐた。
父は此沈黙を以て代助に向つて与へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を
和らげて、
「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、
父の
室を
退ぞいた。座敷へ
来て
兄を
探したが見えなかつた。
嫂はと尋ねたら、
客間だと下女が教へたので、
行つて戸を
明けて見ると、縫子のピヤノの先生が
来てゐた。代助は先生に
一寸挨拶をして、
梅子を
戸口迄
呼び
出した。
「あなたは
僕の事を何か
御父さんに讒訴しやしないか」
梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度
好い所だから」と云つて、代助を楽器の
傍迄引張つて
行つた。
蟻の
座敷へ
上がる時候になつた。代助は大きな
鉢へ水を
張つて、其
中に
真白なリリー、オフ、ゼ、
レーを
茎ごと
漬けた。
簇がる
細かい花が、
濃い模様の
縁を
隠した。
鉢を
動かすと、
花が
零れる。代助はそれを
大きな
字引の
上に
載せた。さうして、其
傍に
枕を
置いて
仰向けに倒れた。
黒い
頭が丁度
鉢の
陰になつて、花から
出る
香が、
好い具合に
鼻に
通つた。代助は
其香を
嗅ぎながら
仮寐をした。
代助は
時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが
劇しくなると、晴天から
来る
日光の反射にさへ堪へ難くなる事があつた。さう云ふ時には、成る
可く
世間との交渉を稀薄にして、
朝でも
午でも構はず
寐る工夫をした。其手段には、極めて
淡い、
甘味の
軽い、
花の
香をよく用ひた。
瞼を
閉ぢて、
瞳に
落ちる光線を謝絶して、静かに
鼻の
穴丈で
呼吸してゐるうちに、
枕元の
花が、次第に
夢の
方へ、
躁ぐ意識を
吹いて行く。是が成功すると、代助の神経が
生れ
代つた様に落ち付いて、
世間との
連絡が、前よりは比較的
楽に取れる。
代助は
父に
呼ばれてから二三日の
間、
庭の
隅に咲いた
薔薇の
花の
赤いのを見るたびに、それが
点々として
眼を
刺してならなかつた。其時は、いつでも、
手水鉢の
傍にある、
擬宝珠の
葉に
眼を
移した。其
葉には、
放肆な
白い
縞が、
三筋か
四筋、
長く
乱れてゐた。代助が見るたびに、
擬宝珠の
葉は
延びて行く様に思はれた。さうして、それと共に
白い
縞も、自由に拘束なく、
延びる様な気がした。
柘榴の
花は、
薔薇よりも
派出に且つ
重苦しく見えた。
緑の
間にちらり/\と
光つて見える位、強い色を
出してゐた。従つて
是も代助の今の気分には
相応らなかつた。
彼の
今の気分は、彼に
時々起る
如く、総体の
上に一種の暗調を帯びてゐた。だから
余りに
明る
過るものに接すると、其矛盾に堪えがたかつた。
擬宝珠の
葉も長く見詰めてゐると、すぐ
厭になる位であつた。
其上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲はれ
出した。其不安は人と人との
間に信仰がない源因から
起る野蛮程度の現象であつた。彼は此心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は
神に信仰を置く事を
喜ばぬ人であつた。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ
性質であつた。けれども、
相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じてゐた。相互が疑ひ合ふときの苦しみを
解脱する為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈してゐた。だから、
神のある国では、人が
嘘を
吐くものと
極めた。然し今の日本は、
神にも
人にも信仰のない
国柄であるといふ事を発見した。さうして、
彼は之を
一に日本の経済事情に帰着せしめた。
四五日前、彼は
掏摸と結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが
一人や
二人ではなかつた。他の新聞の
記す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に
陥るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
代助が父に
逢つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ
父に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り
父を尤もだと
肯ふ積りだつたからである。
代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を
好く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は
有ち得なかつた。
嫂は実意のある女であつた。然し
嫂は、直接生活の難関に
当らない丈、それ丈
兄よりも近付き
易いのだと考へてゐた。
代助は平生から、此位に世の
中を
打遣つてゐた。だから、非常な神経質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覚してゐた。
夫が、
何う云ふ具合か急に
揺き
出した。代助は之を生理上の変化から起るのだらうと
察した。そこである人が北海道から
採つて
来たと云つて呉れたリリー、オフ、ゼ、
レーの
束を
解いて、それを悉く
水の
中に
浸して、
其下に
寐たのである。
一時間の
後、代助は大きな黒い
眼を
開いた。其
眼は、しばらくの
間一つ
所に
留まつて全く
動かなかつた。
手も
足も
寐てゐた時の姿勢を少しも
崩さずに、丸で
死人のそれの様であつた。其時一匹の
黒い
蟻が、ネルの
襟を伝はつて、代助の
咽喉に
落ちた。代助はすぐ右の手を
動かして
咽喉を
抑へた。さうして、
額に
皺を
寄せて、
指の
股に
挟んだ
小さな動物を、
鼻の
上迄持つて
来て
眺めた。其時蟻はもう死んでゐた。代助は
人指指の
先に
着いた黒いものを、
親指の
爪で
向へ
弾いた。さうして
起き
上がつた。
膝の
周囲に、まだ三
四匹這つてゐたのを、
薄い象牙の
紙小刀で打ち殺した。それから手を
叩いて
人を
呼んだ。
「御目
醒ですか」と云つて、
門野が
出て
来た。
「御茶でも
入れて
来ませうか」と
聞いた。代助は、はだかつた
胸を
掻き
合せながら、
「
君、
僕の寐てゐるうちに、
誰か
来やしなかつたかね」と、
静かな調子で尋ねた。
「えゝ、
御出でした。平岡の奥さんが。よく御
存じですな」と
門野は平気に答へた。
「
何故起さなかつたんだ」
「
余まり
能く
御休でしたからな」
「だつて
御客なら
仕方がないぢやないか」
代助の語勢は少し強くなつた。
「ですがな。平岡の奥さんの
方で、
起さない方が
好いつて、
仰しやつたもんですからな」
「それで、奥さんは帰つて仕舞つたのか」
「なに
帰つて仕舞つたと云ふ訳でもないんです。
一寸神楽坂に
買物があるから、それを
済まして又
来るからつて、云はれるもんですからな」
「ぢや又
来るんだね」
「さうです。
実は御
目覚になる迄
待つてゐやうかつて、此座敷迄
上つて
来られたんですが、先生の
顔を見て、あんまり
善く
寐てゐるもんだから、こいつは、容易に
起きさうもないと思つたんでせう」
「また
出て
行つたのかい」
「えゝ、まあ
左うです」
代助は笑ひながら、両手で
寐起の
顔を
撫でた。さうして風呂場へ
顔を洗ひに
行つた。
頭を
濡らして、
椽側迄
帰つて
来て、
庭を
眺めてゐると、
前よりは気分が
大分晴々した。
曇つた
空を
燕が二
羽飛んでゐる
様が大いに愉快に見えた。
代助は
此前平岡の訪問を受けてから、
心待に、
後から三千代の
来るのを
待つてゐた。けれども、
平岡の
言葉は
遂に事実として
現れて
来なかつた。特別の事情があつて、
三千代がわざと
来ないのか、又は平岡が
始めから御世辞を
使つたのか、疑問であるが、それがため、代助は
心の
何処かに
空虚を感じてゐた。然し
彼は
此空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に
見出した迄で、其原因をどうするの、
斯うするのと云ふ気はあまりなかつた。此経験自身の
奥を
覗き込むと、それ以上に
暗い
影がちらついてゐる様に思つたからである。
それで
彼は
進んで平岡を訪問するのを
避けてゐた。散歩のとき
彼の
足は多く江戸川の方角に
向いた。
桜の
散る時分には、
夕暮の
風に
吹かれて、
四つの
橋を
此方から
向へ
渡り、
向から又
此方へ
渡り返して、長い
堤を
縫ふ様に
歩いた。が其
桜はとくに
散て仕舞つて、
今は緑蔭の時節になつた。代助は
時々橋の
真中に
立つて、欄干に頬杖を突いて、
茂る
葉の
中を、
真直に
通つてゐる、
水の
光を
眺め
尽して
見る。それから其
光の
細くなつた
先の
方に、高く聳える目白台の
森を
見上て
見る。けれども橋を
向へ
渡つて、小石川の
坂を
上る事はやめにして
帰る様になつた。ある
時彼は
大曲の所で、電車を
下る平岡の
影を半町程手前から
認めた。
彼は
慥に
左様に
違ないと思つた。さうして、すぐ
揚場の方へ
引き返した。
彼は平岡の
安否を
気にかけてゐた。まだ
坐食の不安な境遇に
居るに
違ないとは思ふけれども、或は
何の方面かへ、生活の
行路を切り開く手掛りが
出来たかも知れないとも想像して見た。けれども、それを
確める
為に、
平岡の
後を追ふ気にはなれなかつた。彼は平岡に
面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になつた。と云つて、たゞ三千代の
為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡を
悪んでもゐなかつた。平岡の
為にも、矢張り平岡の成功を祈る心はあつたのである。
斯んな
風に、代助は空虚なるわが
心の
一角を
抱いて
今日に至つた。いま
先方門野を
呼んで
括り
枕を
取り
寄せて、
午寐を
貪ぼつた時は、あまりに溌溂たる宇宙の刺激に堪えなくなつた
頭を、
出来るならば、
蒼い
色の
付いた、
深い
水の
中に
沈めたい位に思つた。それ程
彼は
命を
鋭く感じ
過ぎた。従つて
熱い
頭を枕へ
着けた時は、平岡も三千代も、彼に取つて殆んど存在してゐなかつた。彼は幸にして
涼しい心持に
寐た。けれども其
穏やかな
眠のうちに、
誰かすうと
来て、又すうと
出て
行つた様な心持がした。
眼を
醒まして
起き
上がつても其感じがまだ残つてゐて、
頭から
拭ひ去る事が出来なかつた。それで門野を呼んで、
寐てゐる
間に
誰か
来はしないかと
聞いたのである。
代助は両手を
額に
当てゝ、
高い
空を面白さうに
切つて
廻る
燕の運動を椽側から眺めてゐたが、やがて、それが
眼ま
苦しくなつたので、
室の
中に
這入つた。けれども、
三千代が又
訪ねて
来ると云ふ目前の予期が、
既に気分の平調を
冒してゐるので、思索も読書も殆んど手に
着かなかつた。代助は仕舞に
本棚の
中から、大きな画帖を
出して
来て、膝の
上に
広げて、
繰り
始めた。けれども、それも、
只指の
先で順々に
開けて
行く丈であつた。一つ画を
半分とは
味はつてゐられなかつた。やがてブランギンの
所へ
来た。代助は平生から此装飾画家に多大の趣味を有つてゐた。
彼の
眼は
常の如く
輝を帯びて、
一度は其
上に
落ちた。それは
何処かの
港の図であつた。背景に
船と
檣と
帆を大きく
描いて、其
余つた所に、
際立つて花やかな
空の
雲と、
蒼黒い
水の色をあらはした
前に、
裸体の労働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の
肩から
脊へかけて、
肉塊と
肉塊が落ち合つて、其間に
渦の様な
谷を
作つてゐる模様を見て、
其所にしばらく肉の
力の快感を認めたが、やがて、画帖を
開けた儘、
眼を
放して
耳を
立てた。すると勝手の方で婆さんの声がした。それから牛乳配達が
空壜を鳴らして急ぎ足に出て行つた。
宅のうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善く
応へた。
代助はぼんやり
壁を見詰めてゐた。
門野をもう一返
呼んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか
何うか尋ねやうと思つたが、あまり愚だから
憚かつた。それ
許ではない、
人の細君が
訪ねて
来るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、
此方から
何時でも
行つて
話をすべきであると考へた。此矛盾の両面を
双対に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横はる
色々の
因数を自分で
善く承知してゐた。さうして、
今の自分に
取つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから
仕方ないと思つた。且、此事実と衝突する論理は、自己に無関係な
命題を
繋ぎ
合はして出来
上つた、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ
腰を卸した。
それから三千代の
来る迄、代助はどんな風に
時を
過したか、殆んど知らなかつた。
表に女の声がした
時、彼は
胸に
一鼓動を感じた。彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近来
怒れなくなつたのは、
全く
頭の
御蔭で、
腹を
立てる程自分を馬鹿にすることを、
理智が
許さなくなつたからである。が其他の点に於ては、尋常以上に情
緒の支配を受けるべく余儀なくされてゐた。
取次に
出た
門野が
足音を
立てゝ、書斎の
入口にあらはれた時、
血色のいゝ代助の
頬は
微かに
光沢を
失つてゐた。
門野は、
「
此方にしますか」と甚だ簡単に代助の意向を
確めた。
座敷へ案内するか、書斎で逢ふかと聞くのが面倒だから、
斯う
詰めて仕舞つたのである。代助はうんと云つて、
入口に返事を
待つてゐた
門野を追ひ
払ふ様に、自分で
立つて
行つて、椽側へ
首を
出した。三千代は椽側と
玄関の
継目の所に、
此方を
向いてためらつて
居た。
三千代の
顔は
此前逢つた
時よりは寧ろ
蒼白かつた。代助に
眼と
顎で
招かれて書斎の
入口へ
近寄つた時、代助は三千代の
息を
喘ましてゐることに気が付いた。
「
何うかしましたか」と
聞いた。
三千代は
何にも答へずに
室の
中に
這入て
来た。セルの
単衣の
下に襦袢を
重ねて、
手に大きな白い
百合の
花を三本
許提げてゐた。
其百合をいきなり
洋卓の
上に
投げる様に
置いて、其
横にある
椅子へ
腰を
卸した。さうして、
結つた
許の銀杏
返を、
構はず、
椅子の
脊に
押し
付けて、
「あゝ
苦しかつた」と云ひながら、代助の方を見て
笑つた。代助は手を
叩いて
水を取り
寄せ様とした。三千代は
黙つて
洋卓の
上を
指した。
其所には代助の
食後の
嗽をする
硝子の
洋盃があつた。
中に
水が
二口許残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が
聞いた。
「
此奴は
先刻僕が飲んだんだから」と云つて、
洋盃を
取り
上げたが、
躇した。代助の
坐つてゐる所から、
水を
棄てやうとすると、障子の
外に
硝子戸が一枚邪魔をしてゐる。
門野は毎朝椽側の
硝子戸を一二枚宛
開けないで、
元の
通りに
放つて置く
癖があつた。代助は
席を
立つて、椽へ
出て、
水を
庭へ
空けながら、
門野を
呼んだ。今ゐた
門野は
何処へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は
少しまごついて、又
三千代の
所へ帰つて
来て、
「
今すぐ
持つて
来て
上げる」と云ひながら、折角
空けた
洋盃を其儘
洋卓の上に
置いたなり、勝手の方へ
出て行つた。
茶の
間を通ると、
門野は無細工な手をして
錫の
茶壺から玉露を
撮み
出してゐた。代助の
姿を見て、
「先生、今
直です」と
言訳をした。
「茶は
後でも
好い。
水が
要るんだ」と云つて、代助は自分で台所へ
出た。
「はあ、
左様ですか。
上がるんですか」と
茶壺を放り
出して門野も
付いて
来た。
二人で
洋盃を
探したが
一寸見付からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。
「菓子がなければ、早く買つて
置けば
可いのに」と代助は水道の
栓を
捩つて湯呑に水を
溢らせながら云つた。
「つい、
小母さんに、御客さんの
呉る事を云つて置かなかつたものですからな」と
門野は気の毒さうに
頭を
掻いた。
「ぢや、君が菓子を
買に
行けば
可いのに」と代助は
勝手を
出ながら、
門野に
当つた。
門野はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の
外にも、まだ
色々買物があるつて云ふもんですからな。
足は
悪し天気は
好くないし、
廃せば
好いんですのに」
代助は
振り向きもせず、書斎へ
戻つた。
敷居を跨いで、
中へ這入るや否や三千代の
顔を見ると、三千代は
先刻代
助の
置いて
行つた
洋盃を膝の
上に両手で持つてゐた。其
洋盃の
中には、代助が
庭へ
空けたと同じ位に
水が
這入つてゐた。代助は湯呑を
持つた
儘、茫然として、三千代の
前に
立つた。
「
何うしたんです」と
聞いた。三千代は
例の通り落ち付いた調子で、
「
難有う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、リリー、オフ、ゼ、
レーの
漬けてある
鉢を
顧みた。代助は此
大鉢の
中に水を
八分目程
張つて置いた。
妻楊枝位な
細い
茎の
薄青い
色が、
水の
中に
揃つてゐる
間から、
陶器の模様が
仄かに
浮いて見えた。
「
何故あんなものを飲んだんですか」と代助は
呆れて
聞いた。
「だつて
毒ぢやないでせう」と三千代は手に
持つた
洋盃を代助の前へ
出して、
透かして
見せた。
「
毒でないつたつて、もし
二日も
三日も
経つた
水だつたら
何うするんです」
「いえ、
先刻来た時、あの
傍迄
顔を
持つて行つて
嗅いで見たの。其時、たつた今
其鉢へ
水を入れて、
桶から
移した
許だつて、あの
方が云つたんですもの。大丈夫だわ。
好い
香ね」
代助は
黙つて椅子へ
腰を卸した。果して
詩の
為に
鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に
促がされて飲んだのか、追窮する勇気も
出なかつた。よし
前者とした所で、詩を
衒つて、小説の真似なぞをした
受売の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「気分はもう
好くなりましたか」と
聞いた。
三千代の
頬に漸やく色が
出て
来た。
袂から
手帛を取り
出して、
口の
辺を
拭きながら
話を
始めた。――大抵は伝通院前から電車へ
乗つて本郷迄
買物に
出るんだが、
人に聞いて見ると、本郷の方は
神楽坂に
比べて、
何うしても一割か二割
物が
高いと云ふので、
此間から一二度
此方の方へ
出て
来て見た。
此前も
寄る
筈であつたが、つい
遅くなつたので
急いで
帰つた。
今日は其
積で
早く
宅を
出た。が、
御息み
中だつたので、又
通り迄行つて
買物を
済まして
帰り
掛けに
寄る事にした。
所が天気模様が
悪くなつて、
藁店を
上がり
掛けるとぽつ/\
降り
出した。
傘を
持つて
来なかつたので、
濡れまいと思つて、つい
急ぎ
過ぎたものだから、すぐ
身体に
障つて、
息が
苦しくなつて困つた。――
「けれども、
慣れつこに
為てるんだから、
驚ろきやしません」と云つて、代助を見て
淋しい
笑ひ
方をした。
「心臓の
方は、まだ
悉皆善くないんですか」と代助は気の毒さうな
顔で尋ねた。
「
悉皆善くなるなんて、生涯駄目ですわ」
意味の絶望な程、三千代の言葉は
沈んでゐなかつた。
繊い
指を
反して
穿めてゐる
指環を見た。それから、
手帛を丸めて、又
袂へ入れた。代助は
眼を
俯せた女の
額の、
髪に
連なる所を眺めてゐた。
すると、三千代は急に思ひ
出した様に、
此間の
小切手の礼を
述べ
出した。
其時何だか少し
頬を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが
善く
分つた。彼はそれを、
貸借に関係した
羞恥の
血潮とのみ
解釈した。そこで
話をすぐ
他所へ
外した。
先刻三千代が
提げて
這入て
来た
百合の花が、依然として
洋卓の
上に
載つてゐる。
甘たるい
強い
香が
二人の
間に立ちつゝあつた。代助は此
重苦しい刺激を鼻の
先に置くに堪へなかつた。けれども
無断で、取り
除ける程、三千代に
対して思ひ切つた振舞が
出来なかつた。
「
此花は
何うしたんです。
買て
来たんですか」と
聞いた。三千代は
黙つて
首肯いた。さうして、
「
好い
香でせう」と云つて、自分の
鼻を、
瓣の
傍迄
持つて
来て、ふんと
嗅いで見せた。代助は思はず
足を
真直に
踏ん
張つて、
身を
後の方へ
反らした。
「さう
傍で
嗅いぢや
不可ない」
「あら
何故」
「
何故つて理由もないんだが、
不可ない」
代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「
貴方、
此花、
御嫌なの?」
代助は椅子の
足を
斜に立てゝ、
身体を
後へ
伸した儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、
買つて
来なくつても
好かつたのに。
詰らないわ、
回り
路をして。御
負に
雨に
降られ
損なつて、
息を
切らして」
雨は本当に
降つて来た。
雨滴が樋に
集まつて、流れる
音がざあと
聞えた。代助は椅子から立ち
上がつた。
眼の
前にある百合の
束を取り
上げて、
根元を
括つた
濡藁を
り
切つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く
活けやう」と云ひながら、すぐ
先刻の
大鉢の
中に
投げ
込んだ。
茎が
長すぎるので、
根が
水を
跳ねて、
飛び
出しさうになる。代助は
滴る
茎を
又鉢から
抜いた。さうして
洋卓の
引出から西洋
鋏を
出して、ぷつり/\と
半分程の長さに
剪り
詰めた。さうして、大きな
花を、リリー、オフ、ゼ、
レーの
簇がる
上に
浮かした。
「さあ
是で
好い」と代助は
鋏を
洋卓の
上に置いた。三千代は此不思議に無作法に
活けられた百合を、しばらく見てゐたが、
突然、
「あなた、
何時から此花が御
嫌になつたの」と妙な質問をかけた。
昔し三千代の
兄がまだ
生きてゐる時分、ある日
何かのはづみに、長い
百合を
買つて、代助が
谷中の
家を
訪ねた事があつた。
其時彼は三千代に
危しげな
花瓶の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて
来た
花を
活けて、三千代にも、三千代の
兄にも、
床へ
向直つて
眺めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「
貴方だつて、
鼻を
着けて
嗅いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。
そのうち
雨は
益深くなつた。
家を
包んで遠い
音が
聴えた。
門野が
出て
来て、
少し
寒い様ですな、
硝子戸を
閉めませうかと
聞いた。
硝子戸を
引く
間、
二人は
顔を
揃えて
庭の方を
見てゐた。
青い
木の
葉が
悉く
濡れて、
静かな
湿り
気が、
硝子越に代助の
頭に
吹き
込んで
来た。
世の
中の
浮いてゐるものは残らず
大地の
上に落ち
付いた様に見えた。代助は
久し
振りで
吾に
返つた心持がした。
「
好い
雨ですね」と云つた。
「
些とも
好かないわ、
私、
草履を
穿いて
来たんですもの」
三千代は寧ろ
恨めしさうに樋から
洩る
雨点を
眺めた。
「
帰りには
車を云ひ
付けて
上げるから
可いでせう。
緩りなさい」
三千代はあまり
緩り
出来さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、
「
貴方も相変らず
呑気な事を
仰しやるのね」と
窘めた。けれども其
眼元には
笑の
影が
泛んでゐた。
今迄三千代の
陰に
隠れてぼんやりしてゐた平岡の
顔が、此時
明らかに代助の
心の
瞳に
映つた。代助は急に
薄暗がりから
物に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、
離れ
難い黒い
影を引き
摺つて
歩いてゐる女であつた。
「平岡君は
何うしました」とわざと
何気なく
聞いた。すると三千代の
口元が
心持締つて見えた。
「相変らずですわ」
「まだ
何にも
見付らないんですか」
「その方はまあ安心なの。
来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりや
好かつた。
些とも知らなかつた。そんなら当分夫で
好いぢやありませんか」
「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で
真面目に云つた。代助は、其時三千代を大変
可愛く感じた。引き
続いて、
「
彼方の
方は差し
当り
責められる様な事もないんですか」と
聞いた。
「
彼方の
方つて――」と
少し
逡巡つてゐた三千代は、
急に
顔を
赧らめた。
「
私、実は
今日夫で
御詫に
上つたのよ」と云ひながら、一度
俯向いた顔を又
上げた。
代助は少しでも
気不味い様子を見せて、此上にも、女の
優しい血潮を
動かすに堪えなかつた。同時に、わざと
向ふの意を迎へる様な言葉を
掛けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。
先達ての二百円は、代助から
受取るとすぐ
借銭の方へ
回す
筈であつたが、
新らしく
家を
持つた
為、
色々入費が
掛つたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か
弁じたのが
始りであつた。あとはと思つてゐると、
今度は毎日の
活計に
追はれ
出した。自分ながら
好い
心持はしなかつたけれども、
仕方なしに
困るとは
使ひ、
困るとは
使して、とう/\
荒増亡くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は
今日迄
斯うして
暮らしては
行けなかつたのである。今から考へて見ると、
一層の事
無ければ
無いなりに、
何うか
斯うか
工面も
付いたかも知れないが、なまじい、
手元に
有つたものだから、
苦し
紛れに、
急場の
間に
合はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた
借銭の方は、いまだに其儘にしてある。是は
寧ろ平岡の
悪いのではない。全く自分の
過である。
「
私、
本当に
済まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拝借するときは、決して
貴方を
瞞して
嘘を
吐く
積ぢやなかつたんだから、
堪忍して頂戴」と三千代は甚だ
苦しさうに
言訳をした。
「
何うせ
貴方に
上げたんだから、
何う
使つたつて、
誰も何とも云ふ訳はないでせう。
役にさへ
立てば
夫で
好いぢやありませんか」と代助は
慰めた。さうして
貴方といふ字をことさらに
重く且つ
緩く
響かせた。三千代はたゞ、
「
私、
夫で漸く安心したわ」と云つた丈であつた。
雨が
頻なので、
帰るときには約束通り
車を雇つた。
寒いので、セルの
上へ男の羽織を
着せやうとしたら、三千代は笑つて
着なかつた。
何時の
間にか、
人が
絽の羽織を
着て
歩く様になつた。二三日、
宅で
調物をして
庭先より
外に
眺めなかつた代助は、冬帽を
被つて
表へ出て
見て、急に暑さを感じた。自分もセルを
脱がなければならないと思つて、五六町
歩くうちに、
袷を
着た
人に
二人出逢つた。
左様かと思ふと新らしい氷屋で書生が
洋盃を
手にして、
冷たさうなものを飲んでゐた。代助は其時誠太郎を思ひ
出した。
近頃代助は
元よりも誠太郎が
好きになつた。
外の
人間と
話してゐると、
人間の
皮と
話す様で
歯痒くつてならなかつた。けれども、
顧みて自分を見ると、自分は
人間中で、尤も相手を
歯痒がらせる様に
拵えられてゐた。是も
長年生存競争の
因果に
曝された
罰かと思ふと余り難有い心持はしなかつた。
此頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全く
此間浅草の
奥山へ一所に
連れて
行つた結果である。あの一図な所はよく、
嫂の気性を受け
継いでゐる。然し
兄の子丈あつて、一図なうちに、
何処か
逼らない
鷹揚な気象がある。誠太郎の相手をしてゐると、向ふの
魂が遠慮なく
此方へ
流れ
込んで
来るから愉快である。実際代助は、
昼夜の区別なく、武装を
解いた
事のない精神に、包囲されるのが苦痛であつた。
誠太郎は
此春から中学校へ行き
出した。すると急に
脊丈が
延びて
来る様に思はれた。もう一二年すると声が
変る。それから
先何んな
径路を取つて、生長するか
分らないが、到底
人間として、生存する
為には、
人間から
嫌はれると云ふ運命に到着するに
違ない。
其時、
彼は
穏やかに人の目に
着かない
服装をして、
乞食の如く、何物をか求めつゝ、
人の
市をうろついて
歩くだらう。
代助は堀
端へ
出た。
此間迄
向の土手にむら
躑躅が、
団団と紅
白の模様を青い
中に印してゐたのが、丸で
跡形もなくなつて、のべつに草が
生い茂つてゐる高い傾斜の
上に、大きな
松が何十本となく並んで、
何処迄もつゞいてゐる。
空は奇麗に
晴れた。代助は
電車に
乗つて、
宅へ行つて、
嫂に
調戯つて、誠太郎と遊ばうと思つたが、急に
厭になつて、
此松を
見ながら、
草臥る所迄
堀端を
伝つて行く気になつた。
新見付へ
来ると、
向から
来たり、
此方から
行つたりする電車が
苦になり
出したので、
堀を
横切つて、招魂社の
横から番町へ
出た。そこをぐる/\
回つて
歩いてゐるうちに、かく目的なしに
歩いてゐる
事が、不意に馬鹿らしく思はれた。目的があつて
歩くものは賤民だと、
彼は平生から信じてゐたのであるけれども、此場合に
限つて、其賤民の方が
偉い様な気がした。
全たく、又アンニユイに襲はれたと悟つて、
帰りだした。神楽坂へかゝると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしてゐた。
其音が甚しく
金属性の刺激を帯びてゐて、大いに代助の
頭に
応へた。
家の
門を
這入ると、今度は
門野が、主人の留守を幸ひと、大きな声で琵琶歌をうたつてゐた。
夫でも代助の
足音を
聞いて、ぴたりと
已めた。
「いや、御早うがしたな」と云つて玄関へ
出て
来た。代助は何にも答へずに、帽子を
其所へ
掛けた儘、椽側から書斎へ這入つた。さうして、わざ/\障子を
締め切つた。つゞいて
湯呑に茶を
注いで持つて
来た門野が、
「
締めときますか。
暑かありませんか」と
聞いた。代助は
袂から
手帛を
出して
額を拭いてゐたが、矢っ張り、
「
締めて置いてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子を
締めて
出て行つた。代助は
暗くした
室のなかに、
十分許ぽかんとしてゐた。
彼は
人の
羨やむ程
光沢の
好い
皮膚と、労働者に見出しがたい様に柔かな筋肉を
有つた男であつた。彼は生れて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかつた位、健康に於て幸福を
享けてゐた。彼はこれでこそ、
生甲斐があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取つて、
他人の倍以上に価値を
有つてゐた。彼の
頭は、彼の肉体と同じく
確であつた。たゞ始終論理に苦しめられてゐたのは事実である。それから
時々、
頭の
中心が、
大弓の
的の様に、
二重もしくは
三重にかさなる様に感ずる事があつた。ことに、
今日は
朝から
左様な心持がした。
代助が
黙然として、
自己は何の
為に
此世の
中に
生れて
来たかを考へるのは
斯う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を
捕へて、
彼の
眼前に据ゑ付けて見た。其
動機は、
単に哲学上の好奇心から
来た
事もあるし、又
世間の現象が、
余りに
複雑な
色彩を以て、
彼の
頭を染め
付けやうと
焦るから
来る事もあるし、又最後には
今日の如くアンニユイの結果として
来る事もあるが、其
都度彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。
之と反対に、
生れた
人間に、始めてある目的が
出来て
来るのであつた。最初から客観的にある目的を
拵らえて、それを
人間に附着するのは、其
人間の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから
人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何な本人でも、之を随意に作る事は出来ない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである。
此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。
歩きたいから
歩く。すると
歩くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、
歩いたり、
考へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、
自ら自己存在の目的を破壊したも同然である。
