Wilard Van Orman Quine

경험주의의 두 가지 도그마

이윤진이카루스 2016. 7. 24. 00:33

第6章 科学は合理的に進歩するか


 

第1節 『経験主義のふたつのドグマ』(Two Dogmas of Empiricism,1951)
(1) 経験主義のふたつのドグマ
クワイン(Willard van Orman Quine,1908- )は,
現代の経験主義は,その大部分をふたつのドグマによって条件づけられている
と言う.そしてそれは,
ひとつは,分析的真理…と,総合的真理…との間に,ある根本的な分裂があるという信念である.もうひとつのドグマは,還元主義,すなわち,有意味な言明はどれも,直接的経験を指示する名辞からの論理的構成物と同値であるという信念である
と主張する.そして「どちらのドグマにも根拠がない」と主張する .

(2) 分析的真理

まずひとつめのドグマについて考えてみよう.彼によると,「分析的真理」という概念に明確な定義を与えることができない.「ある言明が分析的であるのは,それが事実とは独立に,意味によって真であるときである」といわれるが,では「意味」とは何か.フレーゲやラッセルがすでに指摘したように,「意味」は「指示」と同一視されてはならない.
いったん意味の理論が指示の理論からはっきりと区分されるならば,意味の理論の主要課題が言語的形式の同義性と言明の分析性のふたつだけであることは容易に気付かれる.正体不明の中間的存在者としての意味そのものは捨て去られてよい.
すると(「意味そのものは捨て去られてよい」のだから)やはり上記の定義によっても「分析性」がなにかわからないことになる.

さて,クワインによれば,分析的であると哲学で一般に認められている言明は,ふたつのクラスに分類される.たとえば,
結婚していない男は誰も結婚していない

独身男は誰も結婚していない
というふたつのものである.

前者に関しては論理的に真であると言えるが,後者はそうは言えないと主張する.これが「分析的」であるという主張は,同義語を代入することによって論理的真理に変えることができることであるとされるが,では,「同義性」とは何なのかという疑問が次に生じる.

その他に,この第2のクラスに属する分析的言明は,「定義」という手段によって第1のクラス,つまり,論理的真理に還元することができるという考えもあるが,しかしその「定義」は,結局は同義性に依存していることがわかる.

そして, 
最初,分析性は,意味というものからなる世界に訴えることによってもっとも自然に定義できるように思えた.検討の結果,意味に訴えることは,同義性あるいは定義に訴えることに席を譲った.しかし,定義は,鬼火のようにひとを惑わすもの(will-o'-the-wisp)でしかないことがわかり,同義性は,分析性そのものに前もって訴えるときにのみ,もっともよく理解されることがわかった.こうしてわれわれは,分析性の問題に戻って
きてしまい,結局は議論が循環してしまうことがわかるのだ

では,意味論的規則(Semantical Rules)に訴えてはどうか.日常言語において分析的言明を総合的言明から区別することが難しいのは,日常言語が曖昧であることからくるのであって明示的な意味論的規則を備えた精確な人工言語はこの区別は明確であるとしばしばされる.

ある人工言語 L0 において,その意味論的規則は,L0のすべての分析的言明を,再帰やその他の手段で,明示的に特定するという形をもっている.だが, 
ここでの困難は,まさに,この規則がわれわれが理解していない「分析的」という語を含んでいるということである.  
では,これこれの言明が分析的であるというものではなく,これこれの言明が真である言明の一部であるというだけの意味論的規則について考えてみよう.こうした規則については,理解されていない語「分析的」を含んでいないし,また,ここでの議論の都合上,より広い語「真である」に関しては何の問題もないと認めることにする.

