ふくざわゆきち | 福澤諭吉

学問のすすめ 16편, 17편

이윤진이카루스 2015. 9. 14. 21:01

学問のすすめ 十六編

  手近く独立を守る事

 不覊独立の語は近来世間の話にも聞くところなれども、世の中の話には随分間違もあるものゆえ、銘々にてよくその趣意を弁えざるべからず。

 独立に二様の別あり、一は有形なり、一は無形なり。なお手近く言えば品物につきての独立と、精神につきての独立と、二様に区別あるなり。

 品物につきての独立とは、世間の人が銘々に身代を持ち銘々に家業を勤めて他人の世話厄介にならぬよう、一身一家内の始末をすることにて、一口に申せば人に物を貰わぬという義なり。 有形の独立は右の如く目にも見えて弁じ易けれども、無形の精神の独立に至ってはその意味深くその関係広くして、独立の義に縁なきように思わるる事にもこの趣意を存して、これを誤るもの甚だ多し。細事ながら左にその一箇条を撮ってこれを述べん。

「一杯、人、酒を呑み、三杯、酒、人を呑む」という諺あり。今この諺を解けば、「酒を好むの慾をもって人の本心を制し、本心をして独立を得せしめず」という義なり。今日世の人々の行状を見るに、本心を制するものは酒のみならず、千状万態の事物ありて本心の独立を妨ぐること甚だ多し。この着物に不似合なりとて、かの羽織を作り、この衣裳に不相当なりとて、かの煙草入を買い、衣服既に備われば屋宅の狭きも不自由となり、屋宅の普請初めて落成すれば宴席を開かざるもまた不都合なり、鰻飯は西洋料理の媒妁となり、西洋料理は金の時計の手引となり、此より彼に移り、一より十に進み、一進また一進、段々限りあることなし。この趣きを見れば一家の内には主人なきが如く、一身の内には精神なきが如く、物よく人をして物を求めしめ、主人は品物の支配を受けてこれに奴隷使せらるるものと言うべし。

 なおこれより甚だしきものあり。前の例は品物の支配を受くる者なりと雖ども、その品物は自家の物なれば、一身一家の内にて奴隷の堺界に居るまでのことなれども、爰にまた他人の物に使役せらるるの例あり。かの人がこの洋服を作りたるゆえ我もこれを作ると言い、隣に二階の家を建てたるがゆえに我は三階を建つると言い、朋友の品物は我買物の見本となり、同僚の噂咄は我注文書の腹稿となり、色の黒き大の男が節くれ立ったるその指に金の指輪は些と不似合と自分も心に知りながら、これも西洋人の風なりとて無理に了簡を取直して銭を奮発し、極暑の晩景浴後には浴衣に団扇と思えば、西洋人の真似なれば我慢を張って筒袖に汗を流し、只管他人の好尚に同じからんことを心配するのみ。他人の好尚に同じうするはなお且つ許すべし、その笑うべきの極度に至っては他人の物を誤り認め、隣の細君が御召縮緬に純金の簪をと聞きて大いに心を悩まし、急に我もと注文して後によくよく吟味すれば、豈計らんや、隣家の品は綿縮緬に鍍金なりしとぞ。かくの如きは則ち我本心を支配するものは自分の物に非ずまた他人の物にも非ず、煙の如き夢中の妄想に制せられて、一身一家の世帯は妄想の往来に任ずるものと言うべし。精神独立の有様とは多少の距離あるべし。その距離の遠近は銘々にて測量すべきものなり。

 かかる夢中の世渡りに心を労し身を役し、一年千円の歳入も一月百円の月給も遣い果してその跡を見ず、不幸にして家産歳入の路を失うか、または月給の縁に離るることあれば、気抜の如く、間抜の如く、家に残るものは無用の雑物、身に残るものは奢侈の習慣のみ、憐れと言うも尚おろかならずや。産を立つるは一身の独立を求むるの基なりとて心身を労しながら、その家産を処置するの際に、却って家産のために制せられて独立の精神を失い尽すとは、正にこれを求むるの術をもってこれを失うものなり。余輩敢えて守銭奴の行状を称誉するに非ざれども、ただ銭を用いるの法を工夫し、銭を制して銭に制せられず、毫も精神の独立を害すること勿らんを欲するのみ。

 

  心事と働きと相当すべきの論

 