だから、代助は今日迄、自分の脳裏に
願望、
嗜欲が起るたび
毎に、是等の
願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる
願望嗜欲が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から
出る一目的の消耗と解釈してゐた。これを
煎じ
詰めると、彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして、他を
偽らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。
此主義を出来る丈遂行する
彼は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の
為に、こんな事をしてゐるのかと考へ
出す事がある。彼が番町を散歩しながら、
何故散歩しつゝあるかと疑つたのは正に
是である。
其時
彼は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、
自ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイと
名けてゐた。アンニユイに
罹ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、
何の
為と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに
外ならなかつたからである。
彼は
立て
切つた
室の
中で、一二度
頭を抑えて
振り
動かして見た。彼は
昔から
今日迄の思索家の、
屡繰り
返した無意義な疑義を、又
脳裏に
拈定するに堪えなかつた。その
姿のちらりと
眼前に
起つた時、またかと云ふ具合に、すぐ
切り棄てゝ仕舞つた。同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じた。従つて行為其物を目的として、円満に遂行する興味も
有たなかつた。彼はたゞ
一人荒野の
中に
立つた。茫然としてゐた。
彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ
来ると、此二つのものが
火花を
散らして切り
結ぶ
関門があると予想してゐた。それで生活欲を低い程度に
留めて我慢してゐた。彼の
室は普通の
日本間であつた。
是と云ふ程の大した装飾もなかつた。彼に云はせると、
額さへ気の
利いたものは掛けてなかつた。
色彩として
眼を
惹く程に
美しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。
彼は今此書物の
中に、茫然として
坐つた。
良あつて、これほど
寐入つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を
何うかしなければならぬと、思ひながら、
室の
中をぐる/\
見廻した。それから、又ぽかんとして
壁を
眺めた。が、
最後に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして
口の
内で云つた。
「矢つ張り、三千代さんに
逢はなくちや
不可ん」
彼は足の進まない方角へ散歩に
出たのを悔いた。もう一遍
出直して、平岡の
許迄
行かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が
来た。新らしい
麦藁帽を
被つて、閑静な薄い羽織を着て、
暑い/\と云つて赤い
顔を
拭いた。
「
何だつて、
今時分来たんだ」と代助は
愛想もなく云ひ放つた。彼と寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。
「今
時分が丁度訪問に
好い刻限だらう。
君、又
昼寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で
不可ん。君は一体何の
為に
生れて
来たのだつたかね」と云つて、寺尾は
麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ
風を
送つた。時候はまだ夫程暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。
「何の
為に
生れて
来やうと、余計な御世話だ。
夫より君こそ何しに
来たんだ。又「
此所十日許の
間」ぢやないか、
金の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく
先へ
断つた。
「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は
黙つて、寺尾の
顔を見てゐた。それは、
空しい
壁を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた。
寺尾は
懐から
汚ない
仮綴の書物を
出した。
「是を
訳さなけりやならないんだ」と云つた。代助は依然として
黙つてゐた。
「
食ふに
困らないと思つて、さう
無精な
顔をしなくつて
好からう。もう少し
判然として
呉れ。
此方は
生死の
戦だ」と云つて、寺尾は
小形の本をとん/\と
椅子の
角で二返
敲いた。
「
何時迄に」
寺尾は、書物の
頁をさら/\と
繰つて見せたが、断然たる調子で、
「二週間」と答へた
後で、「
何うでも
斯うでも、夫迄に
片付なけりや、
食へないんだから仕方がない」と説明した。
「
偉い
勢だね」と代助は
冷かした。
「だから、本郷からわざ/\
遣つて
来たんだ。なに、
金は
借りなくても
好い。――
貸せば猶
好いが――
夫より少し
分らない所があるから、相談しやうと
思つて」
「面倒だな。僕は
今日は
頭が
悪くつて、そんな事は
遣つてゐられないよ。
好い加減に訳して置けば
構はないぢやないか。どうせ原稿料は
頁で呉れるんだらう」
「なんぼ、
僕だつて、さう無責任な翻訳は
出来ないだらうぢやないか。誤訳でも指摘されると
後から面倒だあね」
「仕様がないな」と云つて、代助は矢っ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、
「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の様に、のらくら遊んでる
人は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。なに、僕だつて、
本の
善く読める
人の所へ
行く気なら、わざ/\君の所迄
来やしない。けれども、
左んな
人は
君と
違つて、みんな
忙しいんだからな」と
少しも辟易した様子を見せなかつた。代助は喧嘩をするか、相談に応ずるか
何方かだと覚悟を
極めた。彼の性質として、
斯う云ふ相手を軽蔑する事は出来るが、
怒り
付ける気は
出せなかつた。
「ぢや成るべく
少しに仕様ぢやないか」と
断つて置いて、
符号の
附けてある所丈を見た。代助は其書物の梗概さへ聞く勇気がなかつた。相談を受けた部分にも
曖昧な所は沢山あつた。寺尾は、やがて、
「やあ、難有う」と云つて本を伏せた。
「
分らない所は
何する」と代助が
聞いた。
「なに
何かする。――
誰に
聞いたつて、さう善く
分りやしまい。第一
時間がないから已を得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如く
天から極めてゐた。
相談が
済むと、寺尾は例によつて、文学談を持ち
出した。不思議な事に、さうなると、自己の翻訳とは
違つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を
可笑しく思つた。けれども面倒だから、
口へは
出さなかつた。
寺尾の御蔭で、代助は其日とう/\平岡へ行きはぐれて仕舞つた。
晩食の
時、丸善から
小包が
届いた。
箸を
措いて
開けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であつた。代助はそれを
腋の
下に
抱へ
込んで、書斎へ帰つた。一冊づゝ順々に取り
上げて、
暗いながら二三
頁、
捲る様に
眼を
通したが
何処も彼の注意を
惹く様な所はなかつた。最後の一冊に至つては、其名前さへ既に忘れてゐた。
何れ
其中読む事にしやうと云ふ考で、一所に
纏めた儘、立つて、本棚の
上に
重ねて置いた。椽側から
外を
窺うと、奇麗な
空が、高い
色を
失ひかけて、
隣の
梧桐の
一際濃く見える
上に、
薄い
月が
出てゐた。
そこへ
門野が大きな
洋燈を持つて
這入つて
来た。それには
絹縮の
様に、
竪に
溝の
入つた青い
笠が
掛けてあつた。
門野はそれを
洋卓の
上に
置いて、又椽側へ
出たが、
出掛に、
「もう、そろ/\
蛍が
出る時分ですな」と云つた。代助は
可笑な
顔をして、
「まだ
出やしまい」と答へた。すると
門野は例の如く、
「
左様でしやうか」と云ふ返事をしたが、すぐ
真面目な調子で、「
蛍てえものは、
昔は
大分流行たもんだが、近来は
余り文士
方が
騒がない様になりましたな。
何う云ふもんでせう。
蛍だの
烏だのつて、
此頃ぢやついぞ見た事がない位なもんだ」と云つた。
「
左様さ。
何う云ふ
訳だらう」と代助も
空つとぼけて、真面目な挨拶をした。すると
門野は、
「矢っ張り、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、
自から、えへゝゝと、
洒落の結末をつけて、書生部屋へ帰つて行つた。代助もつゞいて玄関迄
出た。門野は
振返た。
「また御
出掛ですか。よござんす。
洋燈は
私が気を
付けますから。――
小母さんが
先刻から
腹が
痛いつて
寐たんですが、
何大した事はないでせう。
御緩り」
代助は
門を
出た。江戸川迄
来ると、
河の
水がもう
暗くなつてゐた。彼は固より平岡を
訪ねる気であつた。から
何時もの様に
川辺を
伝はないで、すぐ
橋を
渡つて、
金剛寺坂を
上つた。
実を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼が述べてあつた。それから、――
其後色々朋友や先輩の尽力を辱うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分も
遣つて見たい様な気がする。然し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では
宜しくあるまいと思つて、一応御相談をすると云ふ意味が
後に書いてあつた。代助は、
其当時平岡から、
兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、断わりもせず
今日迄
放つて置いた。ので、其返事を
促がされたのだと受取つた。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡
過ると云ふ考もあつたので、
翌日出向いて
行つて、色々
兄の方の事情を話して当分、
此方は断念して呉れる様に頼んだ。平岡は
其時、僕も
大方左様だらうと思つてゐたと云つて、妙な
眼をして三千代の方を
見た。
いま一遍は、愈新聞の方が
極まつたから、
一晩緩り
君と
飲みたい。
何日に
来て呉れといふ平岡の
端書が
着いた時、折悪く差支が出来たからと云つて散歩の序に断わりに
寄つたのである。其時平岡は座敷の
真中に
引繰り
返つて
寐てゐた。
昨夕どこかの
会へ
出て、飲み
過ごした
結果だと云つて、赤い
眼をしきりに
摩つた。代助を見て、
突然、
人間は
何うしても君の様に独身でなけりや仕事は出来ない。僕も
一人なら満洲へでも亜米利加へでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は
次の
間で、こつそり
仕事をしてゐた。
三遍目には、平岡の社へ出た留守を
訪ねた。其時は用事も何もなかつた。約三十分許り椽へ
腰を
掛けて
話した。
夫から以後は可成小石川の方面へ立ち
回らない事にして
今夜に至たのである。代助は竹早町へ
上つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ
来た。格子の
外から声を
掛ると、
洋燈を持つて下女が
出た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は
出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗つて、本郷迄
来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、
麦酒をぐい/\飲んだ。
翌日眼が
覚めると、依然として
脳の中心から、
半径の
違つた
円が、
頭を
二重に仕切つてゐる様な心持がした。
斯う云ふ時に代助は、
頭の
内側と
外側が、
質の
異なつた切り
組み細工で
出来上つてゐるとしか感じ得られない
癖になつてゐた。
夫で
能く
自分で
自分の
頭を
振つてみて、二つのものを
混ぜやうと
力めたものである。
彼は
今枕の
上へ
髪を
着けたなり、
右の手を
固めて、
耳の
上を二三度
敲いた。
代助は
斯ゝる
脳髄の異状を以て、かつて
酒の
咎に帰した事はなかつた。彼は小供の
時から
酒に量を得た男であつた。いくら
飲んでも、左程平常を離れなかつた。のみならず、
一度熟睡さへすれば、あとは
身体に何の故障も認める事が
出来なかつた。
嘗て何かのはづみに、
兄と
競り
飲みをやつて、
三合入の徳利を十三本倒した事がある。其
翌日代助は平気な顔をして学校へ
出た。
兄は
二日も
頭が
痛いと云つて
苦り
切つてゐた。さうして、これを
年齢の
違だと云つた。
昨夕飲んだ
麦酒は
是に
比べると
愚なものだと、代助は
頭を
敲きながら考へた。
幸に、代助はいくら
頭が
二重になつても、脳の活動に
狂を受けた事がなかつた。時としては、たゞ
頭を
使ふのが臆劫になつた。けれども努力さへすれば、充分複雑な仕事に堪えるといふ自信があつた。だから、
斯んな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に
悪い影響を与へるものとしては、悲観する余地がなかつた。始めて、こんな感覚があつた時は驚ろいた。二遍目は寧ろ新奇な経験として
喜んだ。この
頃は、此経験が、多くの場合に、精神気力の
低落に
伴ふ様になつた。内容の充実しない行為を敢てして、生活する時の徴候になつた。代助にはそこが不愉快だつた。
床の
上に
起き
上がつて、彼は又
頭を
振つた。
朝食の時、
門野は
今朝の新聞に出てゐた
蛇と
鷲の
戦の事を
話し掛けたが、代助は応じなかつた。門野は又
始まつたなと思つて、茶の
間を
出た。勝手の方で、
「
小母さん、さう
働らいちや
悪いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、
彼方へ
行つて
休んで
御出」と
婆さんを
労つてゐた。代助は始めて
婆さんの病気の事を思ひ
出した。
何か
優しい言葉でも掛ける所であつたが、面倒だと思つて
已めにした。
食刀を
置くや否や、代助はすぐ紅茶々碗を
持つて書斎へ
這入つた。時計を見るともう九時
過であつた。しばらく、
庭を
眺めながら、茶を
啜り
延ばしてゐると、
門野が
来て、
「御
宅から
御迎が参りました」と云つた。代助は
宅から
迎を受ける
覚がなかつた。聞き
返して見ても、
門野は
車夫がとか何とか要領を得ない事を云ふので、代助は
頭を振り/\玄関へ
出て見た。すると、そこに
兄の
車を
引く
勝と云ふのがゐた。ちやんと、
護謨輪の
車を玄関へ
横付にして、叮嚀に御辞義をした。
「
勝、
御迎つて
何だい」と
聞くと、
勝は恐縮の態度で、
「奥様が
車を
持つて、
迎に
行つて
来いつて、
御仰いました」
「
何か急用でも
出来たのかい」
勝は
固より
何事も知らなかつた。
「
御出になれば
分るからつて――」と簡潔に答へて、
言葉の尻を
結ばなかつた。
代助は奥へ
這入つた。
婆さんを呼んで
着物を出させやうと思つたが、腹の痛むものを
使ふのが
厭なので、自分で簟笥の
抽出を
掻き
回して、急いで
身支度をして、
勝の
車に乗つて
出た。
其日は
風が強く
吹いた。
勝は
苦しさうに、
前の
方に
曲んで
馳けた。
乗つてゐた代助は、二重の
頭がぐる/\回転するほど、
風に吹かれた。けれども、
音も
響もない
車輪が美くしく
動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で
宙に
運んで行く有様が愉快であつた。
青山の
家へ着く時分には、
起きた頃とは
違つて、
気色が余程晴々して
来た。
何か
事が
起つたのかと思つて、
上り
掛けに、書生部屋を
覗いて見たら、
直木と誠太郎がたつた
二人で、
白砂糖を
振り
掛けた
苺を
食つてゐた。
「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ
居ずまひを
直して、挨拶をした。誠太郎は
唇の
縁を
濡らした
儘、突然、
「
叔父さん、
奥さんは
何時貰ふんですか」と
聞いた。直木はにや/\してゐる。代助は一寸返答に窮した。已を得ず、
「
今日は
何故学校へ
行かないんだ。さうして
朝つ
腹から
苺なんぞを
食つて」と
調戯ふ様に、
叱る様に云つた。
「だつて
今日は日曜ぢやありませんか」と誠太郎は
真面目になつた。
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
直木は代助の
顔を見てとう/\笑ひ
出した。代助も笑つて、座敷へ
来た。そこには
誰も居なかつた。
替え立ての
畳の
上に、丸い紫檀の
刳抜盆が一つ
出てゐて、
中に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様
画が
染め
付けてあつた。からんとした
広い座敷へ
朝の
緑が
庭から
射し込んで、
凡てが
静かに見えた。
戸外の
風は急に落ちた様に思はれた。
座敷を通り
抜けて、
兄の
部屋の
方へ
来たら、
人の
影がした。
「あら、だつて、
夫ぢや
余まりだわ」と云ふ
嫂の声が聞えた。代助は
中へ這入つた。
中には
兄と
嫂と縫子がゐた。
兄は
角帯に
金鎖を
巻き
付けて、近頃流行る妙な
絽の羽織を
着て、
此方を
向いて立つてゐた。代助の
姿を見て、
「そら
来た。ね。だから一所に
連れて
行つて
御貰よ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固より
分らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。
「代さん、
今日貴方、無論
暇でせう」と云つた。
「えゝ、まあ
暇です」と代助は答へた。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ
行つて頂戴」
代助は
嫂の此言葉を聞いて、
頭の
中に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども
今日は
平常の様に、
嫂に
調戯ふ勇気がなかつた。面倒だから、平気な
顔をして、
「えゝ
宜しい、
行きませう」と
機嫌よく答へた。すると梅子は、
「だつて、
貴方は、
最早、一遍
観たつて云ふんぢやありませんか」と
聞き返した。
「一遍だらうが、二遍だらうが、
些とも
構はない。
行きませう」と代助は梅子を見て微笑した。
「
貴方も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は益滑稽を
感じた。
兄は用があると云つて、すぐ
出て
行つた。四時頃用が
済んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子丈で見てゐたら
好ささうなものだが、梅子は
夫が
厭だと云つた。そんなら直木を連れて
行けと
兄から注意された時、直木は
紺絣を
着て、
袴を
穿いて、六づかしく
坐つてゐて
不可ないと答へた。
夫で仕方がないから代助を迎ひに
遣つたのだ、と、是は
兄が
出掛の説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、
左様ですかと答へた。さうして、
嫂は
幕の
相間に
話し相手が
欲いのと、
夫からいざと云ふ
時に、
色々用を云ひ付けたいものだから、わざ/\自分を呼び
寄せたに違ないと解釈した。
梅子と縫子は長い時間を御
化粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、
両人の
傍に
附いてゐた。さうして時々は、面白
半分の
冷かしも云つた。縫子からは
叔父さん随分だわを二三度繰り
返された。
父は
今朝早くから
出て、
家にゐなかつた。
何処へ行つたのだか、
嫂は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。
此間の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか
顔を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に
過ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。
父は座敷の方へ
出て
来て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば
逃げ支度をすると云つて
怒つた。と
嫂は
鏡の前で
夏帯の尻を撫でながら代助に話した。
「ひどく、信用を
落したもんだな」
代助は斯う云つて、
嫂と
縫子の
蝙蝠傘を
抱げて
一足先へ玄関へ
出た。車はそこに三挺
并んでゐた。
代助は
風を恐れて
鳥打帽を
被つてゐた。
風は漸く
歇んで、強い
日が
雲の
隙間から
頭の
上を
照らした。
先へ
行く梅子と縫子は
傘を
広げた。代助は
時々手の
甲を
額の
前に
翳した。
芝居の
中では、
嫂も
縫子も非常に熱心な
観客であつた。代助は二返
目の
所為といひ、此
三四日来の脳の状態からと云ひ、
左様一図に舞台ばかりに気を
取られてゐる
訳にも
行かなかつた。堪えず精神に重苦しい
暑を感ずるので、屡
団扇を
手にして、
風を
襟から
頭へ
送つてゐた。
幕の
合間に縫子が代助の方を
向いて
時々妙な事を
聞いた。
何故あの人は
盥で酒を飲むんだとか、
何故坊さんが急に大将になれるんだとか、大抵説明の出来ない質問のみであつた。梅子はそれを聞くたんびに笑つてゐた。代助は不図二三日前新聞で見た、ある文学者の劇評を思ひ
出した。それには、日本の脚本が、あまりに突飛な
筋に
富んでゐるので、
楽に見物が出来ないと
書いてあつた。代助は
其時、役者の
立場から考へて、
何もそんな
人に見て貰ふ必要はあるまいと思つた。作者に云ふべき
小言を、役者の方へ持つてくるのは、近松の作を知るために、越路の浄瑠理が聴きたいと云ふ愚物と同じ事だと云つて
門野に話した。門野は依然として、
左様なもんでせうかなと云つてゐた。
小供のうちから日本在来の芝居を見慣れた代助は、無論梅子と同じ様に、単純なる芸術の鑑賞家であつた。さうして舞台に於ける芸術の意味を、役者の
手腕に就てのみ用ひべきものと狭義に解釈してゐた。だから梅子とは大いに
話が
合つた。
時々顔を
見合して、
黒人の様な批評を加へて、互に感心してゐた。けれども、大体に於て、舞台にはもう
厭が
来てゐた。
幕の
途中でも、双眼鏡で、
彼方を見たり、
此方を見たりしてゐた。双眼鏡の
向ふ所には芸者が沢山ゐた。そのあるものは、
先方でも
眼鏡の
先を
此方へ向けてゐた。
代助の
右隣には自分と同年輩の男が丸髷に
結た美くしい細君を連れて
来てゐた。代助は其細君の横顔を見て、自分の
近付のある芸者によく似てゐると思つた。
左隣には男
連が
四人許ゐた。さうして、それが、
悉く博士であつた。代助は其顔を一々覚えてゐた。其又
隣に、
広い所を、たつた
二人で
専領してゐるものがあつた。その
一人は、
兄と同じ位な
年恰好で、
正しい洋服を
着てゐた。さうして
金縁の
眼鏡を掛けて、物を
見るときには、
顎を
前へ
出して、
心持仰向く
癖があつた。代助は
此男を見たとき、
何所か
見覚のある様な気がした。が、ついに思ひ
出さうと
力めても見なかつた。其
伴侶は
若い女であつた。代助はまだ
廿になるまいと判定した。羽織を
着ないで、普通よりは大きく
廂を
出して、多くは
顎を
襟元へぴたりと
着けて
坐つてゐた。
代助は
苦しいので、
何返も
席を
立つて、
後の廊下へ
出て、
狭い
空を仰いだ。
兄が
来たら、
嫂と縫子を引き
渡して
早く帰りたい位に思つた。一
遍は縫子を
連れて、
其所等をぐる/\運動して
歩いた。仕舞には
些と酒でも取り
寄せて
飲まうかと思つた。
兄は
日暮とすれ/\に
来た。大変
遅かつたぢやありませんかと云つた時、帯の
間から、金時計を
出して見せた。実際六時少し
回つた許であつた。
兄は例の如く、平気な
顔をして、方々
見回してゐた。が、
飯を
食ふ時、立つて廊下へ出たぎり、
中々帰つて
来なかつた。しばらくして、代助は不図振り
返つたら、一軒
置いて
隣りの
金縁の
眼鏡を掛けた男の所へ這入つて、
話をしてゐた。若い女にも時々話しかける様であつた。然し女の方では
笑ひ顔を
一寸見せる丈で、すぐ舞台の方へ
真面目に向き直つた。代助は
嫂に
其人の名を
聞かうと思つたが、
兄は
人の
集る所へさへ出れば、
何所へでも
斯の如く平気に這入り込む程、
世間の
広い、又
世間を自分の
家の様に心得てゐる男であるから、気にも
掛けずに
黙つてゐた。
すると
幕の切れ目に、
兄が
入口迄
帰つて
来て、代助
一寸来いと云ひながら、代助を其
金縁の男の席へ連れて
行つて、愚弟だと紹介した。それから代助には、是が神戸の高木さんだと云つて
引合した。
金縁の紳士は、
若い女を顧みて、私の
姪ですと云つた。女はしとやかに御辞義をした。
其時兄が、佐川さんの令嬢だと
口を
添へた。代助は女の名を聞いたとき、
旨く
掛けられたと
腹の
中で思つた。が何事も知らぬものゝ如く
装つて、
好加減に
話してゐた。すると
嫂が
一寸自分の方を振り
向いた。
五六
分して、代助は
兄と
共に自分の席に
返つた。佐川の
娘を紹介される迄は、
兄の見え次第
逃げる気であつたが、
今では
左様不可なくなつた。
余り現金に見えては、却つて
好くない結果を引き
起しさうな気がしたので、苦しいのを我慢して
坐つてゐた。
兄も芝居に就ては全たく興味がなささうだつたけれども、例の如く鷹揚に構えて、黒い
頭を
燻す程、
葉巻をゆらした。
時々評をすると、
縫子あの
幕は
綺麗だらう位の所であつた。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問も掛けず、一言の批評も加へなかつた。代助には其
澄した様子が却つて滑稽に思はれた。彼は
今日迄
嫂の策略にかゝつた事が
時々あつた。けれども、
只の一返も
腹を
立てた事はなかつた。
今度の狂言も、平生ならば、退屈
紛らしの遊戯程度に解釈して、笑つて仕舞たかも知れない。
夫許ではない。もし自分が結婚する気なら、却つて、此狂言を利用して、
自ら人巧的に、
御目出度喜劇を作り
上げて、生涯自分を
嘲けつて満足する事も出来た。然し
此姉迄が、
今の自分を、
父や
兄と共謀して、
漸々窮地に
誘なつて
行くかと思ふと、
流石がに此
所作をたゞの滑稽として、観察する訳には
行かなかつた。代助は
此先、
嫂が此事件を
何う発展させる気だらうと考へて、少々弱つた。
家のものゝ
中で、
嫂が一番
斯んな計画に興味をもつてゐたからである。もし
嫂が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々
家族のものと疎遠にならなければならないと云ふ恐れが、代助の
頭の
何処かに
潜んでゐた。
芝居の仕舞になつたのは十一時
近くであつた。
外へ
出て見ると、風は全く
歇んだが、
月も
星も
見えない
静かな晩を、電燈が少し許り照らしてゐた。時間が
遅いので茶屋では
話をする
暇もなかつた。三人の
迎は
来てゐたが、代助はつい
車を
誂へて置くのを忘れた。面倒だと思つて、
嫂の
勧を
斥けて、茶屋の前から電車に乗つた。
数寄屋橋で
乗り
易え様と思つて、
黒い
路の
中に、待ち
合はしてゐると、小供を
負つた
神さんが、
退儀さうに
向から近
寄つて
来た。電車は
向ふ
側を二三度
通つた。代助と
軌道の
間には、
土か
石の
積んだものが、
高い土手の様に
挟まつてゐた。代助は
始めて
間違つた所に
立つてゐる事を悟つた。
「御神さん、電車へ乗るなら、
此所ぢや
不可ない。
向側だ」と教へながら
歩き
出した。神さんは礼を云つて
跟いて
来た。代助は
手探でもする様に、
暗い所を
好加減に
歩いた。十四五
間左の方へ
濠際を
目標に
出たら、漸く
停留所の柱が
見付つた。神さんは
其所で、神田橋の方へ
向いて乗つた。代助はたつた
一人反対の赤坂
行へ這入つた。
車の
中では、
眠くて
寐られない様な気がした。
揺られながらも今夜の睡眠が苦になつた。
彼は大いに疲労して、
白昼の凡てに、
惰気を催うすにも拘はらず、知られざる
何物かの興奮の
為に、静かな
夜を
恣にする事が出来ない事がよくあつた。
彼の
脳裏には、
今日の
日中に、
交る/″\
痕を残した色彩が、
時の前後と
形の差別を忘れて、一度に
散らついてゐた。さうして、それが
何の色彩であるか、何の運動であるか
慥かに
解らなかつた。
彼は
眼を
眠つて、
家へ
帰つたら、
又ヰスキーの
力を借りやうと覚悟した。
彼は
此取り留めのない花やかな
色調の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして
其所にわが安住の地を
見出した様な気がした。けれども其安住の地は、
明らかには、
彼の
眼に映じて
出なかつた。たゞ、かれの
心の調子全体で、それを
認めた丈であつた。従つて
彼は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の
関係や、病気や、
身分を
一纏にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた。
翌日代助は但馬にゐる友人から長い手紙を受取つた。此友人は学校を卒業すると、すぐ国へ
帰つたぎり、
今日迄ついぞ東京へ
出た事のない男であつた。当人は無論
山の
中で
暮す気はなかつたんだが、
親の命令で
已を得ず、故郷に封じ込められて仕舞つたのである。
夫でも
一年許の
間は、もう一返
親父を
説き
付けて、東京へ
出る
出ると云つて、うるさい程手紙を
寄こしたが、此頃は漸く断念したと
見えて、大した不平がましい訴もしない様になつた。
家は
所の
旧家で、先祖から
持ち伝へた山林を年々
伐り出すのが、
重な用事になつてゐるよしであつた。
今度の手紙には、
彼の日常生活の模様が委しく
書いてあつた。それから、一ヶ月前町長に
挙げられて、年俸を三百円頂戴する身分になつた事を、
面白半分、殊更に
真面目な句調で吹聴して
来た。卒業してすぐ中学の教師になつても、此三倍は
貰へると、自分と他の友人との比較がしてあつた。
此友人は国へ帰つてから、約一年許りして、京都
在のある財産家から
嫁を
貰つた。それは無論
親の云ひ
付であつた。すると、
少時して、
直子供が生れた。女房の事は
貰つた時より
外に何も云つて
来ないが、子供の
生長には興味があると見えて、
時々代助の
可笑くなる様な報知をした。代助はそれを読むたびに、此子供に対して、満足しつゝある友人の生活を想像した。さうして、此子供の
為に、彼の細君に対する感想が、
貰つた当時に比べて、どの位変化したかを疑つた。
友人は
時々鮎の
乾したのや、柿の
乾したのを送つてくれた。代助は其返礼に大概は新らしい西洋の文学書を
遣つた。すると其返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評が屹度あつた。けれども、それが長くは
続かなかつた。仕舞には
受取つたと云ふ礼状さへ
寄こさなかつた。
此方からわざ/\問ひ合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼を云はうと思つて、つい
遅くなつた。実はまだ
読まない。白状すると、
読む
閑がないと云ふより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云へば、読んでも
解らなくなつたのである。といふ返事が
来た。代助は
夫から書物を
廃めて、其代りに新らしい
玩具を
買つて
送る事にした。
代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を
有つてゐた此旧友が、当時とは丸で反対の思想と行動とに支配されて、生活の
音色を
出してゐると云ふ事実を、
切に感じた。さうして、
命の
絃の
震動から
出る
二人の
響を
審かに比較した。
彼は
理論家として、友人の
結婚を
肯つた。
山の
中に
住んで、
樹や
谷を相手にしてゐるものは、
親の取り
極めた通りの
妻を迎へて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。
彼は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち
来すものと断定した。其原因を云へば、都会は
人間の展覧会に過ぎないからであつた。彼は
此前提から
此結論に達する
為に
斯う云ふ径路を
辿つた。
彼は肉体と精神に於て
美の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる
美の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる
美の種類に接触して、其たび
毎に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を
動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞
家であると断定した。
彼は
是を自家の経験に
徴して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の
引力に於て、悉く