そこで,ある言明が分析的であるのは,それが(単に真であるだけでなく)意味論的規則によって真であるときであるとすればどうだろう.しかし 
説明されていない語「分析性」に訴える代わりに,ここでは,説明されていない句「意味論的規則」に訴えているだけのことである  
と,クワインは言い,そして結局は,分析的言明と総合的言明の間の境界について, 
こうした区別がそもそもたてられるべきであるというのは,経験主義者の非経験的ドグマであり,形而上学的信条(a metaphysical article of faith)なのである.  
と主張する. 

(3) 全体論

次に,もうひとつのドグマである「還元主義」について考えてみよう.意味の検証理論とは,言明の意味を,それを経験的に確証または反証する方法であるとするものであったが,分析的言明は,いかなる場合でも確証されるという極限的場合である.

そしてこの,意味の検証理論の主張には,有意味な言明はどれも,直接的経験についての(真あるいは偽である)言明に翻訳可能(還元可能)であるという主張(つまり,科学的言明には「エネルギー」だとか「エントロピー」といった直接観察不可能な術語が含まれているが,これらはすべて観察語を用いて言い直すことができるという主張)が含まれているから,ここにふたつのドグマは深い関連があるということがわかる.

意味の検証理論・還元主義は,つまりは,個々の言明が他の言明から独立して考えられても,ともかく確証や反証を受付けうるいうことである.しかし,クワインの,それにたいする反対提案は,
外的世界についてのわれわれの言明は,個々独立ではなく,ひとつの団体として,感覚的経験の裁きに直面するのである  
というものだ.われわれの知識や信念の全体は相互につながりあったひとつの構造体であるとみなすべきだあるから, 
経験的有意味性の単位は,科学の全体なのである.  
それゆえ彼の見解は,要素主義にたいして,「全体論 holism」の名で呼ばれている.検証・反証の文脈においては,それはつまり,あるテスト命題が反証されたからといって,その仮説が偽であることが帰結するわけではないのである.

クワインによると,われわれの知識や信念の総体は,その周縁部のみが経験と接しているのであり,どんな特定の経験も,そのような場の内部の特定の言明と結びつけられているということはなく,特定の経験は,場の全体の均衡についての考慮を介して,間接的な仕方でのみ,特定の言明と結びつくのである.それゆえ,
対立する経験がひとつでも生じたときに,どの言明を再評価すべきかについては広い選択の幅がある.
だから
経験に依存して成り立つ総合的言明と,何が起ころうとも成り立つ分析的言明とのあいだの境界を探し求めることは,愚かなこととなる.体系のどこか別のところで思いきった調整を行うならば,どのような言明に関しても,何が起ころうとも真とみなしつづけることができる…逆に,まったく同じ理由から,どのような言明も改訂にたいして免疫があるわけではない.排中律という論理法則の改訂でさえ,量子力学を単純化する一手段として提案されている.
このことは,仮説の正否を決める「決定実験 crucial experiment」なるものがそもそも成り立たないことを意味している.フランスの物理学者デュエム(Pierre Duhem, 1861-1916)によって最初に指摘されたこの「決定実験の不可能性」という主張は,今日では「デュエム-クワイン・テーゼ Duhem-Quinethesis」の名をもって呼ばれている.

しかし,論理法則の改訂というような大きな改訂は,
体系全体をできるだけ乱すまいというわれわれの自然な傾向(our natural tendency to disturb the total system as little as possible)によって
あまり行われないのである.彼によると,
物理的対象と神々のあいだには程度(degree)の差があるだけで,両者は種類(kind)を異にするのではない
のである.

第2節 観察の理論負荷性

(1)観察の理論負荷性

論理実証主義的科学観では,検証および反証の手続きが,仮説を提起する理論命題(およびそこから演繹されるテスト命題)と感覚的経験を叙述する観察命題との突き合わせによって成立するものであった.この際,理論命題と観察命題とは相互に独立でなければならない.

さもなければ,複数の理論的仮説が競合している場合に,観察命題がそれらの正否を決めることができなくなるからだ.だが,果たしていかなる理論的仮説からも独立であるような「観察」や「事実」があるだろうか.