 議論と実業と両ながらその宜しきを得ざるべからずとのことは普く人の言うところなれども、この言うところなるものもまたただ議論となるのみにして、これを実地に行う者甚だ少なし。そもそも議論とは心に思うところを言に発し書に記すものなり。或いは未だ言と書に発せざれば、これをその人の心事といいまたはその人の志という。故に議論は外物に縁なきものと言うも可なり。必竟内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。実業とは心に思うところを外に顕わし、外物に接して処置を施すことなり。故に実業には必ず制限なきを得ず、外物に制せられて自由なるを得ざるものなり。古人がこの両様を区別するには、或いは言と行といい、或いは志と功といえり。また今日俗間にて言うところの説と働きなるものも即ちこれなり。

 言行齟齬するとは議論に言うところと実地に行うところと一様ならずと言うことなり。功に食ましめて志に食ましめずとは、実地の仕事次第に由りてこそ物をも与うべけれ、その心に何と思うとも形もなき人の心事をば賞すべからずとの義なり。また俗間に、某の説は兎も角も元来働きのなき人物なりとてこれを軽蔑することあり。何れも議論と実業と相当せざるを咎めたるものならん。

 さればこの議論と実業とは、寸分も相齟齬せざるよう正しく平均せざるべからざるものなり。今初学の人の了解に便ならしめんがため、人の心事と働きという二語を用いて、その互いに相助けて平均をなしもって人間の益を致す所以と、この平均を失うよりして生ずるところの弊害を論ずること左の如し。

 第一 人の働きには大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽くも、蒸気船を運用するも、鍬を執りて農業するも、筆を揮って著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽の仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著者の業に従事するが如きは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然り而してそのこれを弁別せしむるものは何ぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物という。故に云く、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。

 第二 人の働きはその難易に拘わらずして用をなすの大なるものと小なるものとあり。囲碁商議等の技芸も易き事に非ず、これらの技芸を研究して工風を運らすの難きは、天文、地理、器械、数学等の諸件に異ならずと雖ども、その用をなすの大小に至っては固より同日の論に非ず。今この有用無用を明察して有用の法に就かしむるものは、即ち心事の明らかなる人物なり。故に云く、心事明らかならざれば人の働きをして徒に労して功なからしむることあり。

 第三 人の働きには規則なかるべからず、その働きをなすに場所と時節とを察せざるべからず。譬えば道徳の説法は難有ものなれども、宴楽の最中に突然とこれを唱うれば徒に人の嘲りを取るに足るのみ。書生の激論も時には面白からざるに非ずと雖ども、親戚児女子団坐の席にこれを聞けば発狂人と言わざるを得ず。この場所柄と時節柄とを弁別して規則あらしむるは即ち心事の明らかなるものなり。人の働きのみ活溌にして明智なきは、蒸気に機関なきが如く、船に楫なきが如し。啻に益をなさざるのみならず却って害を致すこと多し。

 第四 前の条々は人に働きありて心事の不行届なる弊害なれども、今これに反して心事のみ高尚遠大にして事実の働きなきもまた甚だ不都合なるものなり。心事高大にして働きに乏しき者は常に不平を抱かざるを得ず。世間の有様を通覧して仕事を求むるに当り、己が手に叶う事は悉皆己が心事より以下の事なればこれに従事するを好まず、去迚己が心事を逞しうせんとするには実の働きに乏しくして事に当るべからず、是においてかその罪を己に責めずして他を咎め、或いは時に遇わずといい或いは天命至らずといい、あたかも天地の間になすべき仕事なきものの如くに思い込み、ただ退きて、私に煩悶するのみ。口に怨言を発し面に不平を顕わし、身外皆敵の如く天下皆不深切なるが如し。その心中を形容すれば、嘗て人に金を貸さずして返金の遅きを怨む者と言うも可なり。

 儒者は己を知る者なきを憂い、書生は己を助くる者なきを憂い、役人は立身の手掛りなきを憂い、町人は商売の繁昌せざるを憂い、廃藩の士族は活計の路なきを憂い、非役の華族は己を敬する者なきを憂い、朝々暮々憂いありて楽しみあることなし。今日世間にこの類の不平甚だ多きを覚う。その証を得んと欲せば、日常交際の間によく人の顔色を窺い見て知るべし。言語容貌活溌にして胸中の快楽外に溢るるが如き者は、世上にその人甚だ稀なるべし。余輩の実験にては、常に人の憂うるを見て悦ぶを見ず、その面を借用したらば不幸の見舞などに至極宜しからんと思わるるものこそ多けれ、気の毒千万なる有様ならずや。もしこれらの人をしておのおのその働きの分限に従って勤むることあらしめなば、自ずから活溌為事の楽地を得て次第に事業の進歩をなし、遂に心事と働きと相平均するの場合にも至るべき筈なるに、嘗て爰に心附かず、働きの位は一に居り、心事の位は十に止まり、一に居て十を望み、十に居て百を求め、これを求めて得ずして徒らに憂いを買う者と言うべし。これを譬えば石の地蔵に飛脚の魂を入れたるが如く、中風の患者に神経の穎敏を増したるが如し。その不平不如意は推して知るべきなり。