随縁臨機に、測りがたき変化を
受けつゝあるとの結論に到着した。それを引き
延ばすと、
既婚の
一対は、双方ともに、流俗に
所謂不義の念に
冒されて、過去から生じた不幸を、始終
嘗めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り
替えるか
分らないではないか。普通の都会人は、より
少なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は
渝らざる愛を、
今の世に
口にするものを
偽善家の第一位に
置いた。
此所迄考へた時、代助の
頭の
中に、突然
三千代の
姿が
浮んだ。
其時代助はこの論理中に、
或因数を
数へ込むのを忘れたのではなからうかと
疑つた。けれども、其
因数は
何うしても
発見する事が
出来なかつた。すると、自分が三千代に対する情
合も、此
論理によつて、たゞ
現在的のものに
過ぎなくなつた。
彼の
頭は
正にこれを承認した。然し
彼の
心は、慥かに
左様だと
感ずる勇気がなかつた。
代助は
嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ
間があつた。凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の
影を黒い文字の
上に認める事が
出来なくなつた。
落付いて考へれば、考へは
蓮の
糸を引く如くに
出るが、出たものを纏めて
見ると、
人の
恐ろしがるもの
許であつた。仕舞には、
斯様に考へなければならない自分が
怖くなつた。代助は
蒼白く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる
為に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは
父の別荘に行く
積であつた。然し、是は東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると
大した変りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて
来て、自分の
行くべき
先を
調べて見た。が、自分の行くべき
先は
天下中何処にも
無い様な気がした。しかし、代助は無理にも
何処かへ
行かうとした。それには、支度を
調へるに
若くはないと極めた。代助は電車に乗つて、
銀座迄
来た。
朗かに
風の往来を
渡る午後であつた。新橋の勧工
場を
一回して、広い通りをぶら/\と京橋の方へ
下つた。
其時代助の
眼には、向ふ
側の
家が、芝居の
書割の様に
平たく見えた。
青い
空は、
屋根の
上にすぐ
塗り
付けられてゐた。
代助は二三の唐物
屋を
冷かして、
入用の
品を
調へた。
其中に、比較的
高い香水があつた。資生堂で
練歯磨を買はうとしたら、
若いものが、
欲しくないと云ふのに自製のものを
出して、
頻に
勧めた。代助は
顔をしかめて
店を
出た。
紙包を
腋の
下に
抱へた儘、銀座の
外れ迄
遣つて
来て、
其所から
大根河岸を
回つて、
鍛冶橋を丸の
内へ
志した。
当もなく
西の方へ
歩きながら、
是も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた
揚句、
草臥れて
車をと思つたが、
何処にも
見当らなかつたので又電車へ
乗つて帰つた。
家の
門を
這入ると、玄関に誠太郎のらしい
履が叮嚀に
并べてあつた。
門野に
聞いたら、へえ
左様です、
先方から
待つて
御出ですといふ
答であつた。代助はすぐ書斎へ
来て
見た。誠太郎は、代助の
坐る大きな
椅子に
腰を
掛けて、
洋卓の
前で、アラスカ
探検記を読んでゐた。
洋卓の
上には、
蕎麦饅頭と茶
盆が一所に乗つてゐた。
「誠太郎、何だい、
人のゐない
留守に
来て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、
席を
立つた。
「
其所に
居るなら、ゐても
構はないよ」と云つても、
聞かなかつた。
代助は誠太郎を
捕まえて、
例の様に
調戯ひ
出した。誠太郎は
此間代助が歌舞伎
座でした
欠伸の
数を知つてゐた。さうして、
「
叔父さんは
何時奥さんを
貰ふの」と、又
先達てと同じ様な質問を掛けた。
此
日誠太郎は、
父の
使に
来たのであつた。其口上は、
明日の十一時迄に
一寸来て呉れと云ふのであつた。代助はさう/\
父や
兄に呼び
付けられるが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分
怒つた様に、
「
何だい、
苛いぢやないか。用も云はないで、
無暗に
人を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢っ張りにや/\してゐた。代助はそれぎり
話を
外へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、
二人の題目の
重なるものであつた。
晩食を
食つて
行けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
「それぢや、
叔父さん、
明日は
来ないんですか」と
聞いた。代助は已を得ず、
「うむ。
何うだか
分らない。
叔父さんは旅行するかも知れないからつて、帰つてさう云つて呉れ」と云つた。
「
何時」と誠太郎が聞き返したとき、代助は
今日明日のうちと答へた。誠太郎はそれで納得して、玄関迄出て
行つたが、
沓脱へ
下りながら振り返つて、突然
「
何処へ入らつしやるの」と代助を
見上げた。代助は、
「
何処つて、まだ
分るもんか。ぐる/\
回るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや/\しながら、格子を出た。
代助は
其夜すぐ
立たうと思つて、グラツドストーンの
中を
門野に掃
除さして、携帯品を
少し
詰め
込んだ。
門野は
少なからざる好奇心を以て、代助の
革鞄を
眺めてゐたが、
「
少し
手伝ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、
「なに、
訳はない」と断わりながら、一旦
詰め込んだ香水の
壜を
取り
出して、
封被を
剥いで、
栓を
抜いて、
鼻に
当てゝ
嗅いで見た。門野は
少し愛想を
尽した様な具合で、自分の部屋へ引き取つた。二三
分すると又
出て
来て、
「先生、
車を
左様云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、
顔を
上げた。
「
左様、少し
待つて呉れ給へ」
庭を見ると、
生垣の
要目の
頂に、まだ
薄明るい
日足がうろついてゐた。代助は
外を
覗きながら、是から三十分のうちに行く
先を
極めやうと考へた。何でも都合のよささうな時
間に
出る汽車に乗つて、其汽車の持つて行く所へ
降りて、
其所で
明日迄
暮らして、
暮らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を
攫ひに
来るのを待つ
積であつた。旅費は無論充分でなかつた。代助の旅装に適した程の
宿泊を
続けるとすれば、一週間も
保たない位であつた。けれども、さう云ふ点になると、代助は無頓着であつた。
愈となれば、
家から
金を取り
寄せる気でゐた。それから、本来が
四辺の
風気を換えるのを目的とする移動だから、贅沢の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乗れば、
荷持を雇つて、
一日歩いても
可いと覚悟した。
彼は又旅行案内を
開いて、細かい数字を
丹念に調べ
出したが、少しも決定の
運に
近寄らないうちに、又三千代の方に
頭が
滑つて
行つた。
立つ
前にもう一遍様子を見て、それから東京を
出やうと云ふ気が起つた。グラツドストーンは
今夜中に始末を
付けて、
明日の
朝早く
提げて
行かれる様にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄関迄
出た。其
音を聞き
付けて、
門野も飛び
出した。代助は
不断着の儘、
掛釘から帽子を取つてゐた。
「又御
出掛ですか。何か
御買物ぢやありませんか。
私で
可ければ
買つて
来ませう」と
門野が
驚ろいた
様に云つた。
「
今夜は
已めだ」と云ひ
放した儘、代助は
外へ
出た。
外はもう
暗かつた。
美くしい
空に
星がぽつ/\
影を
増して行く様に見えた。
心持の
好い
風が
袂を
吹いた。けれども
長い
足を大きく動かした代助は、二三町も
歩かないうちに
額際に
汗を覚えた。彼は
頭から鳥打を
脱つた。黒い
髪を
夜露に打たして、
時々帽子をわざと
振つて
歩いた。
平岡の
家の近所へ
来ると、
暗い
人影が
蝙蝠の如く
静かに
其所、
此所に
動いた。粗末な
板塀の
隙間から、
洋燈の
灯が往来へ
映つた。
三千代は
其光の
下で新聞を
読んでゐた。
今頃新聞を読むのかと
聞いたら、二返目だと答へた。
「そんなに
閑なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に
移して、椽側へ半分
身体を
出しながら、障子へ倚りかゝつた。
平岡は居なかつた。
三千代は
今湯から
帰つた所だと云つて、団扇さへ
膝の
傍に置いてゐた。
平生の
頬に、
心持暖い色を
出して、もう帰るでせうから、
緩くりしてゐらつしやいと、茶の
間へ茶を入れに
立つた。髪は西洋風に結つてゐた。
平岡は三千代の云つた通りには
中々帰らなかつた。
何時でも斯んなに
遅いのかと尋ねたら、笑ひながら、まあ
左んな所でせうと答へた。代助は其
笑の
中に
一種の
淋しさを認めて、
眼を
正して、三千代の
顔を
凝と見た。三千代は急に
団扇を取つて
袖の
下を
煽いだ。
代助は平岡の経済の事が気に
掛つた。正面から、
此頃は生活費には不自由はあるまいと尋ねて見た。三千代は
左様ですねと云つて、又前の様な
笑ひ
方をした。代助がすぐ返事をしなかつたものだから、
「
貴方には、
左様見えて」と今度は向ふから聞き
直した。さうして、手に持つた
団扇を放り
出して、
湯から
出たての奇麗な
繊い
指を、代助の前に
広げて見せた。其
指には代助の
贈つた
指環も、
他の
指環も
穿めてゐなかつた。自分の記念を
何時でも胸に
描いてゐた代助には、
三千代の意味がよく
分つた。三千代は手を引き
込めると同時に、ぽつと赤い顔をした。
「仕方がないんだから、堪忍して頂戴」と云つた。代助は憐れな心持がした。
代助は其
夜九時頃平岡の
家を
辞した。
辞する
前、自分の
紙入の
中に
有るものを
出して、三千代に
渡した。其時は、
腹の
中で多少の
工夫を
費やした。
彼は
先づ
何気なく
懐中物を
胸の
所で
開けて、
中にある紙幣を、勘定もせずに
攫んで、
是を
上げるから
御使なさいと無雑作に三千代の
前へ
出した。三千代は、下女を
憚かる様な低い声で、
「そんな事を」と、
却つて両手をぴたりと
身体へ
付けて仕舞つた。代助は然し自分の手を
引き
込めなかつた。
「指環を
受取るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の
指環だと思つて御貰ひなさい」
代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、
余りだからとまだ
躇した。代助は、平岡に知れると
叱られるのかと聞いた。三千代は
叱られるか、
賞められるか、
明らかに
分らなかつたので、矢張り愚図々々してゐた。代助は、
叱られるなら、平岡に
黙つてゐたら
可からうと注意した。三千代はまだ手を
出さなかつた。代助は無論
出したものを引き
込める
訳に
行かなかつた。
已を得ず、
少し及び
腰になつて、
掌を三千代の
胸の
傍迄
持つて
行つた。同時に自分の
顔も一尺
許の距離に
近寄せて、
「大丈夫だから、
御取んなさい」と
確りした
低い調子で云つた。三千代は
顎を
襟の
中へ
埋める様に
後へ引いて、無言の儘右の手を前へ
出した。紙幣は其
上に落ちた。其時三千代は長い
睫毛を二三度打ち合はした。さうして、
掌に落ちたものを
帯の
間に
挟んだ。
「又
来る。平岡君によろしく」と云つて、代助は
表へ
出た。
町を横断して
小路へ
下ると、あたりは暗くなつた。代助は
美くしい
夢を見た様に、
暗い
夜を
切つて
歩いた。彼は三十分と立たないうちに、
吾家の
門前に
来た。けれども
門を
潜る気がしなかつた。
彼は高い
星を
戴いて、
静かな
屋敷町をぐる/\徘徊した。自分では、夜半迄
歩きつゞけても
疲れる事はなからうと思つた。
兎角するうち、又自分の
家の前へ
出た。
中は
静かであつた。
門野と
婆さんは茶の
間で
世間話をしてゐたらしい。
「大変
遅うがしたな。
明日は
何時の汽車で御
立ちですか」と玄関へ
上るや
否や
問を
掛けた。代助は、微笑しながら、
「
明日も御
已めだ」と
答へて、自分の
室へ
這入つた。そこには
床がもう
敷いてあつた。代助は
先刻栓を
抜いた香水を取つて、
括枕の
上に
一滴垂らした。
夫では何だか
物足りなかつた。
壜を
持つた
儘、
立つて
室の
四隅へ
行つて、そこに一二滴づゝ
振りかけた。
斯様に
打ち
興じた
後、
白地の
浴衣に
着換えて、
新らしい小
掻巻の
下に
安かな
手足を
横たへた。さうして、
薔薇の
香のする
眠に
就いた。
眼が
覚めた時は、高い
日が椽に黄
金色の震動を射込んでゐた。
枕元には新聞が二枚揃えてあつた。代助は、門野が
何時、雨戸を
引いて、
何時新聞を
持つて
来たか、
丸で知らなかつた。代助は
長い
伸を一つして
起き
上つた。風呂場で
身体を
拭いてゐると、
門野が
少し
狼狽へた容子で
遣つて
来て、
「
青山から
御兄いさんが御見えになりました」と云つた。代助は
今直行く
旨を答へて、奇麗に
身体を
拭き
取つた。座敷はまだ掃除が出来てゐるか、ゐないかであつたが、自分で飛び
出す必要もないと思つたから、急ぎもせずに、いつもの通り、
髪を分けて
剃を
中て、悠々と茶の間へ
帰つた。そこでは
流石にゆつくりと膳につく気も
出なかつた。立ちながら紅茶を一杯
啜つて、タヱルで
一寸口髭を
摩つて、それを、
其所へ放り出すと、すぐ客間へ
出て、
「やあ
兄さん」と挨拶をした。
兄は
例の
如く、
色の
濃い
葉巻の、
火の消えたのを、
指の
股に
挟んで、平然として代助の新聞を
読んでゐた。代助の
顔を見るや否や、
「
此室は大変
好い
香がする様だが、
御前の
頭かい」と聞いた。
「
僕の
頭の見える
前からでせう」と
答へて、
昨夜の香水の事を
話した。
兄は、落ち付いて、
「はゝあ、大分
洒落た事をやるな」と云つた。
兄は滅多に代助の所へ
来た事のない男であつた。たまに
来れば必ず
来なくつてならない用事を持つてゐた。さうして、用を
済ますとさつさと帰つて行つた。
今日も
何事か
起つたに
違ないと代助は考へた。さうして、それは
昨日誠太郎を
好加減に
胡魔化して
返した反響だらうと想像した。五六
分雑談をしてゐるうちに、
兄はとう/\
斯う云ひ
出した。
「
昨夕誠太郎が
帰つて
来て、
叔父さんは
明日から旅行するつて云ふ
話だから、
出て
来た」
「えゝ、
実は
今朝六時
頃から
出やうと思つてね」と代助は
嘘の様な事を、至極冷静に
答へた。
兄も真面目な顔をして、
「六時に立てる位な
早起の男なら、今
時分わざわざ
青山から
遣つて
来やしない」と云つた。改めて用事を聞いて見ると、矢張り予想の
通り
肉薄の遂行に過ぎなかつた。即ち
今日高木と佐川の娘を呼んで午餐を
振舞ふ筈だから、代助にも列席しろと云ふ
父の命令であつた。
兄の
語る所によると、
昨夕誠太郎の返事を聞いて、
父は大いに機嫌を悪くした。梅子は気を
揉んで、代助の
立たない前に
逢つて、旅行を
延ばさせると云ひ
出した。
兄はそれを
留めたさうである。
「なに
彼奴が
今夜中に
立つものか、
今頃は
革鞄の前へ
坐つて考へ込んでゐる
位のものだ。
明日になつて見ろ、
放つて置いても
遣つて
来るからつて、
己が
姉さんを安心させたのだよ」と誠吾は
落付払つてゐた。代助は少し
忌々しくなつたので、
「ぢや、
放つて置いて御覧なされば
好いのに」と云つた。
「
所が
女と云ふものは、気の
短かいもので、
御父さんに
悪いからつて、
今朝起きるや否や、
己をせびるんだからね」と誠吾は
可笑い様な
顔もしなかつた。
寧ろ迷惑さうに代助を
眺めてゐた。代助は行くとも、行かないとも決答を与へなかつた。けれども兄に対しては、誠太郎同様に、要領を握らせないで
返して仕舞ふ勇気も
出なかつた。
其上午餐を断つて、旅行するにしても、もう自分の
懐中を
当にする
訳には
行かなかつた。矢張り、兄とか
嫂とか、もしくは
父とか、いづれ反対派の
誰かを
痛めなければ、
身動が
取れない位地にゐた。そこで、
即かず
離れずに、
高木と佐川の
娘の評判をした。高木には十年程
前に一遍
逢つた
限であつたが、妙なもので、
何処かに
見覚があつて、
此間歌舞伎座で
眼に
着いた
時は、はてなと思つた。これに反して、佐川の
娘の方は、つい
先達て、写真を手にした
許であるのに、実物に
接しても、丸で聯想が
浮ばなかつた。写真は奇体なもので、先づ人間を知つてゐて、その方から、写真の
誰彼を
極めるのは容易であるが、その
逆の、写真から
人間を定める方は
中々六づかしい。
是を哲学にすると、
死から
生を
出すのは不可能だが、
生から
死に移るのは自然の順序であると云ふ真理に帰着する。
「
私は
左様考へた」と代助が云つた。
兄は成程と答へたが別段感心した様子もなかつた。
葉巻の
短かくなつて、
口髭に
火が付きさうなのを無暗に
啣へ
易えて、
「それで、必ずしも
今日旅行する必要もないんだらう」と
聞いた。
代助はないと答へざるを得なかつた。
「ぢや、
今日餐を
食ひに
来ても
好いんだらう」
代助は又
好いと答へない
訳に
行かなかつた。
「ぢや、
己はこれから、
一寸他所へ
回るから、
間違のない様に
来てくれ」と相変らず多忙に見えた。代助はもう度胸を据ゑたから、
何うでも構はないといふ気で、先方に都合の
好い返事を与へた。すると
兄が突然、
「一体
何うなんだ。あの女を貰ふ気はないのか。
好いぢやないか
貰つたつて。さう
撰り
好みをする程女房に重きを置くと、何だか
元禄時代の色男の様で可笑しいな。凡てあの時代の
人間は男女に限らず非常に窮屈な
恋をした様だが、
左様でもなかつたのかい。――まあ、どうでも
好いから、成る
可く
年寄を
怒らせない様に
遣つてくれ」と云つて帰つた。
代助は座敷へ
戻つて、しばらく、
兄の警句を咀嚼してゐた。自分も結婚に対しては、実際兄と同意見であるとしか考へられない。だから、結婚を
勧める
方でも、
怒らないで放つて置くべきものだと、兄とは反対に、自分に都合の
好い結論を得た。
兄の云ふ
所によると、佐川の娘は、今度
久し
振に
叔父に
連れられて、見物
旁上京したので、叔父の商用が済み次第又
連れられて
国へ帰るのださうである。
父が其機会を利用して、相互の関係に、永遠の利害を
結び
付けやうと企だてたのか、又は
先達ての旅行
先で、此機会をも自発的に
拵えて帰つて
来たのか、どつちにしても代助はあまり研究の余地を認めなかつた。自分はたゞ是等の
人と同じ
食卓で、
旨さうに
午餐を
味はつて見せれば、社交上の義務は
其所に終るものと考へた。もしそれより以上に、何等の発展が必要になつた場合には、其時に至つて、始めて処置を
付けるより
外に
道はないと思案した。
代助は婆さんを
呼んで
着物を
出さした。面倒だと思つたが、敬意を表するために、
紋付の夏羽織を
着た。袴は一重のがなかつたから、
家へ
行つて、
父か
兄かのを
穿く事に
極めた。代助は神経質な
割に、子供の時からの習慣で、
人中へ
出るのを余り
苦にしなかつた。宴会とか、招待とか、送別とかいふ機会があると、大抵は都合して出席した。だから、ある方面に知名な人の顔は大分覚えてゐた。其
中には伯爵とか子爵とかいふ貴公子も
交つてゐた。彼は
斯んな
人の
仲間入をして、其
仲間なりの
交際に、損も
得も感じなかつた。
言語動作は
何処へ
出ても同じであつた。
外部から見ると、
其所が大変能く
兄の誠吾に似てゐた。だから、よく
知らない人は、此兄弟の性質を、全く同一型に属するものと信じてゐた。
代助が青山に
着いた時は、十一時五分前であつたが、御客はまだ
来てゐなかつた。
兄もまだ
帰らなかつた。
嫂丈がちやんと支度をして、座敷に
坐つてゐた。代助の
顔を見て、
「あなたも、随分乱暴ね。
人を
出し
抜いて旅行するなんて」と、いきなり
遣り込めた。梅子は場合によると、決して
論理を
有ち得ない女であつた。此場合にも、自分が代助を
出し
抜いた事には丸で気が
付いてゐない挨拶の
仕方であつた。それが代助には愛嬌に見えた。で、
直そこへ
坐り込んで梅子の服装の品評を始めた。
父は奥にゐると
聞いたが、わざと
行かなかつた。
強ひられたとき、
「今に御客さんが
来たら、僕が
奥へ知らせに行く。其時挨拶をすれば
好からう」と云つて、矢っ張り
平常の様な
無駄口を
叩いてゐた。けれども佐川の娘に関しては、一言も
口を
切らなかつた。梅子は
何とかして、
話を
其所へ持つて行かうとした。代助には、それが
明らかに見えた。だから、
猶空とぼけて
讐を取つた。
其うち待ち設けた御客が
来たので、代助は約束通りすぐ
父の所へ
知らせに
行つた。
父は、
案のじよう、
「
左様か」とすぐ立ち
上がつた丈であつた。代助に
小言を云ふ
暇も
何も
無かつた。代助は座敷へ引き
返して
来て、袴を
穿いて、それから応接間へ出た。客と主人とはそこで
悉く顔を合はせた。
父と高木とが第一に
話を始めた。梅子は
重に佐川の令嬢の相手になつた。そこへ
兄が
今朝の通りの
服装で、のつそりと這入つて
来た。
「いや、
何うも
遅くなりまして」と客の方に挨拶をしたが、席に就いたとき、代助を振り
返つて、
「
大分早かつたね」と
小さな声を掛けた。
食堂には応接
室の
次の
間を使つた。代助は
戸の
開いた
間から、
白い卓布の
角の
際立つた
色を認めて、午餐は洋食だと心づいた。梅子は
一寸席を立つて、
次の
入口を
覗きに行つた。それは
父に、食卓の準備が出来
上つた
旨を知らせる
為であつた。
「では
何うぞ」と
父は立ち
上がつた。高木も会釈して立ち
上がつた。佐川の令嬢も
叔父に
継いで立ち
上がつた。代助は其時、女の腰から
下の、比較的に細く
長い事を発見した。食卓では、
父と高木が、
真中に向き合つた。高木の右に梅子が坐つて、
父の左に令嬢が席を
占めた。女同志が向き合つた如く、誠吾と代助も向き合つた。代助は
五味台を
中に、少し
斜に
反れた位地から令嬢の
顔を眺める事になつた。代助は其
頬の肉と色が、
著るしく
後の窓から
射す光線の影響を受けて、鼻の
境に
暗過ぎる
影を作つた様に思つた。其代り耳に接した方は、
明らかに
薄紅であつた。殊に小さい耳が、
日の光を
透してゐるかの如くデリケートに見えた。
皮膚とは反対に、令嬢は黒い鳶色の大きな
眼を有したゐた。此二つの対照から
華やかな特長を生ずる令嬢の顔の形は、寧ろ丸い方であつた。
食卓は、
人数が
人数だけに、左程大きくはなかつた。部屋の
広さに比例して、
寧ろ
小さ
過る位であつたが、
純白な卓布を、取り集めた花で
綴つて、
其中に
肉刀と
肉匙の
色が
冴えて
輝いた。
卓上の談話は
重に平凡な世間
話であつた。
始のうちは、それさへ
余り興味が
乗らない様に見えた。
父は
斯う云ふ場合には、よく自分の
好きな書画骨董の
話を持ち
出すのを
常としてゐた。さうして
気が
向けば、いくらでも、
蔵から
出して
来て、
客の
前に
陳べたものである。
父の
御蔭で、代助は多少
斯道に
好悪を
有てる様になつてゐた。
兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。たゞし、
此方は
掛物の
前に立つて、はあ
仇英だね、はあ応挙だねと云ふ丈であつた。
面白い
顔もしないから、面白い様にも見えなかつた。それから
真偽の鑑定の
為に、
虫眼鏡などを
振り
舞はさない所は、誠吾も代助も同じ事であつた。
父の様に、こんな
波は
昔の
人は
描かないものだから、法にかなつてゐない抔といふ批評は、双方共に、未だ嘗て如何なる画に対しても加へた事はなかつた。
父は
乾いた
会話に
色彩を
添へるため、やがて
好きな方面の問題に
触れて見た。所が
一二言で、高木はさう云ふ
事に
丸で無頓着な男であるといふ事が
分つた。
父は老巧の
人だから、すぐ退却した。けれども双方に安全な領分に帰ると、双方共に談話の意味を感じなかつた。
父は
已を得ず、高木に
何んな娯楽があるかを
確めた。高木は特別に娯楽を
持たない
由を答へた。
父は万事休すといふ体裁で、高木を誠吾と代助に托して、しばらく談話の圏外に
出た。誠吾は、何の苦もなく、神戸の
宿屋やら、楠公神社やら、手当り次第に話題を開拓して行つた。さうして、
其中に自然令嬢の演ずべき役割を
拵えた。令嬢はたゞ簡単に、必要な言葉丈を点じては逃げた。代助と高木とは、始め同志社を問題にした。それから亜米利加の大学の状況に移つた。最後にエマーソンやホーソーンの名が
出た。代助は、高木に
斯う云ふ種類の知識があるといふ事を確めたけれども、たゞ確めた丈で、それより以上に
深入もしなかつた。従つて文学談は単に二三の人名と書名に終つて、少しも発展しなかつた。
梅子は固より
初から
断えず
口を
動かしてゐた。其努力の
重なるものは、無論自分の前にゐる令嬢の遠慮と沈黙を打ち崩すにあつた。令嬢は礼義上から云つても、梅子の
間断なき質問に応じない訳に行かなかつた。けれども積極的に自分から梅子の
心を
動かさうと
力めた形迹は殆んどなかつた。たゞ
物を云ふときに、少し
首を
横に
曲げる
癖があつた。それすらも代助には
媚を
売るとは解釈
出来なかつた。
令嬢は京都で教育を受けた。音楽は、
始めは
琴を習つたが、後にはピヤノに
易えた。
イオリンも少し
稽古したが、
此方は手の
使い
方が六※
[#濁点付き小書き平仮名つ、218-1]かしいので、まあ
遣らないと同じである。芝居は滅多に行つた事がなかつた。
「
先達ての歌舞伎座は
如何でした」と梅子が
聞いた時、令嬢は何とも答へなかつた。代助には
夫が劇を
解しないと云ふより、劇を軽蔑してゐる様に取れた。それだのに、梅子はつゞけて、同じ問題に
就いて、甲の役者は
何うだの、乙の役者は
何だのと評し
出した。代助は又
嫂が論理を
踏み
外したと思つた。仕方がないから、
横合から、
「芝居は御嫌ひでも、小説は御読みになるでせう」と
聞いて芝居の話を已めさした。令嬢は其時始めて、
一寸代助の方を見た。けれども答は案外に
判然してゐた。
「いえ小説も」
令嬢の答を待ち受けてゐた、主客はみんな声を
出して笑つた。高木は令嬢の
為に説明の労を取つた。その云ふ所によると、令嬢の教育を受けたミス
何とか云ふ婦人の影響で、令嬢はある点では殆んど
清教徒の様に仕込まれてゐるのださうであつた。だから余程時代
後れだと、高木は説明のあとから批評さへ
付け加へた。其時は無論
誰も笑はなかつた。耶蘇教に対して、あまり好意を
有つてゐない
父は、
「それは結構だ」と
賞めた。梅子は、さう云ふ教育の価値を全く
解する事が
出来なかつた。にも拘はらず、
「本当にね」と趣味に
適はない不得要領の言葉を
使つた。誠吾は梅子の言葉が、あまり重い印象を先方に与へない様に、すぐ問題を易えた。
「ぢや英語は御上手でせう」
令嬢はいゝえと云つて、心持顔を赤くした。
食事が
済んでから、
主客は又応接
間に
戻つて、
話を
始めたが、
蝋燭を
継ぎ
足した様に、
新らしい方へは急に火が移りさうにも見えなかつた。梅子は立つて、ピヤノの
蓋を
開けて、
「
何か一つ
如何ですか」と云ひながら令嬢を顧みた。令嬢は固より席を動かなかつた。
「ぢや、代さん、
皮切に何か御
遣り」と今度は代助に云つた。代助は
人に聞かせる程の上手でないのを自覚してゐた。けれども、そんな弁解をすると、問答が理窟
臭く、しつこくなる
許だから、
「まあ、
蓋を
開けて
御置なさい。
今に
遣るから」と答へたなり、何かなしに、無関係の事を
話しつゞけてゐた。
一時間程して
客は
帰つた。
四人は
肩を揃へて玄関迄
出た。奥へ這入る時、
「代助はまだ
帰るんぢやなからうな」と
父が云つた。代助はみんなから
一足後れて、
鴨居の
上に両手が
届く様な
伸を一つした。それから、
人のゐない応接
間と食堂を少しうろ/\して座敷へ
来て見ると、
兄と
嫂が向き
合つて何か
話をしてゐた。
「おい、すぐ
帰つちや
不可ない。
御父さんが何か用があるさうだ。
奥へ
御出」と
兄はわざとらしい
真面目な調子で云つた。梅子は薄
笑ひをしてゐる。代助は
黙つて
頭を
掻いた。
代助は
一人で
父の
室へ行く勇気がなかつた。何とか蚊とか云つて、
兄夫婦を引張つて
行かうとした。それが
旨く成功しないので、とう/\
其所へ
坐り込んで仕舞つた。所へ
小間使が
来て、
「あの、若旦那様に
一寸、
奥迄
入つしやる様に」と催促した。
「うん、
今行く」と返事をして、それから、
兄夫婦に
斯ういふ理窟を述べた。――自分
一人で
父に
逢ふと、
父があゝ云ふ気象の所へ持つて
来て、自分がこんな
図法螺だから、殊によると大いに
老人を
怒らして仕舞ふかも知れない。さうすると、
兄夫婦だつて、
後から面倒くさい調停をしたり何かしなければならない。
其方が却つて迷惑になる訳だから、
骨惜をせずに今
一寸一所に
行つて呉れたら
宜からう。
兄は議論が嫌な
男なので、
何んだ
下らないと云はぬ
許の顔をしたが、
「ぢや、さあ行かう」と立ち
上がつた。梅子も笑ひながらすぐに
立つた。三人して廊下を渡つて
父の
室に
行つて、
何事も
起らなかつたかの如く着坐した。
そこでは、梅子が
如才なく、代助の過去に
父の
小言が
飛ばない様な
手加減をした。さうして談話の潮流を、成るべく今帰つた来客の品評の方へ
持つて
行つた。梅子は佐川の令嬢を大変
大人しさうな
可い
子だと
賞めた。是には
父も
兄も代助も同意を表した。けれども、
兄は、もし亜米利加のミスの教育を受けたと云ふのが本当なら、もう少しは西洋流にはき/\しさうなものだと云ふ
疑を
立てた。代助は其
疑にも賛成した。
父と
嫂は
黙つてゐた。そこで代助は、あの
大人しさは、
羞恥む
性質の
大人さだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女の社交的関係から来たものだらうと説明した。
父はそれも
左うだと云つた。梅子は令嬢の教育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察した。
兄は東京だつて、
御前見た様なの
許はゐないと云つた。此時
父は
厳正な
顔をして
灰吹を
叩いた。
次に、
容色だつて十人
並より
可いぢやありませんかと梅子が云つた。是には
父も
兄も異議はなかつた。代助も賛成の
旨を告白した。四人は
夫から高木の品評に移つた。温健の好人物と云ふ事で、
其方はすぐ
方付いて仕舞つた。不幸にして
誰も令嬢の父母を知らなかつた。けれども、
物堅い地味な
人だと云ふ丈は、
父が
三人の前で保証した。
父はそれを同県下の多額納税議員の某から
確めたのださうである。最後に、佐川家の財産に就ても
話が
出た。
其時父は、あゝ云ふのは、普通の実業家より基礎が
確りしてゐて安全だと云つた。
令嬢の資格が
略定まつた時、
父は代助に向つて、
「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、
何うするかね位の程度ではなかつた。代助は、
「
左様ですな」と矢っ張り
煮え
切らない答をした。
父はじつと代助を見てゐたが、
段々皺の多い
額を
曇らした。
兄は仕方なしに、
「まあ、もう少し
善く考へて見るが
可い」と云つて、代助の
為に余裕を
付けて呉れた。
四日程してから、代助は又
父の命令で、高木の
出立を新橋迄見送つた。
其日は
眠い所を無理に早く
起されて、
寐足らない
頭を
風に
吹かした
所為か、停車場に
着く
頃、
髪の毛の
中に
風邪を
引いた様な気がした。
待合所に
這入るや否や、梅子から
顔色が
可くないと云ふ注意を受けた。代助は
何にも答へずに、帽子を
脱いで、
時々濡れた
頭を抑えた。仕舞には
朝奇麗に
分けた
髪がもぢや/\になつた。
プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、
「
何うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と勧めた。代助はたゞ難有うと答へた丈であつた。
愈汽車の
出る
間際に、梅子はわざと、
窓際に
近寄つて、とくに令嬢の名を呼んで、
「
近い
内に又是非入らつしやい」と云つた。令嬢は
窓のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の
外へは別段の言葉も
聞えなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た
四人りは、それぎり離れ/″\になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は
頭を抑えて応じなかつた。
車に乗つてすぐ牛込へ
帰つて、それなり書斎へ這入つて、
仰向に倒れた。
門野は
一寸其様子を
覗きに
来たが、代助の平生を知つてゐるので、言葉も掛けず、椅子に
引つ
掛けてある羽織丈を
抱へて
出て行つた。
代助は
寐ながら、自分の近き未来を
何うなるものだらうと考へた。
斯うして
打遣つて置けば、是非共
嫁を
貰はなければならなくなる。
嫁はもう
今迄に
大分断つてゐる。此上
断れば、愛想を
尽かされるか、本当に
怒り
出されるか、
何方かになるらしい。もし愛想を
尽かされて、結婚勧誘をこれ
限り断念して
貰へれば、それに越した事はないが、
怒られるのは甚だ迷惑である。と云つて、進まぬものを
貰ひませうと云ふのは
今代人として馬鹿気てゐる。代助は
此ヂレンマの
間に
徊した。
彼は父と
違つて、当初からある計画を拵らえて、自然を其計画通りに強ひる古風な
人ではなかつた。彼は自然を以て人間の
拵えた凡ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから
父が、自分の自然に
逆らつて、
父の計画通りを強ひるならば、それは、去られた
妻が、離縁状を
楯に夫婦の関係を証拠
立てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、
父に向つて
述べる気は、丸でなかつた。
父を
理攻にする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は
父の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた。
彼は
父と
兄と
嫂の
三人の
中で、
父の人格に尤も
疑を
置いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも
父の唯
一の目的ではあるまいと迄推察した。けれども
父の本意が
何処にあるかは、
固より
明らかに知る機会を与へられてゐなかつた。彼は子として、
父の心意を
斯様に揣摩する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの
親子のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、
今日迄の程度より以上に、
父と自分の
間が
隔つて
来さうなのを不快に感じた。
彼は隔離の極端として、
父子絶縁の状態を想像して見た。さうして
其所に一種の苦痛を
認めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。
寧ろそれから生ずる財源の
杜絶の方が恐ろしかつた。
もし
馬鈴薯が
金剛石より大切になつたら、
人間はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後
父の
怒に触れて、万一
金銭上の関係が絶えるとすれば、
彼は
厭でも
金剛石を放り出して、
馬鈴薯に
噛り付かなければならない。さうして其
償には自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた。
彼は寐ながら、
何時迄も考へた。けれども、彼の
頭は
何時迄も
何処へも到
着する事が出来なかつた。彼は自分の寿命を
極める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を
付け得る如く、自分の未来にも多少の
影を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しやうと企てた。
其時代助の脳の活動は、
夕闇を驚ろかす
蝙蝠の様な幻像をちらり/\と
産み
出すに
過ぎなかつた。其
羽搏の
光を
追ひ
掛けて
寐てゐるうちに、
頭が
床から
浮き
上がつて、ふわ/\する様に思はれて
来た。さうして、
何時の
間にか
軽い
眠に
陥つた。
すると突然
誰か
耳の
傍で半鐘を打つた。代助は火事と云ふ意識さへまだ
起らない
先に
眼を
醒ました。けれども
跳ね
起きもせずに
寐てゐた。
彼の
夢に
斯んな
音の
出るのは殆んど普通であつた。ある
時はそれが正気に返つた
後迄も
響いてゐた。五六日
前彼は、
彼の
家の大いに
揺れる自覚と共に
眠を
破つた。其
時彼は
明らかに、
彼の
下に
動く
畳の
様を、
肩と
腰と
脊の一部に
感じた。彼は又
夢に得た心臓の鼓動を、
覚めた
後迄
持ち
伝へる事が屡あつた。そんな場合には
聖徒の如く、
胸に手を
当てゝ、
眼を
開けた
儘、じつと天井を見詰めてゐた。
代助は此時も半鐘の
音が、じいんと
耳の
底で鳴り
尽して仕舞ふ迄
横になつて
待つてゐた。それから
起きた。
茶の
間へ
来て見ると、自分の
膳の
上に
簀垂が
掛けて、火鉢の
傍に据ゑてあつた。柱時計はもう十二時
回つてゐた。
婆さんは、
飯を
済ました
後と
見えて、下女部屋で御
櫃の
上に
肱を
突いて
居眠りをしてゐた。
門野は
何処へ
行つたか
影さへ見えなかつた。
代助は風呂場へ行つて、
頭を
濡らしたあと、
独り
茶の
間の
膳に就いた。そこで、
淋しい食事を
済して、
再び書斎に戻つたが、久し
振りに
今日は少し書見をしやうと云ふ
心組であつた。
かねて
読み
掛けてある洋書を、
栞の
挟んである所で
開けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた。代助の記憶に
取つて
斯う云ふ現象は寧ろ
珍らしかつた。
彼は学校生活の時代から一種の読書家であつた。卒業の
後も、衣食の
煩なしに、講読の利益を適意に収め得る
身分を
誇りにしてゐた。一
頁も
眼を
通さないで、
日を送ることがあると、習慣上
何となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に
親んだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。
代助は今茫然として、
烟草を
燻らしながら、
読み掛けた
頁を二三枚あとへ
繰つて見た。そこに
何んな議論があつて、それが
何う
続くのか、
頭を
拵える
為に
一寸骨を折つた。其努力は
艀から桟橋へ移る程
楽ではなかつた。
食ひ
違つた断面の甲に
迷付いてゐるものが、急に乙に移るべく余儀なくされた様であつた。代助はそれでも辛抱して、約二時間程
眼を
頁の
上に
曝してゐた。が仕舞にとう/\堪え切れなくなつた。
彼の
読んでゐるものは、活字の
集合として、ある意味を以て、
彼の
頭に
映ずるには
違ないが、
彼の肉や
血に
廻る気色は一向見えなかつた。
彼は氷嚢を隔てゝ、
氷に
食ひ
付いた時の様に物足らなく思つた。
彼は書物を
伏せた。さうして、こんな時に書物を
読むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた。
彼の苦痛は
何時ものアンニユイではなかつた。
何も
為るのが
慵いと云ふのとは
違つて、
何か
為なくてはゐられない
頭の状態であつた。
彼は立ち
上がつて、
茶の
間へ
来て、畳んである羽織を又
引掛た。さうして玄関に
脱ぎ棄てた下駄を
穿いて
馳け
出す様に門を
出た。時は四時頃であつた。
神楽坂を
下りて、
当もなく、
眼に
付いた第一の電車に
乗つた。車掌に
行先を問はれたとき、
口から
出任せの返事をした。
紙入を
開けたら、三千代に
遣つた旅行費の余りが、
三折の
深底の方にまだ這入つてゐた。代助は乗車券を買つた
後で、札の数を調べて見た。
彼は其晩を赤坂のある待合で
暮らした。
其所で面白い
話を
聞いた。ある
若くて美くしい女が、去る男と関係して、
其種を
宿した所が、愈子を
生む段になつて、
涙を
零して
悲しがつた。
後から其訳を聞いたら、こんな
年で子供を
生ませられるのは
情ないからだと答へた。此女は愛を
専らにする時機が余り短か
過ぎて、
親子の関係が容赦もなく、若い
頭の
上を襲つて
来たのに、一種の無定を感じたのであつた。それは無論
堅気の女ではなかつた。代助は肉の
美と、
霊の愛にのみ
己れを捧げて、其他を顧みぬ女の心理状体として、此話を甚だ興味あるものと思つた。
翌日になつて、代助はとう/\又三千代に
逢ひに行つた。其時
彼は
腹の
中で、
先達て
置いて
来た
金の事を、三千代が平岡に話したらうか、
話さなかつたらうか、もし
話したとすれば
何んな結果を夫婦の
上に生じたらうか、それが
気掛りだからと云ふ口実を
拵らえた。彼は此
気掛が、自分を
駆つて、
凝と落ち
付かれない様に、東西に
引張回した揚句、
遂に三千代の方に
吹き
付けるのだと解釈した。
代助は
家を
出る
前に、
昨夕着た
肌着も
単衣も悉く
改めて
気を
新にした。
外は寒暖計の
度盛の日を
逐ふて
騰る
頃であつた。
歩いてゐると、
湿つぽい
梅雨が却つて待ち
遠しい程
熾んに
日が
照つた。代助は
昨夕の反動で、此陽気な空気の
中に
落ちる自分の
黒い
影が
苦になつた。
広い
鍔の
夏帽を
被りながら、早く
雨季に入れば
好いと云ふ心持があつた。其
雨季はもう二三
日の
眼前に
逼つてゐた。
彼の
頭はそれを予報するかの様に、どんよりと
重かつた。
平岡の
家の
前へ
来た時は、
曇つた
頭を
厚く掩ふ
髪の
根元が
息切れてゐた。代助は
家に入る
前に
先づ帽子を
脱いだ。格子には
締りがしてあつた。
物音を
目的に
裏へ
回ると、三千代は下女と
張物をしてゐた。
物置の
横へ
立て
掛けた
張板の
中途から、
細い
首を前へ
出して、
曲みながら、
苦茶々々になつたものを丹念に引き
伸ばしつゝあつた手を
留めて、代助を
見た。
一寸は
何とも云はなかつた。代助も、しばらくは
唯立つてゐた。漸くにして、
「又
来ました」と云つた
時、三千代は
濡れた手を
振つて、馳け込む様に勝手から
上がつた。同時に
表へ
回れと
眼で合図をした。三千代は自分で
沓脱へ
下りて、格子の
締を
外しながら、
「
無用
心だから」と云つた。
今迄日の
透る
澄んだ空気の
下で、
手を
動かしてゐた
所為で、
頬の
所が
熱つて見えた。それが
額際へ
来て
何時もの様に
蒼白く
変つてゐる
辺に、
汗が少し
煮染み
出した。代助は格子の
外から、三千代の
極めて
薄手な皮膚を眺めて、戸の
開くのを静かに
待つた。三千代は、
「御待遠さま」と云つて、代助を
誘ふ様に、
一足横へ
退いた。代助は三千代とすれ/\になつて
内へ
這入つた。
座敷へ
来て見ると、平岡の机の
前に、
紫の座蒲団がちやんと
据ゑてあつた。代助はそれを見た時
一寸厭な心持がした。
土の
和れない
庭の
色が
黄色に
光る所に、
長い草が見苦しく
生えた。
代助は又
忙がしい所を、邪魔に
来て済まないといふ様な尋常な
云訳を述べながら、此無趣味な
庭を眺めた。其時三千代をこんな
家へ入れて
置くのは実際気の毒だといふ気が
起つた。三千代は
水いぢりで
爪先の
少しふやけた
手を
膝の
上に
重ねて、あまり
退屈だから
張物をしてゐた所だと云つた。三千代の退屈といふ意味は、
夫が始終
外へ
出てゐて、単調な留守居の時間を無聊に苦しむと云ふ事であつた。代助はわざと、
「結構な
身分ですね」と
冷かした。三千代は自分の荒涼な
胸の
中を代助に訴へる様子もなかつた。
黙つて、
次の
間へ
立つて
行つた。用簟笥の
環を
響かして、
赤い天鵞絨で
張つた
小さい
箱を
持つて
出て
来た。代助の
前へ
坐つて、それを
開けた。
中には昔し代助の
遣つた指環がちやんと
這入つてゐた。三千代は、たゞ
「
可でせう、ね」と代助に謝罪する様に云つて、すぐ又立つて
次の
間へ
行つた。さうして、
世の
中を
憚かる様に、記念の指環をそこ/\に用簟笥に仕舞つて
元の坐に戻つた。代助は指環に就ては何事も
語らなかつた。
庭の方を見て、
「そんなに
閑なら、
庭の
草でも
取つたら、
何うです」と云つた。すると今度は三千代の方が
黙つて仕舞つた。それが、
少時続いた
後で代助は又
改ためて聞いた。
「
此間の事を平岡君に
話したんですか」
三千代は
低い
声で、
「いゝえ」と答へた。
「ぢや、
未だ知らないんですか」と聞き返した。
其時三千代の説明には、話さうと思つたけれども、此頃平岡はついぞ落ち
付いて
宅にゐた事がないので、つい
話しそびれて
未だ知らせずにゐると云ふ事であつた。代助は固より三千代の説明を
嘘とは思はなかつた。けれども、
五分の
閑さへあれば
夫に
話される事を、
今日迄それなりに
為てあるのは、三千代の
腹の
中に、何だか
話し
悪い
或蟠まりがあるからだと思はずにはゐられなかつた。自分は三千代を、平岡に対して、それだけ罪のある
人にして仕舞つたと代助は考へた。けれども
夫は左程に代助の良心を
螫すには至らなかつた。法律の制裁はいざ知らず、自然の制裁として、平岡も此結果に対して明かに
責を
分たなければならないと思つたからである。
代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねて見た。三千代は例によつて多くを語る事を
好まなかつた。然し平岡の妻に対する
仕打が結婚当時と変つてゐるのは
明かであつた。代助は夫婦が東京へ帰つた当時
既にそれを見抜いた。
夫から以後
改まつて
両人の
腹の
中を聞いた
事はないが、それが日毎に
好くない方に、速度を加へて進行しつゝあるのは殆んど争ふべからざる事実と見えた。夫婦の
間に、代助と云ふ第三者が点ぜられたがために、此
疎隔が起つたとすれば、代助は此方面に向つて、もつと注意深く働らいたかも知れなかつた。けれども代助は自己の悟性に訴へて、さうは信ずる事が出来なかつた。彼は此結果の一部分を三千代の病気に帰した。さうして、肉体上の関係が、
夫の精神に反響を与へたものと断定した。又其一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩に帰した。又他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒から生じた経済事状に帰した。凡てを概括した
上で、平岡は
貰ふべからざる
人を
貰ひ、三千代は
嫁ぐ
可からざる
人に
嫁いだのだと解決した。代助は心の
中で
痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼の
為に周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を
動かすが
為に、平岡が
妻から離れたとは、
何うしても思ひ得なかつた。
同時に代助の三千代に対する愛情は、此夫婦の現在の関係を、必須条件として募りつゝある事もまた一方では
否み切れなかつた。三千代が平岡に
嫁ぐ
前、代助と三千代の
間柄は、どの位の程度迄進んでゐたかは、しばらく
措くとしても、
彼は現在の三千代には決して無頓着でゐる訳には行かなかつた。彼は病気に冒された三千代をたゞの
昔の三千代よりは気の毒に思つた。彼は小供を
亡くなした三千代をたゞの
昔の三千代よりは気の毒に思つた。彼は
夫の愛を失ひつゝある三千代をたゞの
昔の三千代よりは気の毒に思つた。
彼は生活難に苦しみつゝある三千代をたゞの
昔の三千代よりは気の毒に思つた。但し、代助は此夫婦の
間を、正面から永久に引き
放さうと試みる程大胆ではなかつた。彼の愛はさう逆上してはゐなかつた。
三千代の
眼のあたり、苦しんでゐるのは経済問題であつた。平岡が自力で給し得る丈の生活費を勝手の方へ
回さない事は、三千代の口吻で
慥であつた。代助は此点丈でもまづ
何うかしなければなるまいと考へた。それで、
「
一つ
私が平岡君に
逢つて、能く話して見やう」と云つた。三千代は淋しい
顔をして代助を見た。
旨く行けば結構だが、
遣り
損なへば益三千代の迷惑になる
許だとは代助も承知してゐたので、強ひて
左様しやうとも主張しかねた。三千代は又立つて
次の
間から
一封の書状を
持つて
来た。書状は
薄青い状袋へ這入つてゐた。北海道にゐる
父から三千代へ
宛たものであつた。三千代は状袋の
中から長い手紙を
出して、代助に見せた。
手紙には
向ふの思はしくない事や、物価の高くて
活計にくい事や、親類も縁者もなくて心細い事や、東京の方へ
出たいが都合はつくまいかと云ふ事や、――凡て憐れな事ばかり
書いてあつた。代助は叮嚀に手紙を
巻き返して、三千代に
渡した。其時三千代は
眼の
中に
涙を
溜めてゐた。
三千代の父はかつて多少の財産と
称へらるべき田畠の所有者であつた。日露戦争の当時、人の
勧に応じて、株に手を出して全く
遣り
損なつてから、潔よく祖先の地を売り払つて、北海道へ渡つたのである。
其後の消息は、代助も
今此手紙を見せられる迄一向知らなかつた。親類はあれども
無きが如しだとは三千代の
兄が生きてゐる時分よく代助に語つた言葉であつた。
果して三千代は、
父と平岡ばかりを
便に生きてゐた。
「
貴方は
羨ましいのね」と
瞬きながら云つた。代助はそれを否定する勇気に乏しかつた。しばらくしてから又、
「
何だつて、まだ
奥さんを
御貰ひなさらないの」と聞いた。代助は此
問にも答へる事が出
来なかつた。
しばらく
黙然として三千代の顔を見てゐるうちに、女の
頬から
血の
色が次第に
退ぞいて
行つて、普通よりは
眼に付く程
蒼白くなつた。
其時代助は三千代と
差向で、より長く
坐つてゐる事の危険に、始めて気が
付いた。自然の情
合から
流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、
準縄の
埒を
踏み超えさせるのは、
今二三
分の
裡にあつた。代助は固より
夫より
先へ
進んでも、猶
素知らぬ
顔で
引返し
得る、会話の方を
心得てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに
出て
来る男女の情話が、あまりに
露骨で、あまりに放肆で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から
怪んでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展させる
為に、舶来の
台詞を用ひる意志は毫もなかつた。
少なくとも
二人の
間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、
其所に、甲の位地から、知らぬ
間に乙の位置に
滑り込む危険が
潜んでゐた。代助は
辛うじて、
今一歩と云ふ
際どい所で、踏み
留まつた。帰る時、
三千代は玄関迄送つて
来て、
「
淋しくつて
不可ないから、又
来て頂戴」と云つた。下女はまだ
裏で
張物をしてゐた。
表へ
出た代助は、ふら/\と一丁程
歩いた。
好い
所で
切り
上げたといふ意識があるべき筈であるのに、
彼の
心にはさう云ふ満足が
些とも
無かつた。と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の
命ずるが
儘に、話し尽して帰れば
可かつたといふ後
悔もなかつた。
彼は、
彼所で切り
上げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の関係は、
此前逢つた時、既に発展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ
出した。代助は
二人の過去を順次に
溯ぼつて見て、いづれの
断面にも、
二人の間に
燃る愛の
炎を見出さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に
嫁ぐ前、
既に自分に
嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき
重いものを、
胸の
中に
投げ
込まれた。
彼は
其重量の
為に、
足がふらついた。
家に帰つた時、
門野が、
「大変
顔の
色が
悪い様ですね、
何うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ
行つて、
蒼い
額から奇麗に
汗を
拭き取つた。さうして、長く
延び
過ぎた髪を冷水に
浸した。
それから
二日程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に
乗つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の
為に充分
話をする決心であつた。給仕に名刺を
渡して、
埃だらけの
受付に
待つてゐる
間、
彼はしばしば
袂から
手帛を
出して、鼻を掩ふた。やがて、二階の応接
間へ案内された。
其所は風
通しの
悪い、
蒸し
暑い、陰気な
狭い部屋であつた。代助は
此所で
烟草を一本
吹かした。編輯室と
書いた
戸口が始終
開いて、
人が
出たり
這入つたりした。代助の
逢ひに
来た平岡も其
戸口から
現はれた。先達て
見た
夏服を
着て、相変らず奇麗な
襟とカフスを
掛けてゐた。
忙しさうに、
「やあ、
暫く」と云つて代助の
前に
立つた。代助も相手に
唆かされた様に立ち
上がつた。
二人は
立ちながら
一寸話をした。丁度編輯のいそがしい
時で
緩くり
何うする事も出来なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を
出して見て、
「失敬だが、もう一時間程して
来てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又
暗い
埃だらけの階段を
下りた。表へ
出ると、
夫でも
涼しい風が吹いた。
代助はあてもなく、
其所いらを
逍遥いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に
話を
切り
出さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい
為に
外ならなかつた。けれども、
夫が
為に、却つて平岡の感情を
害する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は
何んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成
案はなかつた。代助は三千代と
相対づくで、
自分等二人の
間をあれ以上に
何うかする勇気を
有たなかつたと同時に、三千代のために、
何かしなくては居られなくなつたのである。だから、
今日の会見は、理知の作用から
出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の
旋風に
捲き
込まれた冒険の
働きであつた。
其所に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は
夫に気が付いてゐなかつた。一時間の
後彼は又編輯室の
入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。
裏通りを三四丁
来た所で、平岡が
先へ立つて
或家に
這入つた。
座敷の
軒に
釣忍が
懸つて、
狭い
庭が水で一面に
濡れてゐた。平岡は
上衣を
脱いで、すぐ
胡坐をかいた。代助は左程
暑いとも思はなかつた。団扇は手にした丈で
済んだ。
会話は新聞社内の
有様から始まつた。平岡は
忙しい様で却つて
楽な商買で
好いと云つた。其語気には別に
負惜みの様子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと
調戯つた。平岡は真面目になつて、弁解をした。さうして、
今日の新聞事業程競争の烈しくて、機敏な
頭を要するものはないと云ふ
理由を説明した。
「成程たゞ
筆が達者な丈ぢや仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかつた。すると、平岡は
斯う云つた。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも
中々面白い事実が
挙がつてゐる。ちと、君の
家の会社の
内幕でも
書いて御覧に入れやうか」
代助は自分の平生の観察から、
斯んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては
居なかつた。
「
書くのも
面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。
「無論
嘘は
書かない
積だ」
「いえ、
僕の
兄の会社ばかりでなく、
一列一体に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」
平岡は此時邪気のある
笑ひ
方をした。さうして、
「日糖事件丈ぢや
物足りないからね」と奥歯に物の
挟まつた様に云つた。代助は
黙つて酒を飲んだ。
話は此調子で段々はずみを
失ふ様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に
起つた逸話を代助に吹聴した。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを
毎日何頭かづつ、納めて置いては、
夜になると、そつと行つて
偸み
出して
来た。さうして、知らぬ顔をして、
翌日同じ
牛を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も
買つてゐた。が仕舞に気が付いて、一遍受取つた牛には焼印を押した。所がそれを知らずに、又
偸み
出した。のみならず、それを平気に
翌日連れて
行つたので、とう/\
露見して仕舞つたのださうである。
代助は
此話を聞いた時、その実社会に触れてゐる点に於て、現代的滑稽の標本だと思つた。平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の
人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の
家の
前と
後に巡査が二三人
宛昼夜
張番をしてゐる。一時は
天幕を張つて、其
中から
覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が
後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ
来たと、
夫から
夫へと電話が
掛つて東京市中大騒ぎである。
新宿警察署では秋水
一人の
為に
月々百円
使つてゐる。同じ
仲間の
飴屋が、大道で
飴細工を
拵えてゐると、
白服の巡査が、
飴の
前へ
鼻を
出して、邪魔になつて
仕方がない。
是も代助の
耳には、
真面目な
響を与へなかつた。
「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は
先刻の批評を
繰り
返しながら、代助を
挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、
今日は
平生の様に普通の世間
話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。
先刻平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が
為であつた。
「
実は
君に
話したい事があるんだが」と代助は
遂に云ひ
出した。すると、平岡は急に様子を変へて、落ち
付かない
眼を代助の
上に
注いだが、
卒然として、
「そりや、僕も
疾うから、
何うかする
積なんだけれども、
今の所ぢや
仕方がない。もう
少し待つて呉れ玉へ。其代り君の
兄さんや
御父さんの事も、
斯うして
書かずにゐるんだから」と代助には意表な返事をした。代助は馬鹿馬鹿しいと云ふより、寧ろ一種の
憎悪を感じた。
「
君も
大分変つたね」と
冷かに云つた。
「
君の
変つた
如く
変つちまつた。
斯う
摺れちや
仕方がない。だから、もう
少し待つて
呉れ
給へ」と答へて、平岡はわざとらしい
笑ひ
方をした。
代助は平岡の
言語の
如何に
拘はらず、自分の云ふ事丈は云はうと
極めた。なまじい、借金の催促に
来たんぢやない抔と
弁明すると、又平岡が其
裏を
行くのが
癪だから、向ふの
疳違は、
疳違で
構はないとして
置いて、
此方は
此方の
歩を進める
態度に
出た。けれども第一に
困つたのは、平岡の勝手
元の都合を、三千代の
訴へによつて
知つたと
切り
出しては、三千代に
迷惑が
掛るかも知れない。と云つて、問題が
其所に
触れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は
仕方なしに
迂回した。
「
君は近来
斯う云ふ所へ
大分頻繁に
出はいりをすると
見えて、
家のものとは、みんな御
馴染だね」
「
君の様に
金回りが
好くないから、さう豪遊も出来ないが、
交際だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な
手付をして
猪口を
口へ
着けた。
「余計な事だが、それで
家の
方の経済は、収支
償なふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。
「うん。まあ、
好い
加減にやつてるさ」
斯う云つた平岡は、急に調子を
落して、
極めて気のない返事をした。代助は
夫限食ひ
込めなくなつた。
已を得ず、
「
不断は
今頃もう
家へ
帰つてゐるんだらう。
此間僕が
訪ねた時は
大分遅かつた様だが」と聞いた。すると、平岡は
矢張問題を
回避する様な語気で、
「まあ帰つたり、
帰らなかつたりだ。職業が
斯う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。
「三千代さんは
淋しいだらう」
「なに大丈夫だ。
彼奴も
大分変つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其
眸の
内に
危しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の関係は
元に
戻せないなと思つた。もし此夫婦が自然の
斧で
割き
限に
割かれるとすると、自分の運命は
取り
帰しの
付かない未来を
眼の
前に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、
自分と三千代はそれ丈接近しなければならないからである。代助は
即座の
衝動の
如くに云つた。――
「そんな事が、あらう
筈がない。いくら、
変つたつて、そりや
唯年を
取つた丈の変化だ。成るべく
帰つて三千代さんに安慰を与へて
遣れ」
「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、
「思ふかつて、
誰だつて
左様思はざるを得んぢやないか」と半ば
口から
出任せに答へた。
「君は三千代を三年
前の三千代と思つてるか。
大分変つたよ。あゝ、
大分変つたよ」と平岡は又ぐいと
飲んだ。代助は
覚えず
胸の動
悸を感じた。
「
同なじだ、
僕の見る所では全く
同じだ。
少しも
変つてゐやしない」
「だつて、僕は
家へ帰つても
面白くないから仕方がないぢやないか」
「そんな
筈はない」
平岡は
眼を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が
逼つた。けれども、罪あるものが
雷火に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは
眼の前にゐる平岡のためだと固く信じて
疑はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを
便に、自分を三千代から永く振り
放さうとする最後の
試みを、半ば無意識的に
遣つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から
隠す
為の、
糊塗策とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な
言動を敢てするには、
余りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に
帰つた。
「だつて、君がさう
外へ
許出てゐれば、自然
金も
要る。従つて
家の経済も
旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか」
平岡は、
白襯衣の
袖を
腕の
中途迄
捲り
上げて、
「家庭か。家庭もあまり
下さつたものぢやない。家庭を
重く見るのは、
君の様な独身
者に
限る様だね」と云つた。
此
言葉を
聞いたとき、代助は平岡が
悪くなつた。あからさまに自分の
腹の
中を云ふと、そんなに家庭が
嫌なら、
嫌でよし、其代り細君を
奪つちまふぞと
判然知らせたかつた。けれども
二人の問答は、
其所迄
行くには、まだ
中中間があつた。代助はもう一遍
外の方面から平岡の内部に触れて見た。
「
君が東京へ
着たてに、僕は君から説教されたね。
何か
遣れつて」
「うん。さうして君の消極な哲学を
聞かされて驚ろいた」
代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に
罹つた
人間の如く
行為に
渇いてゐた。彼は
行為の結果として、富を冀つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。
夫でなければ、活動としての
行為其物を求めてゐたか。それは代助にも
分らなかつた。
「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。――元来意見があつて、
人がそれに
則るのぢやない。
人があつて、
其人に
適した様な意見が
出て
来るのだから、
僕の説は
僕丈に通用する丈だ。決して君の身の上を、あの説で、
何うしやうの
斯うしやうのと云ふ訳ぢやない。僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。
君はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して
貰ひたい」
「無論大いに
遣る
積だ」
平岡の
答はたゞ此一句
限であつた。代助は
腹の
中で
首を
傾けた。
「新聞で
遣る
積かね」
平岡は
一寸躇した。が、やがて、
判然云ひ
放つた。――
「新聞にゐるうちは、新聞で
遣る
積だ」
「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」
「
出来る
積だ」と平岡は簡明な挨拶をした。
話は
此所迄来ても、たゞ抽象的に進んだ丈であつた。代助は言葉の
上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は
些とも
出来なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしてゐる様な気がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辞を云つた。それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて斃れたため、当時の
人から
偶像視されて、とう/\軍神と迄崇められた。けれども、四五年後の
今日に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を
口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。
英雄の
流行廃はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、
英雄とは其時代に極めて大切な