このような疑問をもったのがハンソン(Norwood Russel Hanson,1924-1967)であった.ハンソンは,その著『科学的発見のパターン』(Patterns of Discovery,1958)の中で,
太陽を見ることは太陽の網膜上の像を見ることとは違う.…見ることはひとつの経験である.…生理学者は,経験と物理的状態とを必ずしも区別してこなかった.しかし見るのは人間であって,人間の目が見るわけではない.カメラも,眼球もそれだけでは盲目である.…見ることは,単に眼球を向ける以上のものである
と主張する.与えられた「感覚与件 sense data」は同一であっても,何を見ているかは観察者によって異なるのである.たとえば,熟練した物理学者は,ある実験器具をX線管として見るが,素人は,ただのガラス管と金属でできた器具しか見ない.

それゆえハンソンは,
《見ること》は,“理論負荷的な(theory-ladenness)”試みなのだ,といういい方にひとつの意味が出てくる.x についての観察は,x について予めもっている知識によって形成される.…私は,《見る》(seeing)ことと,《…として見る》(seeing as …)こととを同一視しようとは思わない.X線管を見ることはガラスと金属でできた対象物をX線管として見ることと同じではない
と主張する.そして,
絵とか写真と,文を使っての命題とは,論理的に形が違う.…絵はわれわれの視覚意識を支配する.しかし,科学的知識はもともと言語的なものである.見るということは,絵と言葉との複合体である.…絵と言語との間のギャップは,《…であることを見る》の論理的機能に存する.なぜなら,視覚はもともと絵画的なものだし,知識は元来言語的なものだからである.見ることにとっては,視覚も知識もどちらも欠くことはできない.…言語表現による言明のすべての要素が,いちいち絵の要素に対応するものではない.言語の使い方を間違って解釈している人しかそんなことは期待しないはずである.…この両者(絵と言語)は,観察が意味あるもの価値あるものであるためには,どうしてもつなぎ合わせなければならないものなのである
と言う.何かについての絵(たとえば熊の絵であるとか太陽の絵であるとか)は,何も主張しておらず,不正確ではあっても,偽ではない.つまり,
世界についての知識とは,単に,棒切れや石ころや色の広がりや騒音のモンタージュではなく,命題群の一体系
なのである.それゆえ,
物理学における模範的な観察者とは,正常な観察者なら誰でも見,かつ報告できるようなことを見,かつ報告する人間を指すのではない.見なれた対象物の中に,今まで誰も見たことのなかったようなことを見る人こそ,その名にふさわしいのである

(2) 絶えざる概念枠の闘い

さて,事実の観察とは何だろうか.ハンソンによると,
事実というのは,絵に描いたり,観察したりできる実体ではない.
だから,
同一の世界であっても,別なやり方で解釈されることもあるかもしれない….つまり,われわれは,世界を違ったやり方で語り,違ったやり方で考え,違ったやり方で知覚していた,ということもあり得るのだ.恐らく,事実は,事実を述べ伝える言語の論理形式によって,ある程度鋳型にはめられるだろうし,それを使って世界がわれわれの前に,あるはっきりとした形で凝固するようなある種の“鋳型”が,そういう形式から得られるだろう.…しかし(たとえばガリレオの加速度の表記について)ガリレオに先行する人々はこうした観念をもち得ただろうか
と言う.そして,
あなたが私を人間として語り,別の誰かが私を細胞の集まりとして語ったとしよう.そうすれば,あなた方の話の対象は物理的には同一かもしれないが,あなた方二人の考えは,はっきり異なっている.あなた方は,同一の言語系で話してはいないのである
だとか
ピカソとアインシュタインが,別々のやり方ではあるが同じひとつの落陽の情景について真なることを語っているからといって,ピカソの用いる言語系をアインシュタインの言語系に還元しないのと同様である
という言い方で,ハンソンは,量子力学と古典物理学の間にある,概念の相違について論じる.ハンソンによると,
10-28センチメートルの物理学から1028光年の物理学までをつないでくれる論理的な階段などない.その間には少なくともひとつの鋭い裂け目がある
のである.そして彼は,
理解可能性こそ物理学のゴールである.…なぜなら自然哲学は,物質に関する哲学であり,次々と新たに観察される現象のひとつひとつを説明のあるパターンに組み入れるための絶えざる概念枠の闘いであるからである
と言う.