 また心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すれば固より及ぶべきに非ざれども、己が心事をもって他の働きを見ればこれに満足すべからずして自ら私に軽蔑の念なきを得ず。妄に人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免かるべからず。互いに相不平を抱き互に相蔑視して、遂には変人奇物の嘲りを取り、世間に歯すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るに、或いは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、或いは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、或いは人に多きを求めて人に厭わるる者あり、或いは人を誹謗して人に厭わるる者あり。何れも皆、人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、遂に自ら人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。試みに告ぐ、後進の少年輩、人の仕事を見て心に不満足なりと思わば、自らその事を執ってこれを試むべし、人の商売を見て拙なりと思わば、自らその商売に当ってこれを試むべし。隣家の世帯を見て不取締と思わば、自らこれを自家に試むべし。人の著書を評せんと欲せば、自ら筆を執って書を著わすべし。学者を評せんと欲せば学者たるべし。医者を評せんと欲せば医者たるべし。至大の事より至細の事に至るまで、他人の働きに喙を入れんと欲せば、試みに身をその働きの地位に置きて躬自から顧みざるべからず。或いは職業の全く相異なるものあらば、よくその働きの難易軽重を計り、異類の仕事にてもただ働きと働きとをもって自他の比較をなさば大なる謬なかるべし。

 (明治九年八月出版)

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学問のすすめ 十七編

 人望論

 十人の見るところ,百人の指すところにて,何某は慥なる人なり,頼母しき人物なり,この始末を託しても必ず間違なからん,この仕事を任しても必ず成就することならんと,預めその人柄を当にして世上一般より望みを掛けらるる人を称して,人望を得る人物という。凡そ人間世界に人望の大小軽重はあれども,荀にも人に当てにせらるる人に非ざれば何の用にも立たぬものなり。その小なるを言えば,十銭の銭を持たせて町使に遣る者も,十銭丈けの人望ありて十銭丈けは人に当てにせらるる人物なり。十銭より一円,一円より千円万円,ついには幾百万円の元金を集めたる銀行の支配人となり,または一府一省の長官となりて,啻に金銭を預かるのみならず,人民の便不便を預かり,その貧富を預かり,その栄辱をも預かることあるものなれば,かかる大任にあたる者は必ず平生より人望を得て人に当てにせらるる人に非ざれば,迚も事をなすことは叶い難し。

 人を当てにせざるはその人を疑えばなり。人を疑えば際限もあらず。目付に目を付くるがために目付を置き,監察を監察するがために監察を命じ,結局何の取締にもならずして徒に人の気配を損じたるの奇談は,古今にその例甚だ多し。また三井大丸の雛は正札にて大丈夫なりとて品柄をも改めずしてこれを買い,馬琴の作なれば必ず面白しとて表題ばかりを聞きて注文する者多し。故に三井大丸の店は益々繁昌し,馬琴の著書は益々流行して,商売にも著述にも甚だ都合よきことあり。人望を得るの大切なることもって知るべし。

 「十六貫目の力量ある者へ十六貫目の物を負わせ,千円の身代ある者へ千円の金を貸すべし」というときは,人望も栄名も無用に属し,ただ実物を当てにして事をなすべきようなれども,世の中の人事は斯く簡易にして淡泊なるものに非ず,十貫目の力量なき者も坐して数百万貫の物を動かすべし,千円の身代なき者も数十万の金を運用すべし。試みに今富豪の聞えある商人の帳場に飛び込み,一時に諸帳面の精算をなさば,出入差引して幾百幾千円の不足する者あらん。この不足は即ち身代の零点より以下の不足なるゆえ,無一銭の乞食に劣ること幾百幾千なれども,世人のこれを視ること乞食の如くせざるは何ぞや。他なし,この商人に人望あればなり。されば人望は固より力量に由って得べきものに非ず,また身代の富豪なるのみに由って得べきものにも非ず,ただその人の活溌なる才知の働きと正直なる本心の徳義とをもって次第に積んで得べきものなり。