人といふ事で、名前丈は
偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和
克復の
暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は
隣人に対して
現金である如く、
英雄に対しても現金である。だから、
斯う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。さう云ふ訳で、代助は
英雄なぞに
担がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の
剣の力よりも、永久的の筆の力で、
英雄になつた方が
長持がする。新聞は其方面の代表的事業である。
代助は
此所迄
述べて見たが、元来が御世辞の
上に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかつた。平岡は其返事に、
「いや難有う」と云つた丈であつた。別段腹を立てた様子も見えなかつたが、
些とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。
代助は少々平岡を低く見過ぎたのに
恥ぢ入つた。実は
此側から、
彼の心を
動かして、
旨く
油の
乗つた所を、中途から
転がして、
元の家庭へ
滑り込ませるのが、代助の計画であつた。代助は此迂遠で、又尤も困難の方法の出立点から、程遠からぬ所で、
蹉跌して仕舞つた。
其夜代助は平岡と遂に愚図々々で
分れた。会見の結果から云ふと、何の
為に平岡を新聞社に
訪ねたのだか、自分にも
分らなかつた。平岡の方から見れば、猶更
左様であつた。代助は必竟
何しに新聞社迄出掛て
来たのか、帰る迄ついに問ひ
詰めづに済んで仕舞つた。
代助は
翌日になつて
独り書斎で、
昨夕の
有様を
何遍となく
頭の
中で
繰り返した。二時
間も一所に
話してゐるうちに、自分が平岡に対して、比較的
真面目であつたのは、三千代を弁護した時丈であつた。けれども其
真面目は、単に
動機の
真面目で、
口にした言葉は矢張
好加減な
出任せに過ぎなかつた。厳酷に云へば、
嘘許と云つても
可かつた。自分で
真面目だと信じてゐた動機でさへ、必竟は自分の未来を救ふ手段である。平岡から見れば、
固より真摯なものとは云へなかつた。まして、其他の談話に至ると、始めから、平岡を現在の立場から、自分の望む所へ
落し込まうと、たくらんで
掛つた、
打算的のものであつた。従つて平岡を
何うする事も出来なかつた。
もし思ひ切つて、三千代を
引合に
出して、自分の考へ通りを、遠慮なく正面から
述べ立てたら、もつと強い事が云へた。もつと平岡を
動揺る事が出来た。もつと
彼の肺腑に入る事が出来た。に
違ない。其代り
遣り
損へば、三千代に迷惑がかゝつて
来る。平岡と喧嘩になる。かも知れない。
代助は知らず/\の
間に、安全にして無能力な方針を取つて、平岡に接してゐた事を腑甲斐なく思つた。もし
斯う云ふ態度で平岡に
当りながら、一方では、三千代の運命を、全然平岡に
委ねて置けない程の不安があるならば、それは論理の
許さぬ矛盾を、
厚顔に犯してゐたと云はなければならない。
代助は
昔の
人が、
頭脳の不明瞭な所から、実は利己本位の立場に居りながら、
自らは
固く
人の
為と信じて、
泣いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに
動かし得たのを
羨ましく思つた。自分の
頭が、その位のぼんやりさ加減であつたら、
昨夕の会談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出来たかも知れない。彼は
人から、ことに自分の
父から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。
彼の解剖によると、事実は
斯うであつた。
人間は熱誠を以て
当つて然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行為を常住に有するものではない。夫よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行為を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を
衒つて、己れを高くする
山師に過ぎない。だから
彼の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には
外ならなかつた。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、
其あまりに、
狡黠くつて、
不真面目で、大抵は
虚偽を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかつたのである。と、彼は断然信じてゐた。
此所で彼は
一のヂレンマに達した。彼は自分と三千代との関係を、直線的に自然の命ずる通り発展させるか、又は全然其反対に出て、何も知らぬ
昔に返るか。
何方かにしなければ生活の意義を失つたものと
等しいと考へた。其他のあらゆる
中途半端の方法は、
偽に
始つて、
偽に
終るより
外に道はない。悉く社会的に安全であつて、悉く自己に対して無能無力である。と考へた。
彼は三千代と自分の関係を、天意によつて、――彼はそれを天意としか考へ得られなかつた。――醗酵させる事の社会的危険を承知してゐた。天意には叶ふが、人の
掟に背く
恋は、其
恋の
主の死によつて、始めて社会から
認められるのが常であつた。
彼は万一の悲劇を
二人の間に
描いて、覚えず慄然とした。
彼は又反対に、三千代と永遠の隔離を想像して見た。其時は天意に従ふ代りに、自己の意志に殉する
人にならなければ
済まなかつた。
彼は其手段として、
父や
嫂から勧められてゐた結婚に思ひ至つた。さうして、此結婚を
肯ふ事が、凡ての関係を
新にするものと考へた。
自然の児にならうか、又意志の
人にならうかと代助は
迷つた。
彼は
彼の主義として、弾力性のない
硬張つた方針の
下に、寒暑にさへすぐ反応を呈する自己を、器械の様に
束縛するの愚を忌んだ。同時に
彼は、
彼の生活が、一大断案を受くべき危機に
達して居る事を切に自覚した。
彼は結婚問題に
就て、まあ
能く考へて見ろと云はれて帰つたぎり、
未だに、それを本気に考へる
閑を
作らなかつた。帰つた時、まあ
今日も
虎口を
逃れて
難有かつたと感謝したぎり、放り
出して仕舞つた。
父からはまだ
何とも催促されないが、此二三日は又青山へ呼び
出されさうな気がしてならなかつた。代助は固より
呼び
出される迄
何も考へずにゐる気であつた。
呼び出されたら、
父の
顔色と相談の上、又何とか即席に返事を拵らえる心
組であつた。代助はあながち
父を馬鹿にする了見ではなかつた。あらゆる返事は、
斯う云ふ具合に、相手と自分を商量して、臨機に湧いて
来るのが本当だと思つてゐた。
もし、三千代に対する自分の態度が、最後の一歩前迄押し
詰められた様な気
持がなかつたなら、代助は
父に対して無論さう云ふ所置を取つたらう。けれども、代助は今相手の
顔色如何に拘はらず、手に持つた
賽を
投げなければならなかつた。
上になつた
目が、平岡に都合が
悪からうと、
父の気に入らなからうと、賽を
投げる以上は、天の法則通りになるより
外に
仕方はなかつた。賽を手に
持つ以上は、又
賽が投げられ
可く
作られたる以上は、
賽の
目を
極めるものは自分以外にあらう筈はなかつた。代助は、最後の権威は自己にあるものと、
腹のうちで
定めた。
父も
兄も
嫂も平岡も、決断の地平線上には
出て
来なかつた。
彼はたゞ
彼の運命に対してのみ卑怯であつた。此四五日は
掌に
載せた
賽を
眺め
暮らした。
今日もまだ
握つてゐた。早く運命が
戸外から
来て、其
手を軽く
敲いて呉れれば
好いと
思つた。が、
一方では、まだ
握つてゐられると云ふ意識が大層
嬉しかつた。
門野は
時々書斎へ
来た。
来る
度に代助は
洋卓の前に
凝としてゐた。
「
些と散歩にでも
御出になつたら
如何です。
左様御勉強ぢや
身体に
悪いでせう」と云つた事が一二度あつた。成程
顔色が
好くなかつた。
夏向になつたので、
門野が
湯を毎日
沸かして呉れた。代助は風呂場に行くたびに、
長い
間鏡を見た。
髯の
濃い男なので、
少し延びると、自分には大層見苦しく見えた。
触つて、ざら/\すると猶不愉快だつた。
飯は依然として、普通の如く
食つた。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈托とで、排泄機能に変化を起した。然し代助はそれを何とも思はなかつた。生理状態は殆んど苦にする
暇のない位、一つ事をぐる/\
回つて考へた。それが習慣になると、終局なく、ぐる/\
回つてゐる方が、
埒の
外へ飛び
出す努力よりも却つて楽になつた。
代助は最後に不決断の自己
嫌悪に陥つた。已を得ないから、三千代と自分の関係を発展させる手段として、佐川の縁談を断らうかと迄考へて、覚えず驚ろいた。然し三千代と自分の関係を絶つ手段として、結婚を許諾して見様かといふ気は、ぐる/\回転してゐるうちに一度も
出て
来なかつた。
縁談を
断る方は単独にも何遍となく決定が出来た。たゞ断つた
後、其反動として、自分をまともに三千代の
上に
浴せかけねば
已まぬ必然の勢力が来るに違ないと考へると、
其所に至つて、又恐ろしくなつた。
代助は
父からの催促を心待に待つてゐた。しかし
父からは何の
便もなかつた。三千代にもう一遍逢はうかと思つた。けれども、それ程の勇気も
出なかつた。
一番仕舞に、結婚は道徳の形式に於て、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容に於て、何等の影響を
二人の
上に及ぼしさうもないと云ふ考が、段々代助の脳裏に勢力を得て
来た。既に平岡に
嫁いだ三千代に対して、こんな関係が起り得るならば、
此上自分に既婚者の資格を与へたからと云つて、同様の関係が
続かない訳には行かない。それを
続かないと見るのはたゞ表向の沙汰で、心を
束縛する事の
出来ない形式は、いくら
重ねても苦痛を増す許である。と云ふのが代助の論法であつた。代助は縁談を断るより外に
道はなくなつた。
斯う決心した
翌日、代助は久し
振りに
髪を
刈つて
髯を
剃つた。
梅雨に入つて二三日
凄まじく
降つた揚句なので、
地面にも、
木の枝にも、
埃らしいものは
悉くしつとりと
静まつてゐた。
日の
色は以前より
薄かつた。
雲の
切れ
間から、落ちて
来る光線は、
下界の
湿り
気のために、半ば反射力を失つた様に柔らかに見えた。代助は
床屋の
鏡で、わが
姿を
映しながら、例の如くふつくらした
頬を
撫でゝ、
今日から愈積極的生活に入るのだと思つた。
青山へ
来て見ると、玄関に
車が二台程あつた。
供待の車夫は
蹴込に
倚り
掛つて眠つた儘、代助の通り過ぎるのを知らなかつた。座敷には梅子が
新聞を
膝の
上へ
乗せて、
込み入つた
庭の
緑をぼんやり眺めてゐた。是もぽかんと
眠むさうであつた。代助はいきなり
梅子の前へ
坐つた。
「
御父さんは
居ますか」
嫂は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の
眼で見た。
「代さん、少し
瘠せた様ぢやありませんか」と云つた。代助は又
頬を
撫でて、
「そんな事も
無いだらう」と打ち消した。
「だつて、
色沢が
悪いのよ」と梅子は
眼を
寄せて代助の
顔を
覗き
込んだ。
「
庭の
所為だ。
青葉が
映るんだ」と
庭の
植込の方を見たが、「だから
貴方だつて、
矢っ
張り
蒼いですよ」と
続けた。
「
私、此二三
日具合が
好くないんですもの」
「
道理でぽかんとして
居ると
思つた。
何うかしたんですか。
風邪ですか」
「
何だか知らないけれど
生欠許り
出て」
梅子は
斯う答へて、すぐ新聞を
膝から
卸すと、手を鳴らして、
小間使を呼んだ。代助は再び
父の
在、
不在を
確めた。梅子は其
問をもう忘れてゐた。聞いて見ると、玄関にあつた車は、
父の
客の
乗つて
来たものであつた。代助は
長く
懸ゝらなければ、
客の帰る迄
待たうと思つた。
嫂は
判然しないから、風呂場へ
行つて、
水で顔を
拭いて
来ると云つて立つた。下女が
好い
香のする
葛の
粽を、
深い
皿に入れて
持つて
来た。代助は
粽の尾をぶら
下げて、
頻りに
嗅いで
見た。
梅子が
涼しい
眼付になつて風呂場から帰つた時、代助は
粽の
一つを
振子の様に
振りながら、今度は、
「
兄さんは
何うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽
鼻に
立つて、
庭を
眺めてゐたが、
「二三日の
雨で、
苔の
色が
悉皆出た
事」と平生に似合はぬ観察をして、
故の
席に
返つた。さうして、
「
兄さんが
何うしましたつて」と聞き
直した。代助は
先の質問を繰り返した時、
嫂は尤も無頓着な調子で、
「
何うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。
「相変らず、留守
勝ですか」
「えゝ、えゝ、
朝も
晩も滅多に
宅に居た事はありません」
「
姉さんは
夫で
淋しくはないですか」
「
今更改まつて、そんな
事を
聞いたつて
仕方がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ
出した。
調戯ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ
気色はなかつた。代助も平生の自分を
振り返つて見て、
真面目に
斯んな質問を
掛けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。
今日迄
兄と
嫂の関係を長い
間目撃してゐながら、ついぞ
其所には気が
付かなかつた。
嫂も亦代助の気が
付く程物足りない
素振は見せた事がなかつた。
「
世間の夫
婦は
夫で
済んで
行くものかな」と
独言の様に云つたが、別に梅子の返事を予期する気もなかつたので、代助は
向の
顔も見ず、たゞ畳の
上に置いてある
新聞に
眼を
落した。すると梅子は忽ち、
「
何ですつて」と
切り込む様に云つた。代助の
眼が、其調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、
貴方が奥さんを
御貰ひなすつたら、始終
宅に
許ゐて、たんと
可愛がつて
御上げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覚した。それで成るべく
不断の調子を
出さうと
力めた。
けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に
次いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり
注がれてゐた。従つて、いくら平生の自分に帰つて、梅子の相手になる積でも、梅子の予期してゐない、変つた
音色が、
時々会話の
中に、思はず知らず
出て
来た。
「代さん、
貴方今日は
何うかしてゐるのね」と仕舞に梅子が云つた。代助は
固より
嫂の言葉を
側面へ
摺らして受ける法をいくらでも心得てゐた。然るに、それを
遣るのが、軽薄の様で、又面倒な様で、
今日は
厭になつた。
却つて
真面目に、
何処が
変か教へて呉れと
頼んだ。梅子は代助の
問が馬鹿気てゐるので妙な顔をした。が、代助が
益頼むので、では云つて
上げませうと前置をして、代助の
何うかしてゐる例を挙げ出した。梅子は勿論わざと
真面目を装つてゐるものと代助を解釈した。
其中に、
「だつて、
兄さんが
留守勝で、嘸御
淋しいでせうなんて、あんまり
思遣りが
好過ぎる事を
仰しやるからさ」と云ふ言葉があつた。代助は
其所へ自分を
挟んだ。
「いや、僕の知つた
女に、
左様云ふのが
一人あつて、
実は甚だ気の毒だから、つい
他の
女の
心持も
聞いて見たくなつて、
伺つたんで、決して
冷かした
積ぢやないんです」
「本当に?
夫や
一寸何てえ
方なの」
「名前は
云ひ
悪いんです」
「ぢや、
貴方が其旦那に忠告をして、奥さんをもつと
可愛がるやうにして御
上になれば
可いのに」
代助は微笑した。
「
姉さんも、さう思ひますか」
「当り前ですわ」
「もし其
夫が僕の忠告を
聞かなかつたら、
何うします」
「そりや、
何うも仕様がないわ」
「
放つて
置くんですか」
「
放つて
置かなけりや、
何うなさるの」
「ぢや、其細君は
夫に
対して細君の道を
守る義務があるでせうか」
「大変
理責めなのね。
夫や旦那の不親切の
度合にも
因るでせう」
「もし、其細君に
好きな人があつたら
何うです」
「知らないわ。馬鹿らしい。
好きな人がある位なら、始めつから
其方へ
行つたら
好いぢやありませんか」
代助は
黙つて考へた。しばらくしてから、
姉さんと云つた。梅子は其深い調子に驚ろかされて、
改ためて代助の
顔を見た。代助は同じ調子で
猶云つた。
「
僕は
今度の
縁談を
断らうと
思ふ」
代助の
巻烟草を
持つた手が
少し
顫へた。梅子は寧ろ表情を
失つた
顔付をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に頓着なく進行した。
「僕は今迄結婚問題に就いて、
貴方に何返となく迷惑を掛けた
上に、
今度も亦心配して
貰つてゐる。
僕ももう三十だから、
貴方の云ふ通り、大抵な所で、御勧め次第になつて
好いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ
已めにしたい希望です。
御父さんにも、
兄さんにも
済まないが、
仕方がない。
何も当人が気に入らないと云ふ訳ではないが、
断るんです。此間
御父さんによく考へて見ろと云はれて、大分考へて見たが、矢っ張り
断る方が
好い様だから
断ります。
実は
今日は其用で
御父さんに
逢ひに
来たんですが、
今御客の様だから、
序と云つては失礼だが、
貴方にも
御話をして置きます」
梅子は代助の様子が真面目なので、
何時もの如く無駄
口も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが
極めて
簡単な且つ
極めて実際的な短かい句であつた。
「でも、
御父さんは屹度御困りですよ」
「
御父さんには僕が
直に話すから構ひません」
「でも、
話がもう
此所迄
進んでゐるんだから」
「話が
何所迄進んでゐやうと、僕はまだ
貰ひますと云つた事はありません」
「けれども
判然貰はないとも仰しやらなかつたでせう」
「それを今云ひに
来た所です」
代助と梅子は
向ひ
合つたなり、しばらく
黙つた。
代助の方では、もう云ふ
可き
事を云ひ
尽くした様な気がした。
少なくとも、
是より
進んで、梅子に自分を説明しやうといふ考は丸で
無かつた。梅子は
語るべき
事、
聞くべき
事を
沢山持つてゐた。たゞ
夫が
咄嗟の
間に、
前の
問答に
繋がり
好く、
口へ
出て
来なかつたのである。
「
貴方の
知らない
間に、縁談が
何れ程
進んだのか、
私にも
能く
分らないけれど、
誰にしたつて、
貴方が、さう
的確御断りなさらうとは思ひ
掛けないんですもの」と梅子は
漸くにして云つた。
「
何故です」と代助は
冷かに
落ち
付いて
聞いた。梅子は眉を
動かした。
「
何故ですつて
聞いたつて、理窟ぢやありませんよ」
「理窟でなくつても
構はないから
話して
下さい」
「
貴方の様にさう何遍
断つたつて、
詰り
同じ事ぢやありませんか」と梅子は説明した。けれども、其意味がすぐ代助の
頭には
響かなかつた。
不可解の
眼を
挙げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍しに
掛かつた。
「つまり、
貴方だつて、
何時か一度は、御奥さんを
貰ふ
積なんでせう。
厭だつて、仕方がないぢやありませんか。
其様何時迄も我儘を云つた日には、
御父さんに
済まない丈ですわ。だからね。
何うせ
誰を
持つて
行つても
気に入らない
貴方なんだから、つまり
誰を
持たしたつて
同じだらうつて云ふ訳なんです。
貴方には
何んな
人を見せても駄目なんですよ。世の
中に
一人も気に入る様なものは生きてやしませんよ。だから、奥さんと云ふものは、
始めから気に入らないものと、
諦らめて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。だから
私達が一番
好いと思ふのを、
黙つて
貰へば、夫で
何所も
彼所も丸く
治まつちまふから、――だから、
御父さんが、殊によると、
今度は、
貴方に一から十迄相談して、
何か
為さらないかも知れませんよ。
御父さんから見れば
夫が当り前ですもの。さうでも、
為なくつちや、
生きてる
内に、
貴方の
奥さんの顔を見る事は出来ないぢやありませんか」
代助は落ち付いて
嫂の云ふ事を
聴いてゐた。
梅子の言葉が切れても、容易に
口を
動かさなかつた。
若し
反駁をする日には、
話が段々込み入る
許で、
此方の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた。けれども向ふの云ひ
分を
肯ふ気は丸でなかつた。実際問題として、双方が
困る様になる
許と信じたからである。それで、
嫂に向つて、
「
貴方の
仰しやる所も、一理あるが、
私にも
私の考があるから、まあ
打遣つて
置いて
下さい」と云つた。其調子には
梅子の干渉を面倒がる
気色が自然と見えた。すると梅子は
黙つてゐなかつた。
「そりや
代さんだつて、小供ぢやないから、
一人前の考の
御有な事は勿論ですわ。
私なんぞの
要らない
差出口は御迷惑でせうから、もう何にも申しますまい。然し御
父さんの身になつて御覧なさい。
月々の生活費は
貴方の
要ると云ふ丈今でも
出して
入らつしやるんだから、つまり
貴方は書生時代よりも余計
御父さんの厄介になつてる
訳でせう。さうして置いて、世話になる事は、
元より世話になるが、年を取つて
一人前になつたから、云ふ事は
元の通りには
聞かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」
梅子は少し激したと見えて猶も云ひ募らうとしたのを、代助が遮つた。
「だつて、女房を持てば此
上猶御
父さんの厄介に
為らなくつちや
為らないでせう」
「
宜いぢやありませんか、
御父さんが、
其方が
好いと仰しやるんだから」
「ぢや、
御父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非
持たせる決心なんですね」
「だつて、
貴方に
好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中
探して
歩いたつて
無いんぢやありませんか」
「
何うして、
夫が
分ります」
梅子は
張の強い
眼を据ゑて、代助を見た。さうして、
「
貴方は丸で代言人の様な事を仰しやるのね」と云つた。代助は
蒼白くなつた
額を
嫂の
傍へ
寄せた。
「
姉さん、
私は
好いた女があるんです」と
低い声で云ひ切つた。
代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本気に受けた。そつと手を
廻して真相を探つて見た抔といふ滑稽もあつた。事実が分つて以後は、代助の所謂
好いた女は、梅子に対して一向
利目がなくなつた。代助がそれを云ひ
出しても、丸で取り合はなかつた。でなければ、茶化してゐた。代助の方でも
夫で平気であつた。然し此場合丈は
彼に取つて、全く特別であつた。
顔付と云ひ、
眼付と云ひ、声の
低い
底に
籠る
力と云ひ、
此所迄押し
逼つて
来た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた。
嫂は此
短い
句を、
閃めく懐剣の如くに感じた。
代助は
帯の
間から時計を出して見た。
父の所へ
来てゐる客は
中々帰りさうにもなかつた。
空は又
曇つて
来た。代助は一旦引き
上げて又
改ためて、
父と
話を
付けに
出直す方が便宜だと
考へた。
「僕は又
来ます。
出直して
来て
御父さんに御目に
掛る方が
好いでせう」と立ちにかかつた。梅子は其
間に回復した。梅子は飽く迄人の世話を焼く実意のある丈に、物を中途で
投げる事の出来ない女であつた。
抑える様に代助を
引き
留めて、女の名を聞いた。代助は固より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は
夫でも応じなかつた。すると梅子は
何故其女を
貰はないのかと聞き
出した。代助は単純に
貰へないから、
貰はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。
他の尽力を
出し
抜いたと云つて恨んだ。
何故始から打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、気の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も
語らなかつた。梅子はとう/\
我を折つた。代助の
愈帰ると云ふ
間際になつて、
「ぢや、
貴方から
直に
御父さんに
御話なさるんですね。それ迄は
私は
黙つてゐた方が
好いでせう」と聞いた。代助は
黙つてゐて
貰ふ方が
好いか、
話して
貰ふ方が
好いか、自分にも
分らなかつた。
「
左様ですね」と
躇したが、「どうせ、
断りに
来るんだから」と云つて
嫂の
顔を
見た。
「ぢや、
若し
話す方が都合が
好ささうだつたら
話しませう。もし又
悪るい様だつたら、何にも云はずに置くから、
貴方が
始から
御話なさい。
夫が
宜いでせう」と梅子は親切に云つて呉れた。代助は、
「
何分宜しく」と
頼んで
外へ
出た。
角へ
来て、
四谷から
歩く
積で、わざと、
塩町
行の電車に
乗つた。練兵場の
横を通るとき、
重い
雲が西で切れて、
梅雨には
珍らしい
夕陽が、
真赤になつて
広い
原一面を
照らしてゐた。それが
向を
行く
車の
輪に
中つて、
輪が
回る
度に
鋼鉄の如く
光つた。
車は遠い
原の
中に
小さく見えた。
原は
車の
小さく
見える程、
広かつた。
日は
血の様に毒々しく
照つた。代助は此光
景を
斜めに
見ながら、
風を
切つて電車に持つて
行かれた。
重い
頭の
中がふら/\した。終点迄
来た時は、精神が
身体を
冒したのか、精神の方が
身体に冒されたのか、
厭な心持がして早く電車を
降りたかつた。代助は
雨の用心に持つた
蝙蝠傘を、杖の如く引き
摺つて
歩いた。
歩きながら、
自分は
今日、
自ら進んで、自分の運命の
半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちに
囁いだ。今迄は
父や
嫂を相手に、好い加減な
間隔を取つて、柔らかに自我を
通して
来た。今度は愈本性を
露はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在来の満足を
求め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする余地はあつた。たゞ、
夫には又
父を胡魔化す必要が出て来るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の
我を冷笑した。彼は
何うしても、
今日の告白を以て、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、
掩つ
被さる様に烈しく
働き掛けたかつた。
彼は
此次父に逢ふときは、もう
一歩も
後へ引けない様に、自分の方を
拵えて置きたかつた。それで三千代と会見する前に、又
父から呼び出される事を深く恐れた。彼は
今日嫂に、自分の意思を
父に
話す
話さないの自由を与へたのを悔いた。
今夜にも
話されれば、
明日の
朝呼ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来る。然し
夜だから都合がよくないと思つた。
角上を
下りた時、
日は
暮れ
掛かつた。士官学校の
前を
真直に
濠端へ
出て、二三町
来ると
砂土原町へ
曲がるべき所を、代助はわざと電車
路に
付いて
歩いた。
彼は
例の
如くに
宅へ帰つて、
一夜を安閑と、書斎の
中で
暮すに堪えなかつたのである。
濠を
隔てゝ高い土手の
松が、
眼のつゞく
限り
黒く
並んでゐる
底の方を、電車がしきりに
通つた。代助は
軽い
箱が、
軌道の
上を、苦もなく
滑つて
行つては、又
滑つて
帰る迅速な
手際に、軽快の感じを得た。其代り自分と
同じ
路を容赦なく
往来する
外濠線の
車を、常よりは騒々
敷悪んだ。牛込
見附迄
来た
時、遠くの小石川の
森に数点の
灯影を
認めた。代助は
夕飯を
食ふ考もなく、三千代のゐる方角へ
向いて
歩いて
行つた。
約二十分の後、
彼は安藤坂を
上つて、伝通院の
焼跡の前へ
出た。大きな木が、左右から
被さつてゐる
間を左りへ
抜けて、平岡の
家の
傍迄
来ると、
板塀から例の如く
灯が
射してゐた。代助は
塀の
本に
身を
寄せて、
凝と様子を
窺つた。しばらくは、何の
音もなく、
家のうちは全く
静であつた。代助は
門を
潜つて、格子の
外から、
頼むと声を
掛けて見様かと思つた。すると、椽側に
近く、ぴしやりと
脛を
叩く
音がした。それから、
人が立つて、
奥へ這入つて行く
気色であつた。やがて
話声が
聞えた。
何の事か
善く聴き取れなかつたが、声は
慥に、平岡と三千代であつた。
話声はしばらくで
歇んで仕舞つた。すると又足音が椽側迄
近付いて、どさりと尻を
卸す
音が手に取る様に
聞えた。代助は
夫なり
塀の
傍を
退いた。さうして
元来た
道とは反対の方角に
歩き
出した。
しばらくは、
何処を
何う
歩いてゐるか夢中であつた。
其間代助の
頭には今見た光景ばかりが煎り
付く様に踊つてゐた。それが、少し衰へると、今度は自己の行為に対して、云ふべからざる汚辱の意味を感じた。彼は何の故に、
斯ゝる下劣な真似をして、恰かも驚ろかされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。
彼は
暗い
小路に立つて、世界が
今夜に支配されつゝある事を私かに
喜んだ。しかも
五月雨の重い空気に
鎖されて、
歩けば
歩く程、
窒息する様な心持がした。
神楽坂上へ
出た時、急に
眼がぎら/\した。
身を
包む無数の
人と、無数の
光が
頭を遠慮なく
焼いた。代助は
逃げる様に
藁店を
上つた。
家へ帰ると、
門野が例の如く
漫然たる顔をして、
「
大分遅うがしたな。
御飯はもう
御済みになりましたか」と聞いた。
代助は
飯が
欲しくなかつたので、
要らない
由を答へて、
門野を
追ひ
帰す様に、書斎から
退ぞけた。が、二三
分立たない内に、又手を鳴らして呼び
出した。
「
宅から
使は
来やしなかつたかね」
「いゝえ」
代助は、
「ぢや、
宜しい」と云つた
限であつた。
門野は物足りなさうに
入口に立つてゐたが、
「先生は、
何ですか、
御宅へ
御出になつたんぢや
無かつたんですか」
「
何故」と代助は
六づかしい顔をした。
「だつて、御
出掛になるとき、そんな
御話でしたから」
代助は
門野を相手にするのが面倒になつた。
「
宅へは行つたさ。――
宅から
使が
来なければそれで、
好いぢやないか」
門野は
不得要領に、
「はあ
左様ですか」と云ひ
放して出て行つた。代助は、
父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるといふ事を知つてゐるので、ことによると、帰つた
後から
直使でも
寄こしはしまいかと恐れて
聞き
糺したのであつた。門野が書生部屋へ引き取つたあとで、
明日は是非共三千代に逢はなければならないと決心した。
其夜代助は
寐ながら、
何う云ふ手段で三千代に逢はうかと云ふ問題を考へた。手紙を車夫に持たせて
宅へ呼びに
遣れば、
来る事は
来るだらうが、
既に
今日嫂との会談が済んだ以上は、
明日にも、
兄か
嫂の
為に、向ふから襲はれないとも
限らない。又平岡のうちへ行つて逢ふ事は代助に取つて一種の苦痛があつた。代助は已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢ふより
外に道はないと思つた。
夜半から強く雨が降り
出した。
釣つてある
蚊帳が、却つて寒く見える位な
音がどう/\と
家を
包んだ。代助は其
音の
中に夜の
明けるのを
待つた。
雨は
翌日迄
晴れなかつた。代助は
湿つぽい椽側に
立つて、
暗い
空模様を
眺めて、
昨夕の計画を又
変えた。
彼は三千代を普通の待合抔へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。
已むなくんば、
蒼い
空の
下と思つてゐたが、此天気では
夫も覚束なかつた。と云つて、平岡の
家へ
出向く気は始めから
無かつた。彼は
何うしても、三千代を自分の
宅へ
連れて
来るより
外に道はないと
極めた。
門野が少し邪魔になるが、
話のし具合では書生部屋に洩れない様にも
出来ると考へた。
午少し
前迄は、ぼんやり
雨を
眺めてゐた。
午飯を
済ますや否や、
護謨の
合羽を引き掛けて表へ出た。
降る
中を
神楽坂下迄
来て
青山の
宅へ電話を
掛けた。
明日此方から行く
積であるからと、
機先を制して
置いた。電話
口へは
嫂が
現れた。
先達ての事は、まだ
父に
話さないでゐるから、もう一遍よく
考へ直して御覧なさらないかと云はれた。代助は感謝の辞と共に
号鈴を
鳴らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、
彼の出社の有無を
確めた。平岡は
社に
出てゐると云ふ返事を得た。代助は
雨を
衝いて又
坂を
上つた。
花屋へ這入つて、大きな
白百合の
花を沢山
買つて、
夫を
提げて、
宅へ
帰つた。
花は
濡れた儘、
二つの
花瓶に
分けて
挿した。まだ
余つてゐるのを、
此間の
鉢に
水を
張つて置いて、
茎を短かく切つて、はぱ/\
放り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を
書いた。文句は
極めて短かいものであつた。たゞ至急御目に
掛つて、
御話ししたい事があるから
来て呉れろと云ふ丈であつた。
代助は手を
打つて、
門野を
呼んだ。
門野は
鼻を鳴らして