第3節 パラダイム論

(1) パラダイム

クーン(Thomas Samuel Kuhn,1922-96)は,ハンソンの考え方をより徹底して,「パラダイム paradigm」という概念をその著『科学革命の構造』(The Structure of Scientific Revolutions,1962初版/1970第2版/1996第3版)において提出する.

クーンによると,アリストテレスの『自然学』やニュートンの『プリンキピア』といった有名な古典は,ある一定の期間,後に続く研究者の世代に,その研究分野の正当な問題と方法を定める役割をしてきたが,それはこれらが本質的な次のふたつの性格をもっていたからだとする.すなわち,
彼らの業績は,それと競合する科学活動の様式から離れて,それを支持する集団を魅了するのに十分な新奇さをもっている.

それ(彼らの業績)は,再構成された専門家の集団が解決すべきあらゆる種類の問題を残すだけの十分な許容量がある.
のふたつである.そしてこれらふたつの業績をもつものをクーンは,「パラダイム」と呼ぶ.

クーンは,この言葉によって,法則,理論,応用,装置をも含めた実際の科学の規範となるものを示そうとする.そしてパラダイムを共有する科学者集団(scientific community)によって営まれる研究活動は「通常科学 normal science」と呼ばれ,それは
ある特定の科学者集団が,より進んだ研究のための基礎を与えてくれるものとして,一定の期間認めた過去のいくつかの科学的業績にしっかりと根差した研究
のことである.これにはパラダイムそのものの整備も含まれる.たとえば,『プリンキピア』以降のオイラーやラグランジュらによる解析化の作業や,「プランクの量子仮説」や「ボーアの対応原理」以降のディラックらによる量子力学の体系化の作業などもそれにあたるだろう.

(2) 反証例のない研究

さて,クーンによると,
反証例のない研究など存在はしない.
なぜなら,
通常科学を構成するものは,すべての問題が完全に解けてしまった,科学的研究の基礎を提供するパラダイムはないからこそ存在する.通常科学がパズルとみなすすべての問題は,他の観点からは,反証例とみなされ,それゆえ,危機の源とみなされる.…思うに,ふたつの選択肢しかない.すなわち,反証例に直面した科学理論などないか,すべての科学理論はいついかなる時も反証例に直面しているかである
からだ.そして
ある一定の期間に直面するすべてのパズルを解いた理論はかつてない.すでに到達された解答でさえ,しばしば完全ではない.それどころか,既存するデータ理論の適合性が不十分であり不完全であることによって,通常科学を特徴づけるパズルの多くは生じるのである.もしも,理論への適合にたいする失敗すべてが,理論の否定の根拠となるならば,すべての理論はいかなる時代においても否定されるべきである.他方,もし適合への重大な失敗のみが,理論を否定する根拠となるのなら,ポパー派は“反証確証性”や“虚偽性の度合”の基準を求めるべきであろう.そのような基準を求めるならば,彼らは,ほぼ確実に,さまざまな検証確証性理論の支持者の前に現れたのと同じ困難に直面するであろう
と言う.そもそも通常科学の発展は,パラダイムを反証するような実験・観測事実を理論に適合させていくことによりなされるのである.

(3) 科学の危機

そしてそのような,「変則性 anomaly」が,そのうちさまざまな理由で単なる通常科学の問題以上に見えるようになる.それが「危機 crisis」である.そして,新たなパラダイムが生まれるのである.ここでクーンは,トランプによる心理実験の例を挙げる.