 人望は智徳に属すること当然の道理にして,必ず然るべき筈なれども,天下古今の事実において或いはその反対を見ること少なからず。藪医者が玄関を広大にして盛んに流行し,売薬師が看版(板)を金にして大いに売り弘め,山師の帳場に空虚なる金箱を据え,学者の書斎に読めぬ原書を飾り,人力車中に新聞紙を読みて宅に帰って午睡を催す者あり,日曜日の午後に礼拝堂になきて月曜日の朝に夫婦喧嘩する者あり,滔々たる天下,真偽雑駁,善悪混同,孰を是とし孰を非とすべきや,甚だしきに至っては人望の属するを見て本人の不智不徳を卜すべき者なきに非ず,ここにおいてか,やや見識高き士君子は世間に栄誉を求めず,或いはこれを浮世の虚名なりとして殊更に避くる者あるもまた無理からぬことなり。士君子の心掛けにおいて称すべき一箇条と言うべし。

 然りと雖ども,凡そ世の事物につきその極度の一方のみを論ずれば弊害あらざるものなし。かの士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称すべきに似たれども,そのこれを求むると求めざるとを決するの前に,先ず栄誉の性質を詳らかにせざるべからず。その栄誉なるもの果たして虚名の極度にして,医者の玄関,売薬の看版の如くならば,固よりこれを遠ざけこれを避くべきは論を侯たずと雖ども,また一方より見れば社会の人事は悉皆虚をもって成るものに非ず。人の智徳はなお花樹の如く,その栄誉人望はなお花の如し。花樹を培養して花を開くに,何ぞ殊更にこれを避くることをなさんや。栄誉の性質を詳らかにせずして概してこれを投棄せんとするは,花を払って樹木の所在を隠すが如し。これを隠してその効用を増すに非ず,あたかも活物を死用するに異ならず,世間の為を謀って不便利の大なるものと言うべし。

 然らば即ち栄誉人望はこれを望むべきものか。云く,然り,勉めてこれを求めざるべからず,ただこれを求むるに当って分に適すること緊要なるのみ。心身の働きをもって世間の人望を収むるは,コメを計って人に渡すが如し。升取りの巧みなる者は一斗のコメを一斗三合に計り出し,その拙なる者は九升七合に計り込むことあり。余輩のいわゆる分に適するとは,計り出しもなくまた計り込みもなく,正に一斗の米を一斗に計ることなり。升取りには巧拙あるも,これに由って生ずるところの差は僅に内外の二,三分なれども,才徳の働きを升取りするに至ってはその差決して三分に止まるべからず,巧みなるは正味の二倍三倍にも計り出し,拙なるは半分にも計り込む者あらん。この計り出しの法外なる者は世間に法外なる妨げをなして固より悪むべきなれども,姑くこれを擱き,今ここには正味の働きを計り込む人の為に少しく論ずるところあらんとす。

 孔子の云く,「君子は人の己を知らざるを憂いず,人を知らざるを憂う」と。この教えは当時世間に流行する弊害を矯めんとして述べたる言ならんと雖ども,後生無気無力の腐儒はこの言葉を真ともに受けて,引込み思案にのみ心を凝らし,その悪弊漸く増長して遂には奇物変人,無言無情,笑うことも知らず泣くことも知らざる木の切れのごとき男を崇めて奥ゆかしき先生なぞと称するに至りしは,人間世界の一奇談なり。今この陋しき習俗を脱して活溌なる境界に入り,多くの事物に接し博く世人に交わり,人をも知り己をも知られ,一身に持前正味の働きを逞しうして自分の為にし,兼ねて世の為にせんとするには,

 第一 言語を学ばざるべからず。文字に記して意を通ずるは固より有力なるものにして,文通または著述等の心掛けも等閑にすべからざるは無論なれども,近く人に接して直ちに我思うところを人に知らしむるには,言葉の外に有力なるものなし。故に言葉は成る丈け流暢にして活溌ならざるべからず。近来世上に演説会の設けあり,この演説にて有益なる事柄を聞くは固より利益なれども,この外に言葉の流暢活溌を得るの利益は,演説者も聴聞者も共にするところなり。

 また今日不弁なる人の言を聞くに,その言葉の数甚だ少なくして如何にも不自由なるが如し,譬えば学校の教師が訳書の講義なぞをするときに,円き水晶の玉とあれば,分かり切ったる事と思うゆえか,少しも弁解をなさず,ただむつかしき顔をして子どもを睨みつけ,円き水晶の玉というばかりなれども,もしこの教師が言葉に富みて言い舞しのよき人物にして,円とは角の取れて団子のようなということ,水晶とは山から掘り出す硝子のような物で甲州なずから幾らもでます、この水晶で拵えたごろごろする団子のような玉と説き聞かせたらば,婦人にも子供にも腹の底からよく分かるべき筈なるに、用いて不自由な言葉を用いずして不自由するは,必竟演説を学ばざるの罪なり。