現れた。手紙を受取りながら、
「大変
好い
香ですな」と云つた。代助は、
「
車を持つて
行つて、
乗せて
来るんだよ」と
念を
押した。
門野は
雨の
中を
乗りつけの帳場迄
出て
行つた。
代助は、
百合の
花を
眺めながら、部屋を
掩ふ強い
香の
中に、
残りなく自己を
放擲した。彼は
此嗅覚の刺激のうちに、
三千代の過去を
分明に認めた。
其過去には
離すべからざる、わが
昔の
影が
烟の如く
這ひ
纏はつてゐた。彼はしばらくして、
「
今日始めて
自然の
昔に帰るんだ」と
胸の
中で云つた。
斯う云ひ得た時、彼は
年頃にない安慰を
総身に覚えた。
何故もつと早く
帰る事が出来なかつたのかと思つた。
始から
何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は
雨の
中に、
百合の
中に、
再現の
昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが
幸であつた。だから凡てが
美しかつた。
やがて、
夢から
覚めた。此
一刻の
幸から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の
頭を
冒して
来た。
彼の
唇は
色を
失つた。
彼は黙然として、
我と
吾手を
眺めた。
爪の甲の
底に流れてゐる
血潮が、ぶる/\
顫へる様に思はれた。
彼は
立つて
百合の
花の
傍へ行つた。
唇が
瓣に
着く程近く
寄つて、強い
香を
眼の
眩う
迄嗅いだ。
彼は
花から
花へ
唇を
移して、
甘い
香に
咽せて、失心して
室の
中に倒れたかつた。
彼はやがて、腕を
組んで、書斎と
座敷の
間を
往つたり
来たりした。
彼の胸は始終鼓動を感じてゐた。
彼は
時々椅子の
角や、
洋卓の前へ
来て
留まつた。それから又
歩き
出した。
彼の
心の動揺は、
彼をして長く
一所に
留まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる
為に、
無暗な
所に立ち
留まらざるを得なかつた。
其内に時は段々
移つた。代助は断えず置時計の
針を見た。又
覗く様に、
軒から
外の
雨を見た。
雨は依然として、
空から
真直に
降つてゐた。
空は
前よりも稍
暗くなつた。
重なる
雲が
一つ
所で
渦を
捲いて、
次第に地面の
上へ押し
寄せるかと怪しまれた。其時
雨に
光る
車を
門から
中へ引き込んだ。
輪の
音が、
雨を
圧して代助の
耳に響いた時、彼は
蒼白い
頬に微笑を
洩しながら、
右の手を
胸に
当てた。
三千代は玄関から、
門野に
連れられて、廊下
伝ひに這入つて
来た。
銘仙の
紺絣に、
唐草模様の
一重帯を
締めて、此前とは丸で
違つた
服装をしてゐるので、
一目見た代助には、
新らしい
感じがした。
色は不断の通り
好くなかつたが、座敷の
入口で、代助と
顔を
合せた時、
眼も
眉も
口もぴたりと活動を中止した様に
固くなつた。
敷居に
立つてゐる
間は、
足も
動けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は
固より手紙を見た時から、何事をか予期して
来た。其予期のうちには恐れと、
喜と、心配とがあつた。車から
降りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は
其予期の色をもつて
漲つてゐた。三千代の表情はそこで、はたと
留まつた。代助の様子は三千代に夫丈の
打衝を与へる程に強烈であつた。
代助は椅子の一つを
指さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助は
其向に席を
占めた。
二人は始めて相対した。然し
良少時くは
二人とも、
口を
開かなかつた。
「
何か御用なの」と三千代は漸くにして問ふた。代助は、たゞ、
「えゝ」と云つた。
二人は
夫限で、又しばらく
雨の
音を聴いた。
「
何か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、
「えゝ」と云つた。双方共
何時もの様に軽くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと
兼て覚悟をして
居た。けれども、改たまつて、三千代に対して見ると、
始めて、
一滴の酒精が
恋しくなつた。ひそかに
次の
間へ
立つて、
例のヰスキーを
洋盃で
傾け様かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の
下に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の
誠でないと信じたからである。
酔と云ふ牆壁を築いて、其掩護に乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた、其代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を
蓄へぬ積であつた。否、
彼をして
卑吝に陥らしむる余地が丸でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを
傾ける事が出来なかつた。二度
聞かれた時に猶
躇した。三度目には、
已を得ず、
「まあ、
緩くり
話しませう」と云つて、
巻烟草に火を
点けた。三千代の
顔は返事を
延ばされる
度に
悪くなつた。
雨は依然として、
長く、
密に、物に
音を立てゝ
降つた。
二人は雨の
為に、雨の持ち
来す
音の
為に、
世間から切り離された。同じ
家に住む門野からも婆さんからも切り離された。
二人は孤立の儘、白百合の
香の
中に封じ込められた。
「
先刻表へ
出て、あの花を買つて
来ました」と代助は自分の周囲を
顧みた。三千代の
眼は代助に
随いて
室の
中を
一回した。其
後で三千代は鼻から強く
息を
吸ひ込んだ。
「
兄さんと
貴方と
清水町にゐた時分の事を思ひ
出さうと思つて、成るべく沢山買つて
来ました」と代助が云つた。
「
好い
香ですこと」と三千代は
翻がへる様に
綻びた大きな
花瓣を
眺めてゐたが、
夫から
眼を
放して代助に移した時、ぽうと
頬を薄赤くした。
「あの時分の事を考へると」と半分云つて
已めた。
「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「
貴方は派手な半襟を
掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ
来立だつたんですもの。ぢき
已めて仕舞つたわ」
「
此間百合の花を持つて
来て
下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時
限なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ
度なつたんですか」
「えゝ、
気迷れに
一寸結つて見たかつたの」
「僕はあの
髷を見て、
昔を思ひ出した」
「さう」と三千代は
恥づかしさうに
肯つた。
三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く
口を聞く様になつてからの事だが、始めて
国から出て
来た当時の
髪の風を代助から
賞められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた
後でも、決して銀杏返しには結はなかつた。
二人は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共
口へ
出しては何も語らなかつた。
三千代の
兄と云ふのは
寧ろ豁達な気性で、
懸隔てのない
交際振から、
友達には
甚く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此
兄は自分が豁達である丈に、妹の
大人しいのを
可愛がつてゐた。国から連れて
来て、一所に
家を
持つたのも、妹を教育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情
合と、現在自分の
傍に引き
着けて置きたい欲望とからであつた。
彼は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を
打ち
明けた事があつた。其時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以て此計画を迎へた。
三千代が
来てから後、
兄と代助とは益
親しくなつた。
何方が友情の歩を進めたかは、代助自身にも
分らなかつた。
兄が死んだ
後で、当時を振り返つて見る毎に、代助は
此親密の
裡に一種の意味を認めない訳に行かなかつた。
兄は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。
斯くして、相互の
思はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。
兄は在生中に此意味を
私に三千代に
洩らした事があるかどうか、
其所は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈であつた。
代助は其頃から趣味の人として、三千代の
兄に臨んでゐた。三千代の
兄は其方面に於て、普通以上の感受性を持つてゐなかつた。深い
話になると、正直に
分らないと自白して、余計な議論を
避けた。
何処からか
arbiter elegantiarum と云ふ字を
見付出して
来て、それを代助の異名の様に濫用したのは、其頃の事であつた。三千代は
隣りの部屋で
黙つて
兄と代助の
話を聞いてゐた。仕舞にはとう/\
arbiter elegantiarum と云ふ字を覚えた。ある時其意味を
兄に尋ねて、驚ろかれた事があつた。
兄は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来る丈与へる様に力めた。代助も辞退はしなかつた。
後から顧みると、
自ら進んで其任に当つたと思はれる痕迹もあつた。三千代は固より
喜んで
彼の指導を受けた。三人は斯くして、
巴の如くに回転しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、
巴の
輪は
回るに従つて次第に
狭まつて
来た。
遂に
三巴が
一所に
寄つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが
欠けたため、残る二つは平衡を失なつた。
代助と三千代は五年の
昔を心置なく語り始めた。語るに従つて、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返つて
来た。
二人の距離は又
元の様に近くなつた。
「あの時
兄さんが
亡くならないで、
未だ達者でゐたら、
今頃私は
何うしてゐるでせう」と三千代は、其時を
恋しがる様に云つた。
「
兄さんが達者でゐたら、
別の
人になつて
居る訳ですか」
「別な
人にはなりませんわ。
貴方は?」
「僕も同じ事です」
三千代は其時、少し
窘める様な調子で、
「あら
嘘」と云つた。代助は
深い
眼を三千代の
上に据ゑて、
「僕は、あの時も
今も、少しも
違つてゐやしないのです」と答へた儘、猶しばらくは
眼を相手から離さなかつた。三千代は忽ち視線を
外らした。さうして、
半ば独り
言の様に、
「だつて、あの時から、もう
違つてゐらしつたんですもの」と云つた。
三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が
低過た。代助は
消えて行く
影を
踏まへる如くに、すぐ其尾を
捕えた。
「
違やしません。
貴方にはたゞ
左様見える丈です。
左様見えたつて仕方がないが、それは
僻目だ」
代助の方は通例よりも熱心に
判然した
声で自己を弁護する如くに云つた。三千代の声は益
低かつた。
「
僻目でも何でも
可くつてよ」
代助は
黙つて三千代の様子を
窺つた。三千代は始めから、
眼を
伏せてゐた。代助には其長い
睫毛の
顫へる
様が能く見えた。
「僕の存在には
貴方が必要だ。
何うしても必要だ。
僕は夫丈の事を
貴方に
話したい
為にわざ/\
貴方を
呼んだのです」
代助の言葉には、普通の
愛人の用ひる様な
甘い
文彩を
含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に
逼つてゐた。
但、
夫丈の事を
語る
為に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、
玩具の
詩歌に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上
世間の小説に
出て
来る
青春時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に
華やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の
心に達した。三千代は
顫へる
睫毛の
間から、涙を
頬の
上に流した。
「僕はそれを
貴方に承知して
貰ひたいのです。承知して
下さい」
三千代は猶
泣いた。代助に返事をする
所ではなかつた。
袂から
手帛を
出して
顔へ
当てた。濃い
眉の一部分と、
額と
生際丈が代助の
眼に残つた。代助は椅子を三千代の方へ
摺り寄せた。
「承知して
下さるでせう」と
耳の
傍で云つた。三千代は、まだ
顔を蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「
余りだわ」と云ふ声が
手帛の
中で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が
遅過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ
嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は
涙と
涙の
間をぼつ/\
綴る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、
貴方に
左様打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、
憮然として
口を
閉ぢた。三千代は急に
手帛を
顔から
離した。
瞼の
赤くなつた
眼を突然代助の
上に
つて、
「打ち
明けて
下さらなくつても
可いから、
何故」と云ひ
掛けて、
一寸躇したが、思ひ切つて、「
何故棄てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又
手帛を
顔に
当てゝ又
泣いた。
「
僕が
悪い。堪忍して
下さい」
代助は三千代の
手頸を
執つて、
手帛を
顔から
離さうとした。三千代は
逆はうともしなかつた。
手帛は膝の
上に落ちた。三千代は其
膝の
上を見た
儘、
微かな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい
口元の
肉が
顫ふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は
夫丈の
罰を
受けてゐます」
三千代は不思議な
眼をして
顔を
上げたが、
「
何うして」と
聞いた。
「
貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ
独身でゐます」
「だつて、
夫は
貴方の御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。
貰はうと思つても、
貰へないのです。それから以後、
宅のものから何遍結婚を勧められたか
分りません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。
今度も亦
一人断りました。其結果僕と僕の
父との
間が
何うなるか
分りません。然し
何うなつても構はない、
断るんです。
貴方が僕に
復讐してゐる
間は
断らなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに
眼を
働かした。「
私は是でも、
嫁に
行つてから、
今日迄
一日も早く、
貴方が御結婚なされば
可いと思はないで
暮らした事はありません」と稍
改たまつた物の
言ひ
振であつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は
貴方に
何所迄も復讐して
貰ひたいのです。それが本望なのです。
今日斯うやつて、
貴方を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は
貴方から
復讐されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて
来た
人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、
貴方の前に
懺悔する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」
三千代は
涙の
中で
始めて笑つた。けれども
一言も
口へは
出さなかつた。代助は猶己れを語る
隙を得た。――
「僕は今更こんな事を
貴方に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが
貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は
貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり
我儘です。だから
詫るんです」
「残酷では御座いません。だから
詫まるのはもう
廃して頂戴」
三千代の調子は、此時急に
判然した。
沈んではゐたが、前に比べると非常に落ち
着いた。然ししばらくしてから、又
「たゞ、もう少し早く云つて
下さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。――
「ぢや僕が生涯
黙つてゐた方が、
貴方には幸福だつたんですか」
「
左様ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「
私だつて、
貴方が
左様云つて
下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」
今度は代助の方が微笑した。
「
夫ぢや構はないでせう」
「
構はないより難有いわ。たゞ――」
「たゞ平岡に
済まないと云ふんでせう」
三千代は不安らしく
首肯いた。代助は斯う聞いた。――
「三千代さん、正直に云つて御覧。
貴方は平岡を愛してゐるんですか」
三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。
眼も
口も
固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
「では、平岡は
貴方を愛してゐるんですか」
三千代は矢張り
俯つ
向いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の
質問の上に与へやうとして、既に其言葉が
口迄
出掛つた時、三千代は不意に顔を
上げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。
涙さへ大抵は
乾いた。
頬の
色は固より蒼かつたが、
唇は
確として、動く
気色はなかつた。
其間から、低く重い言葉が、
繋がらない様に、一字づゝ
出た。
「仕様がない。覚悟を
極めませう」
代助は
脊中から
水を
被つた様に
顫へた。社会から逐ひ
放たるべき
二人の
魂は、たゞ
二人対ひ合つて、
互を穴の
明く程眺めてゐた。さうして、
凡てに
逆つて、
互を一所に持ち
来たした力を
互と
怖れ
戦いた。
しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を
顔に
当てて泣き
出した。代助は三千代の
泣く
様を見るに
忍びなかつた。
肱を
突いて
額を
五指の
裏に
隠した。
二人は此態度を
崩さずに、恋愛の彫刻の如く、
凝としてゐた。
二人は斯う
凝としてゐる
中に、五十年を
眼のあたりに
縮めた程の精神の
緊張を感じた。さうして
其緊張と共に、
二人が相並んで存在して
居ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の
刑と愛の
賚とを同時に
享けて、同時に双方を切実に味はつた。
しばらくして、三千代は
手帛を取つて、涙を奇麗に
拭いたが、
静かに、
「
私もう帰つてよ」と云つた。代助は、
「御帰りなさい」と答へた。
雨は
小降になつたが、代助は固より三千代を
独り返す気はなかつた。わざと
車を雇はずに、自分で送つて
出た。平岡の家迄
附いて行く所を、江戸川の橋の
上で
別れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を
曲る迄
見送つてゐた。
夫から
緩くり歩を
回らしながら、
腹の
中で、
「万事終る」と宣告した。
雨は夕方
歇んで、
夜に入つたら、雲がしきりに
飛んだ。其
中洗つた様な月が
出た。代助は
光を
浴びる庭の
濡葉を長い
間椽側から
眺めてゐたが、仕舞に下駄を
穿いて
下へ
降りた。固より広い庭でない
上に
立木の
数が存外多いので、代助の
歩く
積はたんと
無かつた。代助は其
真中に立つて、
大きな
空を仰いだ。やがて、座敷から、
昼間買つた
百合の花を取つて
来て、自分の
周囲に
蒔き散らした。白い
花瓣が
点々として月の
光に
冴えた。あるものは、木下
闇に
仄めいた。代助は何をするともなく其
間に
曲んでゐた。
寐る時になつて始めて座敷へ
上がつた。
室の
中は花の
香がまだ全く
抜けてゐなかつた。
三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の予期する通りに
行つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。
会見の翌日彼は永らく手に持つてゐた
賽を思ひ切つて
投げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、
昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ
身になつたと自覚した。しかも
夫は
自ら進んで求めた責任に
違いなかつた。従つて、それを自分の
脊に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その
重みに押されるがため、却つて自然と
足が前に出る様な気がした。彼は
自ら切り開いた此運命の断片を
頭に
乗せて、
父と決戦すべき準備を整へた。
父の
後には
兄がゐた、
嫂がゐた。是等と戦つた
後には平岡がゐた。是等を切り
抜けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して
呉れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。
彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝
負事を好まぬ、用心深い、太平の好紳士と自分を見傚してゐた。徳義上重大な意味の卑怯はまだ犯した事がないけれども、臆病と云ふ自覚はどうしても
彼の心から取り去る事が出来なかつた。
彼は通俗なある外国雑誌の購読者であつた。其
中のある号で、
Mountain Accidents と題する一篇に
遭つて、かつて
心を
駭かした。
夫には高山を
攀ぢ
上る冒険者の、怪我
過が沢山に
並べてあつた。登山の途中
雪崩れに
圧されて、行き方知れずになつたものゝ骨が、四十年
後に氷河の
先へ引
懸つて
出た話や、四人の冒険者が懸崖の半腹にある、真直に立つた大きな
平岩を越すとき、肩から肩の上へ
猿の様に
重なり合つて、最上の一人の手が
岩の鼻へ掛かるや否や、
岩が
崩れて、腰の縄が切れて、上の三人が折り重なつて、真逆様に四番目の男の
傍を遥かの下に落ちて行つた話などが、
幾何となく載せてあつた間に、
錬瓦の
壁程急な
山腹に、
蝙蝠の様に
吸ひ付いた
人間を二三ヶ所点綴した
挿画があつた。其時代助は其絶壁の
横にある白い空間のあなたに、
広い
空や、遥かの
谷を想像して、
怖ろしさから
来る
眩暈を、
頭の
中に再
現せずには居られなかつた。
代助は今道徳界に於て、是等の登攀者と同一な地位に立つてゐると云ふ事を知つた。けれども
自ら其場に臨んで見ると、
怯む気は少しもなかつた。
怯んで猶予する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた。
彼は
一日も早く
父に逢つて
話をしたかつた。万一の差支を恐れて、三千代が
来た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。
父は留守だと云ふ返事を得た。
次の日又問ひ合せたら、今度は差支があると云つて
断られた。其次には
此方から知らせる迄は
来るに及ばんといふ挨拶であつた。代助は命令通り
控えてゐた。其間
嫂からも
兄からも
便は一向なかつた。代助は始めは
家のものが、自分に出来る丈長い、反省再考の時間を与へる
為の策略ではあるまいかと推察して、平気に構へてゐた。三度の食事も
旨く
食つた。
夜も比較的
安らかな夢を見た。
雨の
晴間には
門野を連れて散歩を一二度した。然し
宅からは
使も
手紙も
来なかつた。代助は
絶壁の途中で休息する時間の長過ぎるのに
安からずなつた。仕舞に思ひ切つて、自分の方から青山へ
出掛けて行つた。
兄は例の如く留守であつた。
嫂は代助を
見て気の毒さうな顔をした。が、例の事件に就ては何にも
語らなかつた。代助の来意を
聞いて、では
私が
一寸奥へ
行つて
御父さんの御都合を
伺つて
来ませうと云つて立つた。梅子の態度は、
父の怒りから代助を
庇う様にも見えた。又彼を疎外する様にも
取れた。代助は両方の
何れだらうかと
煩つて待つてゐた。待ちながらも、
何うせ覚悟の前だと何遍も
口のうちで繰り返した。
奥から梅子が出て来る迄には、大分
暇が
掛つた。代助を見て、又気の毒さうに、
今日は御都合が
悪いさうですよと云つた。代助は仕方なしに、
何時来たら
宜からうかと尋ねた。固より
例の
様な元気はなく悄然とした問ひ振りであつた。梅子は代助の様子に同情の念を起した調子で、二三日中に屹度自分が責任を以て都合の
好い時日を知らせるから
今日は帰れと云つた。代助が内玄関を
出る時、梅子はわざと送つて
来て、
「
今度こそ能く考へて入らつしやいよ」と注意した。代助は返事もせずに
門を
出た。
帰る
途中も不愉快で
堪らなかつた。
此間三千代に
逢つて以後、味はう事を知つた心の平和を、
父や
嫂の態度で幾分か破壊されたと云ふ心持が
路々募つた。自分は自分の思ふ通りを
父に
告げる、
父は
父の考へを遠慮なく自分に洩らす、それで衝突する、衝突の結果はどうあらうとも潔よく自分で受ける。是が代助の予期であつた。
父の
仕打は
彼の予期以外に面白くないものであつた。其仕打は
父の人格を反射する丈夫丈多く代助を不愉快にした。
代助は
途すがら、
何を
苦んで、
父との会見を左迄に急いだものかと思ひ
出した。元来が
父の要求に対する自分の返事に過ぎないのだから、便宜は寧ろ、是を待ち受ける
父の方にあるべき筈であつた。其
父がわざとらしく自分を避ける様にして、面会を
延ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなると云ふ不結果を生ずる外に
何も起り様がない。代助は自分の未来に関する主要な部分は、もう既に
片付けて仕舞つた
積でゐた。彼は
父から時日を指定して呼び
出される迄は、
宅の方の所置を其儘にして放つて置く事に極めた。
彼は
家に帰つた。
父に対しては只
薄暗い不愉快の
影が
頭に残つてゐた。けれども此影は近き未来に於て必ず其
暗さを増してくるべき性質のものであつた。其他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分が是から流れて行くべき方向を示してゐた。一つは平岡と自分を是非共一所に
捲き込むべき
凄じいものであつた。代助は
此間三千代に
逢つたなりで、
片片の方は捨てゝある。よし
是から三千代の
顔を見るにした所で、――また長い
間見ずにゐる気はなかつたが、――
二人の向後取るべき方針に就て云へば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかつた。此点に関して、代助は我ながら明瞭な計画を
拵えてゐなかつた。平岡と自分とを運び去るべき将来に就ても、彼はたゞ
何時、
何事にでも用意ありと云ふ丈であつた。無論彼は
機を見て、積極的に働らき掛ける心組はあつた。けれども具体的な案は一つも準備しなかつた。あらゆる場合に於て、彼の決して
仕損じまいと誓つたのは、凡てを平岡に打ち明けると云ふ事であつた。従つて平岡と自分とで構成すべき運命の流は
黒く恐ろしいものであつた。一つの心配は此恐ろしい
暴風の
中から、如何にして三千代を
救ひ得べきかの問題であつた。
最後に彼の周囲を人間のあらん
限り
包む社会に対しては、彼は何の考も纏めなかつた。事実として、社会は制裁の権を有してゐた。けれども動機行為の権は全く自己の天分から湧いて
出るより外に道はないと信じた。かれは此点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であつた。
代助は
彼の
小さな世界の中心に立つて、
彼の世界を斯様に観て、一順其関係比例を
頭の中で調べた上、
「
善からう」と云つて、又
家を出た。さうして一二丁
歩いて、乗り
付けの帳場迄
来て、奇麗で
早さうな
奴を択んで飛び
乗つた。
何処へ行く
当もないのを好加減な町を
名指して二時間程ぐる/\乗り
廻して
帰つた。
翌日も書斎の
中で前日同様、自分の世界の中心に立つて、左右前後を一応
隈なく見渡した
後、
「
宜しい」と云つて
外へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶら/\
歩いて帰つた。
三日目にも同じ事を
繰り返した。が、今度は表へ
出るや否や、すぐ江戸川を渡つて、三千代の所へ
来た。三千代は
二人の
間に何事も
起らなかつたかの様に、
「
何故夫から入らつしやらなかつたの」と
聞いた。代助は寧ろ其落ち付き
払つた態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲団を代助の前へ押し
遣つて、
「
何でそんなに、そわ/\して
居らつしやるの」と無理に
其上に
坐らした。
一時間ばかり話してゐるうちに、代助の
頭は次第に
穏やかになつた。
車へ乗つて、
当もなく乗り
回すより、三十分でも
好いから、早く
此所へ遊びに
来れば
可かつたと思ひ出した。帰るとき代助は、
「又
来ます。大丈夫だから安心して
入らつしやい」と三千代を慰める様に云つた。三千代はたゞ微笑した丈であつた。
其
夕方始めて
父からの
報知に接した。其時代助は婆さんの給仕で
飯を
食つてゐた。茶碗を膳の
上へ置いて、
門野から手紙を受取つて読むと、明朝何時迄に御
出の事といふ文句があつた。代助は、
「御役所風だね」と云ひながら、わざと
端書を
門野に見せた。
門野は、
「
青山の
御宅からですか」と叮嚀に眺めてゐたが、別に云ふ事がないものだから、
表を引つ繰り返して、
「
何うも
何ですな。
昔の
人は矢っ張り
手蹟が
好い様ですな」と御世辞を置き
去りにして出て行つた。婆さんは
先刻から
暦の
話をしきりに
為てゐた。
みづのえだの
かのとだの、八朔だの
友引だの、
爪を
切る日だの普請をする日だのと頗る
煩いものであつた。代助は固より
上の
空で
聞いてゐた。婆さんは又
門野の
職の事を
頼んだ。十五円でも
宜いから
何方へ
出して
遣つて呉れないかと云つた。代助は自分ながら、
何んな返事をしたか
分らない位気にも
留めなかつた。たゞ
心のうちでは、門野
所か、この
己が
危しい位だと思つた。
食事を終るや否や、本郷から寺尾が
来た。代助は門野の
顔を見て暫らく考へてゐた。
門野は無雑作に、
「
断りますか」と聞いた。代助は此間から珍らしくある
会を一二回欠席した。来客も
逢はないで
済むと思ふ分は両度程謝絶した。
代助は思ひ切つて寺尾に逢つた。寺尾は
何時もの様に、
血眼になつて、何か
探してゐた。代助は其様子を見て、例の如く皮肉で持ち切る気にもなれなかつた。翻訳だらうが焼き直しだらうが、生きてゐるうちは
何処迄も
遣る覚悟だから、寺尾の方がまだ自分より社会の
児らしく見えた。自分がもし失脚して、彼と同様の地位に置かれたら、果して
何の位の仕事に堪えるだらうと思ふと、代助は自分に対して気の毒になつた。さうして、自分が遠からず、
彼よりも
甚く失脚するのは、殆んど未発の事実の如く
確だと諦めてゐたから、彼は侮蔑の
眼を以て寺尾を迎へる訳には行かなかつた。
寺尾は、此間の翻訳を漸くの事で月末迄に片付けたら、本屋の方で、都合が悪いから秋迄出版を見合せると云ひ出したので、すぐ労力を
金に換算する事が出来ずに、困つた結果
遣つて
来たのであつた。では書肆と契約なしに手を
着けたのかと
聞くと、全く
左様でもないらしい。と云つて、本屋の方が丸で約束を無
視した様にも云はない。要するに曖昧であつた。たゞ困つてゐる事丈は事実らしかつた。けれども
斯う云ふ
手違に慣れ
抜いた寺尾は、別に徳義問題として誰にも不満を
抱いてゐる様には見えなかつた。失敬だとか
怪しからんと云ふのは、たゞ
口の
先許で、
腹の
中の屈托は、全然
飯と
肉に集注してゐるらしかつた。
代助は気の毒になつて、当座の経済に幾分の補助を与へた。寺尾は感謝の意を表して帰つた。帰る前に、実は本屋からも少しは前借はしたんだが、それは
疾の
昔に
使つて仕舞つたんだと自白した。寺尾の帰つたあとで、代助はあゝ云ふのも一種の人格だと思つた。たゞ
斯う楽に
活計てゐたつて決して
為れる訳のものぢやない。今の所謂文壇が、あゝ云ふ人格を必要と認めて、自然に産み出した程、今の文壇は悲しむべき状況の
下に呻吟してゐるんではなからうかと考へて
茫乎した。
代助は