ある被験者に,トランプのカードを少しだけ見せてそれを当てさせるという実験である.ただこの際,トランプの中に普通でないカード(anomalous cards),たとえば,スペードの赤の6とハートの黒の4といったもの,を混ぜておく.

すると,被験者は,普通のカード以外のものもあたかも普通のカードであるかのように,たとえば,ハートの黒の4にたいしては,スペードの4かハートの4といった返事を返す.ただし,そのような普通でないカードを多く見せていくと,被験者はやがてためらい,その異常性に気づきはじめる.

さらにそのような普通でないカードを見せる回数を増やすと,ついにあるときに至って,たいていの人はためらいなく正しく言い当てることができるようになる.これと同様なことが科学でも起きているのだとクーンは主張する.
科学においても,このトランプでの実験におけると同じで,革新は困難をともなってのみ出現するものである.つまり,予測されたものとは反するという抵抗によってのみ出現する.はじめは,ただ予測された通常の事実だけが,後に変則的な事実が観測されるような環境の下でさえも,経験される.しかしその変則的な事実がより多く観測されてることによって,何かがおかしいという認識をもたらし,その効果を以前にうまくいかなかった実験に関連づけるようになる.そのような変則的な事実の認識によって,はじめは変則的であったことが予測できるようになるまで,(その変則的な事実にたいして)概念的カテゴリーを適合させる(ようにパラダイムを変更していくような)時期がはじまる.この点において,ついに発見は完成するのである.わたしはすでに,このような過程がすべての基本的な科学の革新を必然的に伴なうことを強調しておいた.さて,ここでわたしは,その過程を認識することによって,われわれはついに,なぜ,研究を革新性へと導かず,はじめはそれを抑圧するような傾向のある通常科学が,それにもかかわらず,その革新性を生じさせる要因となるのかということを知ることができはじめるのだということを指摘したい
そしてある革命的な理論が現れるためには,既存のパラダイムにたいする実験や観測がただひとつあればいいというわけではなく,いろいろな側面からの変則的な事実が発見され,科学者たちの間にパラダイムに対する危機意識が生まれて後,はじめて生まれるのである.つまり,
ものの制作と同じく,科学でも,ツールを変えることは浪費であり,その必要に迫られるまで,それは見合わせられる.危機の意義は,ツールを変える時期が来たことを知らせる指標にある
だから,たとえば,コペルニクスの理論は,当時はまだプトレマイオスの体系より観測をうまく説明できるものではなかった.ただ,プトレマイオスの体系に綻びが見えはじめ,科学者たちの間に新理論の出現への期待があったのである.

そしてそういった対立したパラダイムが出現した際,どちらのパラダイムを選択するかは,
政治革命と同様,パラダイムの選択においても,そこには,関連する共同体の賛同より高い基準は何もない
のである.

(3) 共約不可能性

なぜなら,たとえば,新パラダイムは,旧パラダイムの用語,装置,概念などを多く用いるが,それらが互いにまったく同じであるということは稀である.ふたつのパラダイムの間に避け難い誤解が生じるのは,このような理由にもよる.

ニュートン力学では空間は均質で等方なユークリッド空間であったものが,相対性理論における空間は非ユークリッド的である.アインシュタインの宇宙に移行するには,空間,時間,物質,力などのようなすべての概念を変えてしまわねばならないのだ.
これらの例は,…最も基本的な,競合するパラダイム間の共約不可能性 incommensurabilityの側面を示している.…対立するパラダイムの信奉者たちは,互いに異なる世界で研究をしているのである.…異なる世界で研究をすると,科学者のふたつのグループは,それぞれ,同じ点から同じ方向を見ても,異なるものを見るのである
一方では空間は平板であるのに,他方では,曲がっているという具合に,同じものを同じように見ても,そのパラダイムが異なれば,違った風に見えてしまう.だから,パラダイムを変えるのはなんらかの厳密な証明を突きつけられたからではないのだ.