其晩自分の前途をひどく気に掛けた。もし
父から物質的に供給の道を
鎖された時、彼は果して第二の寺尾になり得る決心があるだらうかを
疑つた。もし筆を執つて寺尾の真似さへ出来なかつたなら、彼は当然餓死すべきである。もし筆を
執らなかつたら、彼は何をする能力があるだらう。
彼は
眼を
開けて
時々蚊帳の
外に
置いてある
洋燈を眺めた。
夜中に
燐寸を
擦つて
烟草を
吹かした。寐返りを何遍も打つた。固より
寐苦しい程暑い晩ではなかつた。雨が又ざあ/\と
降つた。代助は此雨の
音で
寐付くかと思ふと、又雨の
音で不意に
眼を
覚ました。夜は半醒半睡のうちに明け離れた。
定刻になつて、代助は
出掛けた。
足駄穿で
雨傘を
提げて電車に
乗つたが、一方の
窓が
締め
切つてある
上に、
革紐にぶら
下がつてゐる
人が一杯なので、しばらくすると
胸がむかついて、
頭が
重くなつた。睡眠不足が影響したらしく思はれるので、
手を窮屈に
伸ばして、自分の
後丈を
開け
放つた。雨は容赦なく襟から帽子に
吹き
付けた。二三分の
後隣の
人の迷惑さうな
顔に気が
付いて、又
元の通りに
硝子窓を
上げた。
硝子の
表側には、
弾けた
雨の
珠が
溜つて、往来が多少
歪んで見えた。代助は
首から
上を
捩ぢ
曲げて
眼を
外面に
着けながら、
幾たびか自分の
眼を
擦すつた。然し何遍
擦つても、世界の恰好が少し変つて
来たと云ふ自覚が取れなかつた。
硝子を
通して
斜に遠方を
透かして見るときは猶
左様いふ感じがした。
弁慶橋で乗り
換えてからは、人もまばらに、雨も
小降りになつた。
頭も
楽に
濡れた世の
中を眺める事が
出来た。けれども
機嫌の
悪い
父の
顔が、色々な表情を以て
彼の脳髄を刺戟した。想像の談話さへ
明かに耳に
響いた。
玄関を
上つて、奥へ通る
前に、例の如く一応
嫂に逢つた。
嫂は、
「鬱陶しい御天気ぢやありませんか」と愛想よく自分で茶を汲んで呉れた。然し代助は飲む気にもならなかつた。
「
御父さんが待つて
御出でせうから、
一寸行つて
話をして
来ませう」と立ち
掛けた。
嫂は不安らしい
顔をして、
「代さん、
成らう事なら、
年寄に心配を掛けない様になさいよ。
御父さんだつて、もう
長い事はありませんから」と云つた。代助は梅子の
口から、こんな陰気な言葉を
聞くのは始めてであつた。不意に
穴倉へ
落ちた様な心持がした。
父は烟草盆を前に控えて、
俯向いてゐた。代助の足音を
聞いても
顔を
上げなかつた。代助は
父の
前へ
出て、叮嚀に御辞儀をした。
定めて六づかしい
眼付をされると思ひの外、
父は存外
穏かなもので、
「
降るのに御苦労だつた」と
労はつて呉れた。其時始めて気が
付いて見ると、
父の
頬が
何時の
間にかぐつと
瘠けてゐた。元来が
肉の多い方だつたので、此変化が代助には余計目立つて見えた。代助は覚えず、
「
何うか
為さいましたか」と聞いた。
父は
親らしい
色を
一寸顔に
動かした丈で、別に代助の心配を
物にする様子もなかつたが、
少時話してゐるうちに、
「
己も
大分年を取つてな」と云ひ
出した。其調子が
何時もの
父とは全く
違つてゐたので、代助は最前
嫂の云つた事を愈重く見なければならなくなつた。
父は
年の
所為で健康の衰へたのを理由として、近々実業界を退く意志のある事を代助に
洩らした。けれども今は日露戦争後の商工業膨脹の反動を受けて、自分の経営にかゝる事業が不景気の極端に達してゐる
最中だから、此難関を
漕ぎ抜けた
上でなくては、無責任の非難を免かれる事が出来ないので、当分已を得ずに辛抱してゐるより外に仕方がないのだと云ふ事情を委しく話した。代助は
父の言葉を至極尤もだと思つた。
父は普通の実業なるものゝ困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の
心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大
地主の、一見
地味であつて、其実自分等よりはずつと鞏固の基礎を有してゐる事を述べた。さうして、此比較を論拠として、新たに今度の結婚を成立させやうと力めた。
「さう云ふ親類が一軒位あるのは、大変な便利で、且つ
此際甚だ必要ぢやないか」と云つた。代助は、
父としては寧ろ露骨過ぎる此政略的結婚の申し
出に対して、今更驚ろく程、始めから
父を買ひ被つてはゐなかつた。最後の会見に、
父が従来の
仮面を
脱いで
掛かつたのを、寧ろ
快よく感じた。
彼自身も、
斯んな意味の結婚を敢てし得る程度の
人間だと
自ら
見積てゐた。
其上父に対して
何時にない同情があつた。其
顔、其
声、其代助を動かさうとする努力、凡てに老後の憐れを認める事が出来た。代助はこれをも、父の策略とは受取り得なかつた。
私は
何うでも
宜う御座いますから、
貴方の御都合の
好い様に御
極めなさいと云ひたかつた。
けれども三千代と最後の
会見を
遂げた
今更、
父の意に
叶ふ様な当座の孝行は代助には出来かねた。彼は元来が
何方付かずの男であつた。
誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、
誰の意見にも
露に抵抗した試がなかつた。解釈のしやうでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ
付とも思はれる
遣口であつた。
彼自身さへ、此二つの非難の
何れを
聞いた時に、
左様かも知れないと、
腹の
中で
首を
捩らぬ
訳には
行かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ
彼に融通の
利く
両つの
眼が
付いてゐて、双方を一時に
見る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の為に、今日迄一図に
物に向つて突進する勇気を
挫かれた。即かず離れず現状に立ち
竦んでゐる事が
屡あつた。此現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起ると云ふ事実は、
彼が犯すべからざる敢為の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて
解つたのである。三千代の場合は、即ち其
適例であつた。
彼は三千代の前に告白した
己れを、
父の前で白紙にしやうとは
想ひ
到らなかつた。同時に
父に対しては、
心から気の毒であつた。平生の代助が此際に執るべき方針は云はずして
明らかであつた。三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与へる
為の結婚を承諾するに
外ならなかつた。代助は
斯くして双方を調和する事が
出来た。
何方付かずに
真中へ
立つて、煮え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、
今の
彼は、
不断の彼とは
趣を異にしてゐた。再び半身を
埒外に
挺でて、余人と握手するのは既に
遅かつた。彼は三千代に対する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は
半ば
頭の判断から
来た。半ば
心の憧憬から
来た。二つのものが大きな
濤の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変つた様に
父の前に
立つた。
彼は平生の代助の如く、成る可く
口数を
利かずに
控えてゐた。
父から見れば
何時もの代助と異なる所はなかつた。代助の方では却つて
父の
変つてゐるのに驚ろいた。実は此間から
幾度も会見を謝絶されたのも、自分が
父の意志に背く
恐があるから
父の方でわざと、
延ばしたものと推してゐた。
今日逢つたら、定めて
苦い顔をされる事と覚悟を
極めてゐた。ことによれば、
頭から
叱り
飛ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ
其方が都合が
好かつた。三
分の
一は、
父の
暴怒に対する自己の反動を、心理的に利用して、
判然断らうと云ふ
下心さへあつた。代助は
父の様子、
父の言葉
遣、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を
鈍らせる傾向に
出たのを心苦しく思つた。けれども彼は此
心苦しさにさへ打ち勝つべき決心を
蓄へた。
「
貴方の
仰しやる所は
一々御尤もだと思ひますが、
私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、
断るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう/\云つて仕舞つた。其時
父はたゞ代助の
顔を見てゐた。
良あつて、
「勇気が
要るのかい」と手に
持つてゐた
烟管を
畳の
上に
放り
出した。代助は
膝頭を見詰めて
黙つてゐた。
「当人が気に入らないのかい」と父が又
聞いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄
父に対して
己れの四半分も打ち
明けてはゐなかつた。その御
蔭で
父と平和の関係を漸く持続して
来た。けれども三千代の事丈は始めから決して
隠す気はなかつた。自分の
頭の
上に当然落ちかゝるべき結果を、策で
避ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で
口へは
出さなかつた。
父は最後に、
「ぢや
何でも
御前の勝手にするさ」と云つて
苦い
顔をした。
代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、礼をして
父の
前を
退がらうとした。ときに
父は呼び
留めて、
「
己の方でも、もう
御前の世話はせんから」と云つた。座敷へ帰つた時、梅子は待ち構へた様に、
「
何うなすつて」と聞いた。代助は答へ様もなかつた。
翌日眼が
覚めても代助の耳の
底には
父の最後の言葉が
鳴つてゐた。
彼は前後の事情から、平生以上の
重みを其内容に附着しなければならなかつた。
少なくとも、自分丈では、
父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。
父の機嫌を取り
戻すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、
父を
首肯かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち
何れも不可能であつた。人生に対する自家の
哲学の根本に触れる問題に就いて、
父を欺くのは猶更不可能であつた。代助は
昨日の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の
重みを
脊中に
負つて、高い絶壁の
端迄押し出された様な心持であつた。
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた。けれども
彼の
頭の
中には職業と云ふ文字がある丈で、職業其物は体を具えて
現はれて
来なかつた。彼は今日迄如何なる職業にも興味を有つてゐなかつた結果として、如何なる職業を想ひ
浮べて見ても、
只其上を
上滑りに
滑つて行く丈で、
中に
踏み込んで内部から考へる事は到底出来なかつた。彼には世間が
平たい複雑な
色分の如くに見えた。さうして
彼自身は何等の
色を帯びてゐないとしか考へられなかつた。
凡ての職業を見渡した
後、
彼の
眼は漂泊者の
上に
来て、そこで
留まつた。彼は
明らかに自分の影を、犬と
人の
境を
迷ふ
乞食の
群の
中に見
出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であつた。彼は自分の肉体に、あらゆる
醜穢を
塗り付けた
後、自分の
心の状態が如何に落魄するだらうと考へて、ぞつと
身振をした。
此落魄のうちに、彼は三千代を引張り
廻さなければならなかつた。三千代は精神的に云つて、既に平岡の所有ではなかつた。代助は死に至る迄
彼女に対して責任を負ふ積であつた。けれども相当の地位を
有つてゐる人の
不実と、
零落の極に達した人の親切とは、結果に於て
大した差違はないと今更ながら思はれた。死ぬ迄三千代に対して責任を負ふと云ふのは、
負ふ目的があるといふ迄で、
負つた事実には決してなれなかつた。代助は
惘然として
黒内障に
罹つた人の如くに自失した。
彼は又三千代を
訪ねた。三千代は
前日の如く
静に
落ち
着いてゐた。
微笑と
光輝とに
満ちてゐた。
春風はゆたかに
彼女の
眉を吹いた。代助は三千代が
己を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた。其証拠を又
眼のあたりに見た時、
彼は
愛憐の情と気の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を悪漢の如くに
呵責した。思ふ事は全く云ひそびれて仕舞つた。帰るとき、
「又都合して
宅へ
来ませんか」と云つた。三千代はえゝと
首肯いて微笑した。代助は身を
切られる程
酷かつた。
代助は
此間から三千代を訪問する
毎に、不愉快ながら平岡の
居ない時を
択まなければならなかつた。始めはそれを左程にも思はなかつたが、近頃では不愉快と云ふよりも寧ろ、行き
悪い度が日毎に強くなつて
来た。
其上留守の訪問が
重なれば、下女に不審を起させる恐れがあつた。気の
所為か、茶を
運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い
眼付をして、見られる様でならなかつた。然し三千代は全く知らぬ顔をしてゐた。
少なくとも
上部丈は平気であつた。
平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかつた。
会に
一言二言夫となく問を掛けて見ても、三千代は寧ろ応じなかつた。たゞ代助の顔を
見れば、見てゐる
其間丈の
嬉しさに
溺れ
尽すのが自然の傾向であるかの如くに思はれた。前後を取り
囲む黒い雲が、今にも
逼つて来はしまいかと云ふ心配は、
陰ではいざ知らず、代助の
前には
影さへ見せなかつた。三千代は元来神経質の女であつた。昨今の態度は、
何うしても此女の手際ではないと思ふと、三千代の周囲の事情が、まだ夫程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなつたのだと解釈せざるを得なかつた。
「すこし又話したい事があるから
来て
下さい」と前よりは稍真面目に云つて代助は三千代と別れた。
中二日置いて三千代が
来る迄、代助の
頭は何等の
新しい
路を開拓し得なかつた。
彼の
頭の
中には職業の二字が大きな
楷書で焼き
付けられてゐた。それを
押し
退けると、物質的供給の杜絶がしきりに踊り
狂つた。それが影を
隠すと、三千代の未来が
凄じく荒れた。
彼の
頭には不安の
旋風が吹き込んだ。三つのものが
巴の如く瞬時の
休みなく回転した。其結果として、彼の周囲が悉く回転しだした。
彼は
船に乗つた
人と一般であつた。回転する
頭と、回転する世界の
中に、依然として落ち付いてゐた。
青山の
宅からは何の消息もなかつた。代助は固よりそれを予期してゐなかつた。彼は
力めて門野を相手にして他愛ない雑談に
耽つた。門野は此暑さに自分の
身体を持ち扱つてゐる位、用のない男であつたから、頗る得意に代助の思ふ通り
口を
動かした。それでも話し
草臥れると、
「先生、将棋は
何うです」抔と持ち掛けた。
夕方には
庭に水を
打つた。
二人共
跣足になつて、手桶を一杯
宛持つて、無分別に
其所等を
濡らして
歩いた。
門野が
隣の梧桐の
天辺迄
水にして御目にかけると云つて、手桶の底を振り
上げる拍子に、
滑つて尻持を
突いた。
白粉草が垣根の
傍で花を着けた。手水鉢の
蔭に
生えた秋海棠の葉が
著るしく大きくなつた。
梅雨は漸く晴れて、昼は
雲の
峰の世界となつた。強い
日は大きな
空を
透き
通す程焼いて、
空一杯の熱を地上に射り付ける天気となつた。
代助は
夜に入つて
頭の
上の星ばかり
眺めてゐた。
朝は書斎に這入つた。二三日は朝から蝉の声が
聞える様になつた。風呂場へ行つて、
度々頭を
冷した。すると門野がもう
好い時分だと思つて、
「
何うも非常な暑さですな」と云つて、這入つて
来た。代助は
斯う云ふ
上の
空の生活を二日程
送つた。三日目の
日盛に、彼は書斎の
中から、ぎら/\する
空の
色を
見詰めて、
上から
吐き
下す
焔の
息を
嗅いだ時に、非常に恐ろしくなつた。それは
彼の精神が此猛烈なる気候から永久の変化を受けつゝあると考へた
為であつた。
三千代は
此暑を
冒して
前日の
約を
履んだ。代助は女の
声を聞き付けた時、自分で玄関迄飛び
出した。三千代は
傘をつぼめて、風呂敷
包を抱へて、格子の
外に
立つてゐた。
不断着の
儘宅を
出たと見えて、
質素な
白地の
浴衣の
袂から
手帛を出し
掛けた所であつた。代助は
其姿を
一目見た時、運命が三千代の未来を切り
抜いて、意地悪く自分の眼の前に持つて
来た様に感じた。われ知らず、笑ひながら、
「
馳落でもしさうな風ぢやありませんか」と云つた。三千代は
穏かに、
「でも買物をした序でないと
上り
悪いから」と真面目な答をして、代助の
後に
跟いて奥迄這入つて
来た。代助はすぐ団扇を
出した。照り付けられた
所為で三千代の
頬が心持よく
輝やいた。
何時もの
疲れた色は
何処にも見えなかつた。
眼の
中にも
若い
沢が
宿つてゐた。代助は
生々した此美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れて仕舞つた。が、やがて、此美くしさを冥々の
裡に打ち崩しつゝあるものは自分であると考へ
出したら
悲しくなつた。彼は
今日も此
美くしさの一部分を曇らす
為に三千代を呼んだに
違なかつた。
代助は幾
度か己れを語る事を
躇した。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、
眉一筋にしろ心配の
為に
動かさせるのは、代助から云ふと非常な不徳義であつた。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに
鋭どく働らいてゐなかつたなら、彼は
夫から以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達ての告白を再び同じ
室のうちに繰り返して、単純なる愛の快感の
下に、
一切を放擲して仕舞つたかも知れなかつた。
代助は漸くにして思ひ切つた。
「
其後貴方と平岡との関係は別に変りはありませんか」
三千代は此問を受けた時でも、依然として幸福であつた。
「あつたつて、
構はないわ」
「
貴方は夫程僕を信用してゐるんですか」
「信用してゐなくつちや、
斯うして居られないぢやありませんか」
代助は
目映しさうに、
熱い
鏡の様な遠い
空を
眺めた。
「僕には夫程信用される資格がなささうだ」と
苦笑しながら答へたが、
頭の
中は
焙炉の如く
火照つてゐた。然し三千代は気にも
掛からなかつたと見えて、
何故とも
聞き返さなかつた。たゞ簡単に、
「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は
真面目になつた。
「僕は白状するが、実を云ふと、平岡君より
頼にならない男なんですよ。買ひ被つてゐられると困るから、みんな
話して仕舞ふが」と
前置をして、
夫から自分と
父との今日迄の関係を詳しく
述べた
上、
「僕の
身分は是から
先何うなるか
分らない。
少なくとも当分は
一人前ぢやない。半人前にもなれない。だから」と云ひ
淀んだ。
「だから、
何うなさるんです」
「だから、僕の思ふ通り、
貴方に対して責任が尽せないだらうと心配してゐるんです」
「責任つて、
何んな責任なの。もつと
判然仰しやらなくつちや
解らないわ」
代助は平生から物質的状況に重きを置くの結果、たゞ貧苦が愛人の満足に
価しないと云ふ事丈を知つてゐた。だから
富が三千代に対する責任の一つと考へたのみで、
夫より
外に明らかな観念は丸で持つてゐなかつた。
「徳義上の責任ぢやない、物質上の責任です」
「そんなものは
欲しくないわ」
「
欲しくないと
云つたつて、是非必要になるんです。是から
先僕が
貴方と
何んな
新らしい関係に移つて行くにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
「解決者でも
何でも、
今更左様な事を気にしたつて仕方がないわ」
「
口ではさうも云へるが、いざと云ふ場合になると困るのは
眼に見えてゐます」
三千代は少し
色を
変へた。
「
今貴方の
御父様の
御話を
伺つて見ると、
斯うなるのは始めから
解つてるぢやありませんか。
貴方だつて、其位な事は
疾うから気が
付いて
入つしやる筈だと思ひますわ」
代助は返事が出来なかつた。
頭を抑えて、
「少し脳が
何うかしてゐるんだ」と
独り
言の様に云つた。三千代は少し
涙ぐんだ。
「もし、
夫が気になるなら、
私の方は
何うでも
宜う
御座んすから、
御父様と
仲直りをなすつて、今迄通り御
交際になつたら
好いぢやありませんか」
代助は急に三千代の
手頸を
握つてそれを
振る様に力を入れて云つた。――
「そんな事を
為る
気なら始めから心配をしやしない。たゞ気の毒だから
貴方に
詫るんです」
「
詫まるなんて」と三千代は声を
顫はしながら
遮つた。「
私が
源因で
左様なつたのに、
貴方に
詫まらしちや
済まないぢやありませんか」
三千代は声を
立てゝ泣いた。代助は
慰撫める様に、
「ぢや我慢しますか」と
聞いた。
「我慢はしません。当り
前ですもの」
「是から
先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知してゐます。
何んな変化があつたつて構やしません。
私は
此間から、――
此間から
私は、
若もの事があれば、死ぬ積で覚悟を
極めてゐるんですもの」
代助は
慄然として
戦いた。
「
貴方に
是から
先何したら
好いと云ふ希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか
無いわ。
何でも
貴方の云ふ通りになるわ」
「漂
泊――」
「漂泊でも
好いわ。死ねと
仰しやれば死ぬわ」
代助は又
竦とした。
「
此儘では」
「
此儘でも構はないわ」
「平岡君は全く気が
付いてゐない様ですか」
「気が
付いてゐるかも知れません。けれども
私もう度胸を据ゑてゐるから大丈夫なのよ。だつて
何時殺されたつて
好いんですもの」
「さう死ぬの殺されるのと
安つぽく云ふものぢやない」
「だつて、
放つて
置いたつて、
永く生きられる
身体ぢやないぢやありませんか」
代助は
硬くなつて、
竦むが如く三千代を見詰めた。三千代は
歇私的里の
発作に
襲はれた様に思ひ切つて
泣いた。
一仕切経つと、
発作は次第に
収まつた。
後は
例の通り
静かな、しとやかな、
奥行のある、
美くしい女になつた。眉のあたりが殊に
晴/″\しく見えた。其時代助は、
「僕が自分で平岡君に逢つて解決を
付けても
宜う
御座んすか」と
聞いた。
「そんな事が出来て」と三千代は驚ろいた様であつた。代助は、
「出来る
積です」と
確り答へた。
「ぢや、
何うでも」と三千代が云つた。
「さうしませう。
二人が平岡君を
欺いて事をするのは
可くない様だ。無論事実を能く納得
出来る様に
話す丈です。さうして、僕の
悪い所はちやんと
詫まる覚悟です。其結果は僕の思ふ様に
行かないかも知れない。けれども
何う
間違つたつて、そんな無暗な事は起らない様にする
積です。
斯う
中途半端にしてゐては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても
悪い。たゞ僕が思ひ切つて
左様すると、あなたが、
嘸平岡君に面目なからうと思つてね。
其所が御気の毒なんだが、然し面目ないと云へば、僕だつて面目ないんだから。自分の所為に対しては、如何に面目なくつても、徳義上の責任を負ふのが当然だとすれば、
外に何等の利益がないとしても、御互の間に
有た事丈は平岡君に話さなければならないでせう。其上今の場合では是からの所置を
付ける大事の自白なんだから、猶更必要になると思ひます」
「能く
解りましたわ。
何うせ
間違へば死ぬ積なんですから」
「死ぬなんて。――よし死ぬにしたつて、是から
先何の
位間があるか――又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
三千代は又泣き
出した。
「ぢや
能く
詫ります」
代助は
日の傾くのを
待つて三千代を
帰した。然し此前の時の様に
送つては
行かなかつた。一時間程書斎の中で蝉の声を
聞いて
暮した。三千代に逢つて自分の未来を打ち明けてから、気分が薩張りした。平岡へ手紙を
書いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持つて見たが、急に責任の重いのが苦になつて、拝啓以後を書き
続ける勇気が出なかつた。卒然、
襯衣一枚になつて素足で庭へ
飛び
出した。三千代が帰る時は正体なく
午睡をしてゐた
門野が、
「まだ早いぢやありませんか。日が当つてゐますぜ」と云ひながら、坊主
頭を両手で抑えて椽端にあらはれた。代助は返事もせずに、庭の隅へ
潜り込んで竹の
落葉を前の方へ掃き
出した。
門野も已を得ず
着物を
脱いで
下りて
来た。
狭い庭だけれども、
土が
乾いてゐるので、たつぷり濡らすには
大分骨が折れた。代助は
腕が
痛いと云つて、
好加減にして足を
拭いて
上つた。
烟草を
吹いて、椽側に休んでゐると、門野が其姿を
見て、
「先生心臓の鼓動が少々
狂やしませんか」と
下から
調戯つた。
晩には
門野を
連れて、神楽坂の縁日へ
出掛けて、
秋草を二鉢三鉢買つて
来て、
露の
下りる
軒の
外へ
並べて
置いた。夜は深く
空は
高かつた。星の
色は
濃く
繁く
光つた。
代助は其晩わざと
雨戸を
引かずに
寐た。
無用心と云ふ恐れが
彼の
頭には全く
無かつた。彼は
洋燈を
消して、
蚊帳の
中に
独り
寐転びながら、
暗い所から暗い
空を
透かして見た。
頭の
中には
昼の事が
鮮かに
輝いた。もう二三
日のうちには最後の解決が
出来ると思つて幾
度か
胸を
躍らせた。が、そのうち
大いなる
空と、大いなる
夢のうちに、吾知らず吸収された。
翌日の
朝彼は思ひ切つて平岡へ手紙を
出した。たゞ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて
貰ひたい。
此方は
何時でも差支ない。と書いた丈だが、
彼はわざとそれを封書にした。状袋の
糊を
湿めして、赤い切手をとんと
張つた時には、愈クライシスに証券を与へた様な気がした。彼は
門野に云ひ付けて、此運命の
使を郵便
函に
投げ込ました。手
渡しにする時、少し手先が
顫へたが、渡したあとでは却つて茫然として自失した。三年前三千代と平岡の
間に
立つて
斡旋の労を取つた事を追想すると丸で夢の様であつた。
翌日は平岡の返事を
心待に
待ち
暮らした。其
明る日も
当にして
終日宅にゐた。
三日四日と
経つた。が、
平岡からは何の
便もなかつた。
其中例月の通り、
青山へ
金を
貰ひに行くべき
日が
来た。代助の
懐中は甚だ
手薄になつた。代助は此前
父に
逢つた時以後、もう
宅からは補助を受けられないものと覚悟を
極めてゐた。今更平気な
顔をして、のそ/\
出掛て行く了見は丸でなかつた。
何二ヶ月や三ヶ月は、書物か衣類を売り払つても
何うかなると
腹の
中で
高を
括つて落ち
付いてゐた。
事の落着次第
緩くり職業を
探すと云ふ分別もあつた。
彼は平生から
人のよく
口癖にする、人間は容易な
事で餓死するものぢやない、
何うにかなつて行くものだと云ふ
半諺の真理を、経験しない前から
信じ
出した。
五日目に
暑を
冒して、電車へ
乗つて、平岡の社迄
出掛けて行つて見て、平岡は二三日出社しないと云ふ事が
分つた。代助は表へ出て
薄汚ない編輯局の窓を
見上げながら、
足を運ぶ前に、一応電話で聞き
合すべき筈だつたと思つた。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、
夫さへ
疑はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを
出したからである。帰りに神田へ
廻つて、買ひつけの
古本屋に、売払ひたい不用の書物があるから、
見に
来てくれろと
頼んだ。
其
晩は
水を
打つ勇気も
失せて、ぼんやり、白い
網襯衣を
着た門野の
姿を
眺めてゐた。
「先生
今日は
御疲ですか」と
門野が
馬尻を鳴らしながら云つた。代助の胸は
不安に
圧されて、
明らかな返事も
出なかつた。
夕食のとき、
飯の
味は殆んどなかつた。
呑み込む様に
咽喉を
通して、
箸を
投げた。
門野を呼んで、
「君、平岡の所へ行つてね、
先達ての手紙は御覧になりましたか。御覧になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて
来て呉れ玉へ」と
頼んだ。猶要領を得ぬ
恐がありさうなので、先達てこれ/\の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して
聞かした。
門野を
出した
後で、代助は椽側に
出て、椅子に腰を
掛けた。
門野の帰つた時は、
洋燈を
吹き
消して、
暗い
中に
凝としてゐた。
門野は
暗がりで、
「
行つて参りました」と挨拶をした。「平岡さんは
御居でゞした。手紙は御覧になつたさうです。
明日の
朝行くからといふ事です」
「
左様かい、御苦労さま」と代助は答へた。
「
実はもつと早く
出るんだつたが、うちに病人が出来たんで
遅くなつたから、
宜しく云つてくれろと云はれました」
「病人?」と代助は思はず
問ひ
返した。
門野は
暗い
中で、
「えゝ、何でも奥さんが
御悪い様です」と答へた。門野の
着てゐる白地の
浴衣丈がぼんやり代助の
眼に
入つた。
夜の
明りは
二人の顔を照らすには余り不充分であつた。代助は
掛けてゐる
籐椅子の
肱掛を両手で
握つた。
「余程
悪いのか」と強く聞いた。
「
何うですか、能く
分りませんが。
何でもさう
軽さうでもない様でした。然し平岡さんが
明日御出になられる位なんだから、
大した
事ぢやないでせう」
代助は少し安心した。
「何だい。病気は」
「つい
聞き
落しましたがな」
二人の問答は
夫で
絶えた。
門野は
暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入つた。
静かに聞いてゐると、しばらくして、
洋燈の
蓋をホヤに
打つける
音がした。門野は
灯火を
点けたと見えた。
代助は
夜の
中に猶
凝としてゐた。
凝としてゐながら、
胸がわく/\した。
握つてゐる
肱掛に、手から
膏が
出た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。
門野のぼんやりした
白地が又廊下のはづれに
現はれた。
「まだ
暗闇ですな。
洋燈を
点けますか」と聞いた。代助は
洋燈を
断つて、もう
一度、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の
為だか、
何うだか、と云ふ点に至る迄、考へられる丈問ひ尽した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な
当ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には
一人で黙つてゐるよりも
堪え
易かつた。
寐る
前に
門野が夜中投函から手紙を一本
出して
来た。代助は暗い
中でそれを
受取つた儘、
別に見様ともしなかつた。
門野は、
「
御宅からの様です。
灯火を
持つて
来ませうか」と
促がす如くに注意した。
代助は始めて
洋燈を書斎に入れさして、
其下で、状袋の封を
切つた。手紙は梅子から自分に
宛てた可なり長いものであつた。――
「此間から奥さんの事で
貴方も
嘸御迷惑なすつたらう。
此方でも
御父様始め
兄さんや、
私は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御
出の
時、とう/\
御父さんに断然御
断りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと
諦らめてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、
後で承りました。其
後あなたが
御出にならないのも、全く其
為ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを
上げる
日には
何うかとも思ひましたが、矢張り御
出にならないので、心配してゐます。御父さんは
打遣つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其
内来るだらう。其時
親爺によく
詫らせるが
可い。もし
来ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは
未だ
怒つて御
出の様子です。私の考では当分
昔の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、
貴方が入らつしやらない方が却つて
貴方の
為に
宜いかも知れません。たゞ心配になるのは月々
上げる御
金の事です。
貴方の事だから、さう急に自分で御
金を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で
堪りません。で、私の取計で例月分を送つて
上げるから、御受取の上は是で来月迄持ち
応へて入らつしやい。其
内には御父さんの御機嫌も
直るでせう。又
兄さんからも、さう云つて頂く積です。
私も
好い
折があれば、御
詫をして
上げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が
宜う御座います。……」
まだ
後が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は
中に這入つてゐた小切手を引き
抜いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した
上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて
嫂に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。
代助は
洋燈の前にある封筒を、猶つくづくと
眺めた。
古い
寿命が又一ヶ月
延びた。
晩かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、
嫂の志は難有いにもせよ、却つて毒になる
許であつた。たゞ平岡と事を決する前は、
麺麭の
為に働らく事を
肯はぬ心を持つてゐたから、
嫂の
贈物が、
此際糧食としてことに彼には
貴とかつた。
其晩も蚊帳へ
這入る前にふつと、
洋燈を
消した。
雨戸は
門野が
立てに
来たから、故障も云はずに、其
儘にして置いた。
硝子戸だから、
戸越しにも
空は見えた。たゞ
昨夕より
暗かつた。
曇つたのかと思つて、わざ/\椽側迄
出て、
透かす様にして
軒を仰ぐと、
光るものが
筋を引いて
斜めに
空を流れた。代助は又
蚊帳を
捲つて這入つた。
寐付かれないので団扇をはたはた云はせた。
家の事は左のみ気に
掛からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の
頭を
悩ました。それから平岡との会見の様子も、
様々に想像して見た。それも
一方ならず
彼の脳髄を刺激した。平岡は
明日の朝九時
頃あんまり暑くならないうちに
来るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて
何う切り
出さう抔と形式的の文句を考へる
男ではなかつた。話す事は始めから
極つてゐて、話す順序は其時の
模様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく
熟睡したいと心掛けて
瞼を合せたが、生憎眼が冴えて
昨夕よりは却つて
寐苦しかつた。其
内夏の夜がぽうと
白み
渡つて
来た。代助は
堪りかねて跳ね起きた。
跣足で庭先へ飛び下りて冷たい
露を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の
出を待つてゐるうちに、うと/\した。
門野が
寐惚け
眼を
擦りながら、
雨戸を
開けに
出た時、代助ははつとして、此
仮睡から
覚めた。世界の半面はもう赤い
日に
洗はれてゐた。
「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云つた。代助はすぐ風呂場へ行つて水を
浴びた。
朝飯は
食はずに只紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が
書いてあるか
解らなかつた。読むに従つて、
読んだ事が
群がつて消えて
行つた。たゞ時計の針ばかりが気になつた。平岡が
来る迄にはまだ二時間あまりあつた。代助は其
間を
何うして
暮らさうかと思つた。
凝としてはゐられなかつた。けれども何をしても手に
付かなかつた。
責めて此二時間をぐつと寐込んで、
眼を
開けて見ると、自分の前に平岡が
来てゐる様にしたかつた。
仕舞に何か用事を考へ
出さうとした。不図机の
上に
乗せてあつた梅子の封筒が
眼に
付いた。代助は是だと思つて、強いて机の前に
坐つて、
嫂へ謝状を
書いた。成るべく叮嚀に書く積であつたが、状袋へ入れて宛名迄
認めて仕舞つて、時計を眺めると、たつた十五分程しか
経つてゐなかつた。代助は
席に
着いた儘、
安からぬ
眼を
空に据ゑて、
頭の
中で何か
捜す様に見えた。が、急に起つた。
「平岡が
来たら、すぐ
帰るからつて、
少し
待たして置いて呉れ」と
門野に云ひ
置いて表へ
出た。強い日が正面から
射竦める様な勢で、代助の
顔を
打つた。代助は
歩きながら
絶えず
眼と
眉を
動かした。牛込見附を這入つて、飯田町を
抜けて、九段
坂下へ
出て、
昨日寄つた
古本屋迄
来て、
「
昨日不要の
本を取りに
来て呉れと
頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余り
酷かつたので、電車で飯田橋へ
回つて、それから
揚場を
筋違に
毘沙門前へ
出た。
家の前には車が
一台下りてゐた。玄関には
靴が揃へてあつた。代助は
門野の注意を待たないで、平岡の
来てゐる事を悟つた。
汗を
拭いて、
着物を
洗ひ
立ての
浴衣に改めて、座敷へ
出た。
「いや、
御使で」と平岡が云つた。矢張り洋服を
着て、
蒸される様に扇を使つた。
「
何うも
暑い所を」と代助も
自から
表立た言葉
遣をしなければならなかつた。
二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いて見たかつた。然しそれが
何う云ふものか聞き
悪かつた。
其内通例の挨拶も
済んで仕舞つた。
話は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であつた。
「三千代さんは病気だつてね」
「うん。
夫で
社の
方も二三日
休ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れて仕舞つた」
「そりや
何うでも構はないが。三千代さんはそれ程
悪いのかい」
平岡は断然たる答を
一言葉でなし得なかつた。さう急に
何うの
斯うのといふ心配もない様だが、決して
軽い方ではないといふ意味を手短かに
述べた。
此前
暑い
盛りに、神楽坂へ買物に出た序に、代助の所へ寄つた
明日の
朝、三千代は平岡の社へ
出掛ける世話をしてゐながら、
突然
夫の
襟飾を持つた儘卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の
支度は其儘に三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出て
呉れと云ひ
出した。
口元には微笑の影さへ見えた。
横にはなつてゐたが、心配する
程の様子もないので、もし
悪い様だつたら医者を呼ぶ様に、必要があつたら社へ電話を掛ける様に云ひ置いて平岡は出勤した。其晩は
遅く帰つた。三千代は心持が
悪いといつて
先へ
寐てゐた。
何んな具合かと
聞いても、
判然した返事をしなかつた。翌日朝起きて見ると三千代の
色沢が非常に
可くなかつた。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎へた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の
為だと云つた。随分強い神経衰弱に
罹つてゐると注意した。平岡は
夫から社を
休んだ。本人は大丈夫だから出て
呉れろと頼む様に云つたが、平岡は
聞かなかつた。看護をしてから
二日目の
晩に、
三千代が
涙を流して、是非
詫まらなければならない事があるから、代助の所へ行つて其訳を聞いて呉れろと
夫に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかつた。
脳の
加減が
悪いのだらうと思つて、
好し/\と
気休めを云つて慰めてゐた。
三日目にも同じ願が繰り返された。其時平岡は漸やく三千代の言葉に一種の意味を
認めた。すると
夕方になつて、門野が代助から出した手紙の返事を
聞きにわざ/\小石川迄
遣つて
来た。
「君の用事と三千代の云ふ事と何か関係があるのかい」と平岡は不思議さうに代助を見た。
平岡の話は
先刻から深い感動を代助に与へてゐたが、突然此思はざる
問に
来た
時、代助はぐつと
詰つた。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の
胸に
応へた。
彼は
何時になく
少し
赤面して
俯向いた。然し
再顔を
上げた時は、平生の通り静かな
悪びれない態度を回復してゐた。
「三千代さんの
君に
詫まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだらう。或は
同じ事かも知れない。僕は
何うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから
話すんだから、今日迄の友誼に
免じて、
快よく僕に僕の義務を
果さして呉れ給へ」
「何だい。
改たまつて」と平岡は始めて眉を
正した。
「いや前置をすると言訳らしくなつて
不可ないから、僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、
夫に習慣に反した
嫌もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に
聞いて貰ひたいと思つて」
「まあ何だい。其
話と云ふのは」
好奇心と共に平岡の
顔が益
真面目になつた。
「其代り、みんな
話した
後で、僕は
何んな事を君から云はれても、矢張り大人しく仕舞迄聞く積だ」
平岡は何にも云はなかつた。たゞ
眼鏡の奥から大きな
眼を代助の
上に据ゑた。
外はぎら/\する日が
照り付けて、椽側迄
射返したが、
二人は殆んど暑さを度外に置いた。
代助は一段声を
潜めた。さうして、平岡夫婦が東京へ
来てから以来、自分と三千代との関係が
何んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り
出した。平岡は
堅く
唇を
結んで代助の一語一句に
耳を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。
「ざつと
斯う云ふ経過だ」と説明の結末を
付けた時、平岡はたゞ
唸る様に
深い
溜息を以て代助に答へた。代助は非常に
酷かつた。
「君の
立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。
怪しからん
友達だと思ふだらう。
左様思れても
一言もない。
済まない事になつた」
「すると君は自分のした事を
悪いと思つてるんだね」
「無論」
「
悪いと思ひながら
今日迄歩を進めて
来たんだね」と平岡は重ねて
聞いた。語気は前よりも稍切迫してゐた。
「
左様だ。だから、
此事に対して、君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはたゞ事実を其儘に話した丈で、君の処分の材料にする考だ」
平岡は答へなかつた。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云つた。
「僕の毀損された名誉が、回復出来る様な手段が、世の
中にあり得ると、君は思つてゐるのか」
今度は代助の方が答へなかつた。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云つた。
「すると君は
当事者丈のうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「
左様さ」
「三千代さんの心機を一転して、
君を
元よりも倍以上に愛させる様にして、其上僕を蛇蝎の様に
悪ませさへすれば幾分か
償にはなる」
「
夫が君の手際で出来るかい」
「出来ない」と代助は云ひ切つた。
「すると君は
悪いと思つた事を今日迄発展さして置いて、猶其
悪いと思ふ方針によつて、極端押して行かうとするのぢやないか」
「矛盾かも知れない。然し
夫は世間の
掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り
上がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの
夫たる君に
詫まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」
「ぢや」と平岡は稍声を高めた。「ぢや、僕等
二人は世間の
掟に
叶ふ様な夫婦関係は
結べないと云ふ意見だね」
代助は同情のある気の毒さうな
眼をして平岡を見た。平岡の
険しい眉が少し解けた。
「平岡君。
世間から云へば、これは男子の面目に
関はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する
為に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して
来るのは已を得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」
平岡は何とも云はなかつた。代助も一寸
控えてゐた。烟草を
一吹吹いた
後で、思ひ切つた。
「君は三千代さんを愛してゐなかつた」と
静かに云つた。
「そりや」
「そりや余計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛してゐる」
「
他の
妻を愛する権利が君にあるか」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、
心迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て
来たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。
夫の権利は
其所迄は
届きやしない。だから細君の愛を
他へ移さない様にするのが、却つて
夫の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて
己を
抑える様に云つた。
拳を握つてゐた。代助は相手の言葉の
尽きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を
更へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其
時の記憶が君の
頭の
中に残つてゐるか」
代助の
頭は急に三年前に
飛び
返つた。当時の記憶が、
闇を
回る
松明の如く
輝いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「
貰いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「
二人で、
夜上野を
抜けて
谷中へ
下りる時だつた。
雨上りで
谷中の
下は
道が
悪かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの
橋の所迄
来た時、君は僕の
為に泣いて呉れた」
代助は黙然としてゐた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。
嬉しくつて其晩は少しも
寐られなかつた。月のある
晩だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の様に云つた。それを平岡は打ち切る勢で
遮つた。――
「君は何だつて、あの時僕の
為に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の
為に三千代を周旋しやうと
盟つたのだ。
今日の様な事を引き起す位なら、
何故あの時、ふんと云つたなり
放つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な
復讐を取られる程、君に向つて悪い事をした
覚がないぢやないか」
平岡は声を
顫はした。代助の
蒼い額に
汗の
珠が
溜つた。さうして訴たへる如くに云つた。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の
望みを
叶へるのが、友達の本分だと思つた。それが
悪かつた。今位
頭が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に
若かつたものだから、余りに自然を軽蔑し
過ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の
為ばかりぢやない。実際君の
為に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに
遣り
遂げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に
復讐を取られて、君の前に手を突いて
詫まつてゐる」
代助は
涙を
膝の
上に
零した。平岡の
眼鏡が曇つた。
「どうも運命だから
仕方がない」
平岡は
呻吟く様な声を
出した。
二人は漸く
顔を見合せた。
「善後策に就て君の考があるなら聞かう」
「僕は君の前に
詫まつてゐる人間だ。
此方から
先へそんな事を云ひ出す権利はない。君の考から聞くのが順だ」と代助が云つた。
「僕には
何にもない」と平岡は
頭を抑えてゐた。
「では云ふ。三千代さんを呉れないか」と思ひ切つた調子に出た。
平岡は
頭から手を離して、肱を棒の様に
洋卓の上に倒した。同時に、
「うん
遣らう」と云つた。さうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「
遣る。
遣るが、
今は
遣れない。僕は君の推察通り夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども
悪んぢやゐなかつた。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方ぢやない。
寐てゐる病人を君に
遣るのは
厭だ。病気が
癒る迄君に
遣れないとすれば、夫迄は僕が
夫だから、
夫として看護する責任がある」
「僕は君に
詫つた。三千代さんも君に
詫まつてゐる。君から云へば
二人とも、不埒な
奴には相違ないが、――
幾何詫まつても勘弁
出来んかも知れないが、――何しろ病気をして
寐てゐるんだから」
「
夫は
分つてゐる。本人の病気に
付け込んで僕が意趣
晴らしに、
虐待でもすると思つてるんだらうが、僕だつて、まさか」
代助は平岡の
言を信じた。さうして腹の
中で平岡に感謝した。平岡は
次に
斯う云つた。
「僕は
今日の事がある以上は、世間的の
夫の
立場からして、もう君と交際する訳には行かない。
今日限り絶交するから
左様思つて呉れ玉へ」
「仕方がない」と代助は首を垂れた。
「三千代の病気は今云ふ通り軽い方ぢやない。
此先何んな変化がないとも
限らない。君も心配だらう。然し絶交した以上は
已を得ない。僕の在不在に
係はらず、
宅へ
出入りする事丈は遠慮して
貰ひたい」
「承知した」と代助はよろめく様に云つた。其
頬は益
蒼かつた。平岡は立ち
上がつた。
「君、もう五分
許坐つて
呉れ」と代助が
頼んだ。平岡は席に
着いた儘無言でゐた。
「三千代さんの病気は、急に
危険な
虞でもありさうなのかい」
「さあ」
「
夫丈教へて呉れないか」
「まあ、さう心配しないでも
可いだらう」
平岡は
暗い調子で、
地に
息を
吐く様に答へた。代助は
堪えられない思がした。
「
若しだね。
若し万一の事がありさうだつたら、其前にたつた一遍丈で
可いから、逢はして呉れないか。
外には決して何も
頼まない。たゞ夫丈だ。夫丈を
何うか承知して
呉れ玉へ」
平岡は
口を
結んだなり、容易に返事をしなかつた。代助は苦痛の
遣り
所がなくて、両手の
掌を、
垢の
綯れる程
揉んだ。
「
夫はまあ其時の場合にしやう」と平岡が
重さうに答へた。
「ぢや、
時々病人の様子を
聞きに
遣つても
可いかね」
「
夫は
困るよ。君と僕とは
何にも関係がないんだから。僕は是から
先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時丈だと思つてるんだから」
代助は電流に感じた如く椅子の
上で飛び
上がつた。
「あつ。
解つた。三千代さんの死骸丈を僕に見せる
積なんだ。それは
苛い。それは残酷だ」
代助は
洋卓の
縁を
回つて、平岡に
近づいた。右の手で平岡の
脊広の
肩を抑えて、前後に
揺りながら、
「
苛い、
苛い」と云つた。
平岡は代助の
眼のうちに
狂へる恐ろしい
光を見出した。
肩を
揺られながら、立ち
上がつた。
「
左んな事があるものか」と云つて代助の手を
抑えた。
二人は
魔に
憑かれた様な顔をして互を見た。
「落ち付かなくつちや
不可ない」と平岡が云つた。
「落ち
付いてゐる」と代助が答へた。けれども其言葉は
喘ぐ
息の
間を
苦しさうに洩れて出た。
暫らくして発作の反動が
来た。代助は
己れを支ふる力を用ひ
尽した人の様に、又椅子に腰を
卸した。さうして両手で顔を抑えた。
代助は夜の十時
過になつて、こつそり
家を
出た。
「
今から
何方へ」と驚ろいた
門野に、
「
何一寸」と曖昧な答をして、
寺町の通り迄
来た。
暑い時分の事なので、
町はまだ
宵の
口であつた。
浴衣を
着た人が幾人となく代助の
前後を通つた。代助には
夫が
唯動くものとしか見えなかつた。
左右の
店は悉く
明るかつた。代助は
眩しさうに、電気燈の
少ない横町へ
曲つた。江戸川の
縁へ
出た時、
暗い風が
微かに
吹いた。
黒い
桜の葉が少し
動いた。
橋の
上に立つて、
欄干から
下を見
下してゐたものが
二人あつた。金剛寺
坂では誰にも逢はなかつた。岩崎家の高い石垣が左右から細い
坂道を
塞いでゐた。
平岡の
住んでゐる
町は、猶静かであつた。大抵な
家は
灯影を
洩らさなかつた。向ふから
来た一台の
空車の輪の
音が胸を躍らす様に
響いた。代助は平岡の
家の塀際迄
来て
留つた。身を寄せて
中を窺ふと、
中は
暗かつた。立て切つた門の上に、軒燈が
空しく標札を
照らしてゐた。軒燈の
硝子に
守宮の
影が
斜めに
映つた。
代助は
今朝も
此所へ
来た。
午からも町内を
彷徨いた。下女が買物にでも
出る所を
捕まへて、三千代の容体を聞かうと思つた。然し下女は遂に出て
来なかつた。平岡の影も見えなかつた。塀の
傍に
寄つて耳を
澄ましても、
夫らしい
人声は聞えなかつた。医者を
突き
留めて、詳しい様子を探らうと思つたが、医者らしい車は平岡の門前には
留らなかつた。そのうち、強い日に射付けられた
頭が、
海の様に
動き始めた。立ち
留まつてゐると、倒れさうになつた。
歩き出すと、大地が大きな波紋を
描いた。代助は苦しさを
忍んで
這ふ様に
家へ帰つた。
夕食も
食はずに倒れたなり
動かずにゐた。其時
恐るべき日は漸く
落ちて、夜が次
第に
星の
色を
濃くした。代助は
暗さと涼しさのうちに始めて
蘇生つた。さうして
頭を
露に
打たせながら、又三千代のゐる所迄
遣つて
来たのである。
代助は三千代の門前を二三度
行つたり
来たりした。軒燈の
下へ
来るたびに立ち
留まつて、耳を
澄ました。五分乃至十分は
凝としてゐた。しかし
家の
中の様子は丸で
分らなかつた。凡てが
寂としてゐた。
代助が
軒燈の
下へ
来て立ち
留まるたびに、
守宮が軒燈の
硝子にぴたりと
身体を
貼り付けてゐた。黒い影は
斜に
映つた儘
何時でも
動かなかつた。
代助は
守宮に気が付く
毎に
厭な心持がした。其
動かない姿が妙に気に
掛つた。彼の精神は鋭どさの余りから
来る迷信に陥いつた。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつゝあると想像した。三千代は今死につゝあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに
息を
偸んで生きてゐると想像した。代助は
拳を固めて、割れる程平岡の門を
敲かずにはゐられなくなつた。忽ち自分は平岡のものに
指さへ触れる権利がない人間だと云ふ事に気が付いた。代助は
恐ろしさの余り
馳け
出した。静かな
小路の
中に、自分の
足音丈が高く
響いた。代助は
馳けながら猶恐ろしくなつた。
足を
緩めた時は、非常に
呼息が
苦しくなつた。
道端に
石段があつた。代助は
半ば夢中で
其所へ腰を掛けたなり、
額を手で
抑えて、
固くなつた。しばらくして、
閉さいだ
眼を
開けて見ると、大きな黒い
門があつた。門の
上から太い松が生垣の
外迄枝を張つてゐた。代助は
寺の這入り
口に休んでゐた。
彼は
立ち
上がつた。
惘然として又
歩き出した。少し
来て、再び平岡の小路へ這入つた。夢の様に軒燈の前で
立留つた。
守宮はまだ一つ所に
映つてゐた。代助は深い
溜息を
洩らして遂に小石川を
南側へ
降りた。
其晩は火の様に、熱くて赤い
旋風の
中に、
頭が永久に回転した。代助は死力を尽して、
旋風の
中から
逃れ
出様と争つた。けれども彼の
頭は毫も彼の命令に応じなかつた。木の葉の如く、
遅疑する様子もなく、くるり/\と
焔の
風に
巻かれて行つた。
翌日は又
燬け付く様に
日が高く
出た。
外は猛烈な
光で一面にいら/\し始めた。代助は我慢して八時
過に漸く起きた。起きるや否や
眼がぐらついた。平生の如く
水を
浴びて、書斎へ
這入つて
凝と
竦んだ。
所へ
門野が
来て、御客さまですと
知らせたなり、
入口に
立つて、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であつた。客は誰だと聞き返しもせずに手で支へた儘の
顔を、半分ばかり
門野の方へ向き
易へた。
其時客の
足音が椽側にして、案内も
待たずに
兄の誠吾が這入つて
来た。
「やあ、
此方へ」と席を勧めたのが代助にはやうやうであつた。誠吾は席に
着くや否や、扇子を出して、
上布の
襟を
開く様に、
風を送つた。此暑さに
脂肪が
焼けて苦しいと見えて、荒い
息遣をした。
「
暑いな」と云つた。
「
御宅でも別に御変りもありませんか」と代助は、
左も
疲れ
果てた
人の如くに
尋ねた。
二人は
少時例の通りの
世間話をした。代助の調子態度は固より尋常ではなかつた。けれども
兄は決して
何うしたとも
聞かなかつた。
話の
切れ
目へ
来た時、
「
今日は
実は」と云ひながら、
懐へ手を入れて、一通の手紙を取り出した。
「
実は御
前に少し
聞きたい事があつて
来たんだがね」と封筒の
裏を代助の方へ向けて、
「此男を知つてるかい」と聞いた。
其所には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた。
「知つてます」と代助は殆んど器械的に答へた。
「
元、
御前の同級生だつて云ふが、本当か」
「さうです」
「此男の細君も知つてるのかい」
「知つてゐます」
兄は又扇を取り
上げて、二三度ぱち/\と鳴らした。それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段
落した。
「此男の細君と、
御前が何か関係があるのかい」
代助は始めから万事を隠す気はなかつた。けれども斯う単簡に聞かれたときに、
何うして此複雑な経過を、
一言で答へ得るだらうと思ふと、返事は容易に
口へは
出なかつた。
兄は封筒の
中から、手紙を
取り
出した。それを四五寸ばかり
捲き
返して、
「
実は平岡と云ふ人が、
斯う云ふ手紙を
御父さんの所へ
宛ゝ
寄こしたんだがね。――
読んで見るか」と云つて、代助に
渡した。代助は
黙つて手紙を受取つて、
読み始めた。
兄は
凝と代助の
額の所を見詰めてゐた。
手紙は
細かい字で
書いてあつた。一行二行と読むうちに、読み終つた
分が、代助の
手先から長く
垂れた。それが二尺
余になつても、まだ尽きる気色はなかつた。代助の
眼はちらちらした。
頭が
鉄の様に
重かつた。代助は強いても
仕舞迄読み通さなければならないと考へた。
総身が名状しがたい圧迫を受けて、
腋の
下から
汗が流れた。漸く結末へ
来た時は、手に持つた手紙を
巻き
納める勇気もなかつた。手紙は
広げられた儘
洋卓の
上に
横はつた。
「
其所に
書いてある事は本当なのかい」と
兄が低い声で
聞いた。代助はたゞ、
「本当です」と答へた。
兄は打衝を受けた人の様に
一寸扇の
音を
留めた。しばらくは
二人とも
口を
聞き得なかつた。
良あつて
兄が、
「まあ、
何う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と
呆れた調子で云つた。代助は依然として、
口を
開かなかつた。
「
何んな女だつて、
貰はうと思へば、いくらでも
貰へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶黙つてゐた。三度目に
兄が斯う云つた。――
「
御前だつて
満更道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を
仕出かす位なら、今迄折角
金を使つた甲斐がないぢやないか」
代助は今更
兄に向つて、自分の
立場を説明する勇気もなかつた。
彼はつい
此間迄全く
兄と同意見であつたのである。
「
姉さんは
泣いてゐるぜ」と
兄が云つた。
「さうですか」と代助は夢の様に答へた。
「
御父さんは
怒つてゐる」
代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る
眼をして、
兄を眺めてゐた。
「
御前は平生から
能く
分らない男だつた。夫でも、いつか
分る時機が
来るだらうと思つて
今日迄
交際つてゐた。然し
今度と云ふ
今度は、全く
分らない人間だと、おれも
諦らめて仕舞つた。世の中に
分らない
人間程危険なものはない。何を
為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。
御前は
夫が自分の勝手だから
可からうが、
御父さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は
有つてゐるだらう」
兄の言葉は、代助の
耳を
掠めて
外へ
零れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども
兄の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の
兄から、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。
彼は
彼の
頭の
中に、彼自身に正当な道を
歩んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、
父も
兄も社会も人間も悉く
敵であつた。彼等は
赫々たる
炎火の
裡に、
二人を
包んで
焼き
殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此
焔の風に早く己れを
焼き
尽すのを、此
上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い
頭を支へて石の様に動かなかつた。
「代助」と
兄が呼んだ。「
今日はおれは
御父さんの
使に
来たのだ。御前は
此間から
家へ
寄り
付かない様になつてゐる。平生なら御
父さんが呼び付けて聞き
糺す所だけれども、
今日は
顔を見るのが
厭だから、
此方から行つて実否を
確めて
来いと云ふ訳で
来たのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、――
御父さんは
斯う云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。
何処へ
行つて、
何をしやうと
当人の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又
親とも思つて
呉れるな。――尤もの事だ。そこで
今御前の
話を聞いて見ると、平岡の手紙には
嘘は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて
御父さんに取り成し様がない。
御父さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。
好いか。
御父さんの云はれる事は
分つたか」
「よく
分りました」と代助は簡明に答へた。
「
貴様は馬鹿だ」と
兄が大きな声を出した。代助は
俯向いた儘
顔を
上げなかつた。
「愚図だ」と
兄が又云つた。「
不断は
人並以上に
減らず
口を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に
黙つてゐる。さうして、
陰で親の名誉に
関はる様な
悪戯をしてゐる。
今日迄何の
為に教育を受けたのだ」
兄は
洋卓の
上の手紙を
取つて自分で
巻き始めた。
静かな部屋の
中に、
半切の
音がかさ/\
鳴つた。
兄はそれを
元の
如くに封筒に納めて懐中した。
「ぢや帰るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、
「おれも、もう
逢はんから」と云ひ捨てて玄関に出た。
兄の
去つた
後、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。
門野が茶器を取り
片付けに
来た時、急に
立ち
上がつて、
「
門野さん。僕は
一寸職業を
探して
来る」と云ふや否や、
鳥打帽を
被つて、
傘も
指さずに
日盛りの
表へ飛び出した。
代助は
暑い
中を
馳けない
許に、
急ぎ足に
歩いた。
日は代助の
頭の上から
真直に射
下した。
乾いた
埃が、火の
粉の様に
彼の
素足を
包んだ。
彼はぢり/\と
焦る心持がした。
「
焦る/\」と
歩きながら
口の
内で云つた。
飯田橋へ
来て電車に
乗つた。電車は真直に
走り
出した。代助は車のなかで、
「あゝ
動く。世の中が動く」と
傍の人に聞える様に云つた。
彼の
頭は電車の速力を以て回転し
出した。回転するに従つて
火の様に
焙つて
来た。是で半日乗り
続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。
忽ち
赤い郵便筒が
眼に
付いた。すると其赤い色が忽ち代助の
頭の
中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。
傘屋の看板に、赤い
蝙蝠傘を四つ
重ねて
高く
釣るしてあつた。
傘の色が、又代助の
頭に飛び込んで、くる/\と
渦を
捲いた。四つ
角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に
角を
曲るとき、風船玉は
追懸て
来て、代助の
頭に飛び
付いた。
小包郵便を
載せた赤い車がはつと電車と
摺れ違ふとき、又代助の
頭の
中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと
続いた。仕舞には世の中が
真赤になつた。さうして、代助の
頭を中心としてくるり/\と
焔の
息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。