そして,
パラダイムからパラダイムへの忠誠の変換は改宗(conversion)の問題であって,それは強制されることによってなされる体験ではない.生涯に渡る抵抗,とりわけ創造的な研究を通常科学の古い伝統に委ねている人々によるものは科学的規範にたいする違反ではなく,科学的研究そのものの本質を指し示すものなのである.抵抗の源は旧パラダイムでも最終的にはすべての問題を解くことができる,自然をパラダイムの提供する鋳型に押し込むことができるはずだという確信なのである.
結局,科学者たちは,旧パラダイムの危機に直面し,新しいパラダイムの美的な部分であるとか,そのようなものによって,新しいパラダイムを支持するのであり,この新しいパラダイムによっていずれは多くの問題を解くことに成功するであろうというのは,信念でしかなく,そしてパラダイムを転向する決断を促すのは,ただこの種の信念によるのである.最後にクーンは,
この論文では,発展の過程は,原始的な始まりからの進化の過程であり,その連続する段階は,自然のより詳細により洗練された理解により特徴づけられている.しかしそれ(発展の過程)を何かへの進化の過程であらしめるものに関しては何もいわなかったし,いおうともしていない.…われわれはあまりにも科学を,自然によってすでに定められたあるゴールへつねに近づいていくものとして描かれるひとつの事業としてみなすことに慣れている.しかしそのようなゴールがある必要があるだろうか.科学の存在とその成功をある時点におけるその集団の知識の段階からの進化に基づいて説明できないだろうか.ある完全で客観的で真実の自然にたいする説明が存在すると考えることや科学的業績の判断はわれわれを究極のゴールへどれだけ連れていってくれたかの度合によると考えることが本当に(科学の発展とは何かを知ることの)助けになるだろうか
と言ってこの著作を結ぶ.つまり,科学は生物の進化のように何らかのゴールへ向かうような営みではないのである.

ちなみに,クーンの描く科学の歴史的過程をまとめると,
前パラダイム(複数のパラダイムが競合して支配的なパラダイムがない状態)→通常科学→危機→革命→通常科学→・・・
のようになる.

(4) 『科学革命の構造』(1962)の概略


第4節 クーン以降の科学論



(1) ラカトシュの研究プログラム

上のようなクーンの批判を受け,ポパーの反証主義を修正したものが,ラカトシュ(Imre Lakatos,1922-1974)の「科学的研究プログラム scientific research programme」説である.ラカトシュによると,「科学者は厚顔」であり,それゆえ,ポパーの反証主義は科学と非科学の境界設定の基準になっていないという.

しかし,では,クーンの言うように,科学革命は単なる非合理的変化であり,宗教的回心と同じなのかというと,そうではない,とも言う.

では,ラカトシュによる科学と非科学を分ける基準はなにか.それは,「新しい事実を予言できる」という点である.

ラカトシュは,重要な科学的業績を記述するための形態的単位は,個々の仮説ではなく,研究プログラムであると言う.それは「堅い核 hard core」とラカトシュが呼ぶ命題を中心とするプログラムである.たとえば,ニュートン力学では,3つの力学法則と万有引力の法則がその「堅い核」にあたる.この堅い核は,補助仮説のつくる「防御帯 protective belt」によって,どんなことがあっても反証から保護されることになる.そして,これらの研究プログラムはいずれも,強力な問題解決機構を持っているのだ.

ラカトシュによると,ニュートンの重力理論も,アインシュタインの相対論も,量子力学も,マルクス主義も,フロイト主義も,どれも研究プログラムである.

では,どうしたら,科学的,つまり前進的プログラムと,疑似科学的,つまり退行的プログラムを区別することができるのであろうか.<

科学的研究プログラムは,「どれもみな新しい事実を予言できる」のである.たとえば,ニュートンが『プリンキピア』を著した当時,彗星は,「神の怒りの現れ」とみなされていた.

ところが,ニュートンプログラムの中で研究していたハリーはある彗星の軌道の短い一部を観測したことを基礎に,それが72年ごとに戻ってくるはずであることを算出した.

このように,前進的プログラムは,理論が,それまでに知られていなかった新しい事実の発見をうながすのである.それに対し,退行的プログラムでは,理論は既知の事実と適合ためにのみつくりだされる.

たとえば,マルクス主義やフロイト主義は,これまでになんら新しい事実をうまく予言していない.たしかに,たとえばマルクス主義も予言はする.しかし,マルクス主義の,労働階級の絶対的貧困であるとか,最初の社会主義革命がもっとも産業の発達した社会で起こるであろうとかといった予言は,ことごとくうまくいかなった.さらに確かに,彼らはうまくいかなかった事実を防御帯によって説明しはした.だが,それらはつねに事実の後追いなのだ.

では,科学革命はどのように起こるのか.競合する2つの研究プログラムがある場合,そしてその一方が前進的で,ほかの一方が退行的であれば,科学者は前進的な方に結集する傾向があるとラカトシュは言うのである.

(2) ラウダンによるクーンとラカトシュの批判

ラウダン(Larry Laudan)は,科学の進歩を問題解決能力と関連付けて論ずる.そして,彼によると,科学的問題には経験的問題と概念的問題がある.

経験的問題とは,実験や観測事実に関連する問題で,概念的問題とは,それぞれの理論が暗黙に仮定している形而上学的な前提に関連する問題である.たとえば,プトレマイオスの体系が批判されたとき,その批判の中心は経験的問題の解決能力ではなく,離心円だとか周転円だとかという,機構である.これらは当時受け入れられていた「太陽を中心とする円」ではなかったため,問題とされた.

ラウダンによると,経験的問題よりもこの概念的問題のほうが重要になることが多いのであるが,いままでの科学に対するモデルはこれを重視してこなかったという.

そして,科学の進歩のモデルとは以下のようなものである.
1.解決済みの問題は,科学の進歩の基本単位であり,

2.科学の目的は解決済みの経験的問題の範囲を最大限に拡大し,その一方で変則的および概念的問題の範囲を最小限に縮めることである. 
さて,ラウダンは,クーンのパラダイム論やラカトシュの研究プログラム説を次のように批判する.
1.クーンのパラダイム論は,概念的問題の役割を軽視している.

2.クーンは,パラダイムとそれを構成する理論の関係を解決していない.つまり,パラダイムが理論に先行するのか,理論が形成されると,パラダイムが否応なく生まれてしまうのかさえ,はっきりしていない.

3.クーンは,パラダイムの中心的前提は批判を受けないものとしたために,パラダイムとデータの間に矯正的な関係が成立できなくなってしまっている.したがって,クーンのパラダイムがもつ不変性を,多くの大規模な理論群が時の経過とともに発展してきたという歴史的事実と折り合わせることが大変困難なのである.

4.クーンのパラダイムあるいは学問母体はつねに暗黙な形でしか語られず,決して十分に明確化されていない.結果的には科学の発展の中で起こった多くの理論的な論争を,彼がどのようにして説明できるのか理解しがたい.

5.パラダイムがこのように暗黙のものであって,その模範例を指し示すことによって確認することしかできないために,ふたりの科学者が同一の模範例を利用するときはつねに,ふたりとも,事実上クーンにとっては同一のパラダイムに関与することになってしまう.だが,たとえば,力学論者も現象論者もともに同一のエネルギー保存則を支持していたように,科学的な方法論や存在論について根本的に異な見解をもつふたりの科学者が同一の法則や模範例を利用するとことがあるという事実を解明できそうにないのである. 
ラカトシュの研究プログラム説に対しては,
1.クーンの場合と同じようにラカトシュの進歩の概念はまったく経験的なものである.

2.研究プログラムを構成する小規模の理論群の内部にラカトシュが許容する変化の種類は,極度に制限されている.本質的に,研究プログラム内部の理論とその後継理論との間の関係として,ラカトシュは新たな前提の追加か先行理論の中の用語の意味上の再解釈しか許さない.この考え方では,ふたつの理論はそのうち一方が他方を含意する場合にだけ,同一の研究プログラムに属することがある,ということになる.しかし,大多数の事例において,大規模な理論の内部にある特定の理論の継起は,前提の追加ばかりでなく前提の排除を含むことがあり,後継理論が先行理論を含意するようなことはめったにない.

3.進歩を測るラカトシュの尺度はことごとく,研究プログラムを構成する一連の理論の個々の経験的内容を比較することを必要としている.しかし,科学理論の内容を計量しようとする試みは非常に問題をはらんであり,ラカトシュやその追随者は,ラカトシュの進歩の定義が厳密に当てはまることを示しうるいかなる歴史的事例も確認することができないできたのである.

4.ラカトシュの理論では,ある研究プログラムがもうひとつの研究プログラムとりも進歩的であったとしても,どちらを優先すべきか,あるいは受容すべきかということがそこから何も導き出せない.

5.変則例の累積が研究プログラムの評価と関係しないという主張は,科学歴史と明らかに矛盾する.

6.ラカトシュの研究プログラムは,クーンのパラダイムと同じく,その堅い核という構造において固定的であり,いかなる基本的な変更も許さない. 
というような問題点を指摘する.

(3)ラウダンの研究伝統

そして,上のような問題点の提起とともに,彼は,「研究伝統 research tradition」という概念を提案する.それは以下のような特徴をもつ.
1.あらゆる研究伝統は,それを例証したり部分的に構成したりする固有の理論を多くもっており,それらの理論の一部は同じ時期にともに存在し,ほかのものは先行する理論を時とともに継承していったものである.

2.どんな研究伝統でも,その研究伝統を全体として特徴づけ,ほかの研究伝統から区別する,なんらかの形而上学的な方法論的な内容へのかかわりをもっている.

3.おのおのの研究伝統は(特定の理論とは違って)多数の異なる,細部にわたった(そして互いに矛盾することが多々ある)定式化を受け,一般的にはかなりの期間にわたる長い歴史を有している.(それとは対照に理論は短命であることが多い.) 
簡潔に言うと,研究伝統とは,「こうしなさい」「こうしてはならない」といったひとそろいの存在論的,方法論的命令なのである.つまり,健全な研究伝統は,いかなるものでも,問題解決能力を改善するためにどのように理論を修正したり変更したりできるのかに関する重要な指針を含んでいるのである.

そして,研究伝統そのものは,確証も反証もできず,「うまくいっている研究伝統」とは,それを構成する理論の媒介によって,常時その範囲を拡大している経験的,概念的問題に対して十分な解決を与えてくれるような伝統である.

研究伝統には,ほかの要素よりもその伝統の中で主流を占め,揺るぎのない確実になっていて,それを捨て去ることはその研究伝統から逸脱することであるとみなされるような要素があるが,この種の排除できない要素群は,時とともに変化する,とラウダンは主張し,これがラカトシュと異なる部分なのである.

ラウダンによると,異なる理論や研究伝統が競合しているとき,どれを選択するかを決める基準は「もっとも高い問題解決の妥当性をもつ理論(または研究伝統)を選びなさい」というものである.

こうして,ラウダンは,合理的であるが,理論の真実性や真理接近度についてまったく仮定しないような進歩の理論を提唱した,と主張するのである.

ただし,このようなアプローチはいかにも道具主義的に見えるが,科学理論がわれわれの知る限り真であることの可能性を排除するようなものは存在していないし,科学知識が時とともに真理にだんだんと接近していく可能性も排除せず,それゆえ,科学的営為の豊穣で「実在的な」解釈をしめだしてしまうようなものは含まれていない,とラウダンは言うのである.

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