 或いは書生が「日本の言語は不便利にして文章も演説も出来ぬゆえ,英語を使い英文を用いる」なぞと,取るにも足らぬ馬鹿を言う者あり。按ずるにこの書生は日本に生れて未だ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉は、その国に事物の繁多なる割合に従って次第に増加し,毫も不自由なき筈のものなり。何はさておき、今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。

 第二 顔色容貌を快くして、一見,直ちに人に厭わるること無きを要す。肩を聳(そび)やかして諂(へつら)い笑い、巧言令色,太鼓持の媚を献ずるが如くするは固より厭うべしと雖ども,苦虫を噛潰して熊の胆を啜りたるが如く,黙して誉められて笑って損をしたがるが如く、終歳胸痛を患うるが如く、生涯父母の喪に居るが如くなるもまた甚だ厭うべし。顔色容貌の活溌愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際において最も大切なるものなり。人の顔色は,なお家の門戸の如し,博く人に交わりて客来を自由にせんには、先ず門戸を開けて入口を酒掃し、兎に角に寄り附きを好くすることこそ緊要なれ。

 然るに今、人に交わらんとして顔色を和するに意を用いざるのみならず、却って偽君子を学んで殊更に渋き風を示すは、戸の入口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し。誰かこれに近づく者あらんや。世界中にフランスを文明の源と言い智識分布の中心と称するも、その由縁を尋ぬれば、国民の挙動常に活溌気軽にして言語容貌ともに親しむべく近づくべきの気風あるをもって原因の一箇条となせり。

 人あるいは言わん、「言語・容貌は人々の天性に存するものなれば勉めてこれを如何ともすべからず、これを論ずるも詰まるところは無益に属するのみ」と。この言或いは是なるが如くなれども、人智発育の理を考えなばその当らざるを知るべし。凡そ人心の働き、これを進めて進まざるものあることなし。その趣は人身の手足を役してその筋を強くするに異ならず。されば言語容貌も人の心身の働きなれば、これを放却して上達するの理あるべからず。然るに古来日本国中の習慣において、この大切なる心身の働きを捨てて顧みる者なきは大なる心得違いに非ずや。故に余輩の望むところは、改めて今日より言語容貌の学問と言うには非ざれども、この働きを人の徳義の一箇条として等閑にすることなく、常に心に留めて忘れざらんことを欲するのみ。

  或人また云く、容貌を快くするとは表を飾ることなり。表を飾るをもって人間交際の要となすときは、啻に容貌顔色のみならず、衣服も飾り飲食も飾り、気に叶わぬ客をも招待して、身分不相応の馳走するなぞ、全く虚飾をもって人に交わるの弊あらんと。この言もまた一理あるが如くなれども、虚飾は交際の弊にしてその本色に非ず。事物の弊害は動もすればその本色に反対するもの多し。過ぎたるはなお及ばざるが如しとは、即ち弊害と本色と相反対するを評したる語なり。譬えば食物の要は身体を養うに在りと雖ども、これを過食すれば却ってその栄養を害するが如し。栄養は食物の本色なり、過食はその弊害なり。弊害と本色を背反対するものというべし。

 されば人間交際の要も和して真率なるに在るのみ、その虚飾に流るるものは決して交際の本色に非ず。凡そ世の中に夫婦親子より親しき者あらず、これを天下の至親と称す。而してこの至親の間を支配するは何物なるや、ただ和して真率なる丹心あるのみ。表面の虚飾を却けまたこれを掃い、これを却掃し尽して初めて至親の存するものを見るべし。然らば即ち交際の親睦は真率の中に存して虚飾と並び立つべからざるものなり。

 余輩固(もと)より今の人民に向かって、その交際、親子夫婦の如くならんことを望むに非ざれども、ただその赴くべきの方向を示すのみ。今日俗間の言に人を評して、あの人は気軽な人といい、気のおけぬ人といい、遠慮なきひとといい、さっぱりした人といい、男らしき人といい、或いは多言なれども程のよき人といい、騒々しけれども悪からぬ人といい、無言なれども親切らしき人といい、可恐ようなれども浅さりした人というが如きは、あたかも家族交際の有様を表し出して、和して真率なるを称したるものなり。

 第三 道同じからざれば相与に謀らずと。世人またこの教えを誤解して、学者は学者、医者は医者、少しくその業を異にすれば相近づくことなし、同塾同窓の懇意にても塾を巣立ちしたる後に、一人が町人となり一人が役人となれば千里隔絶、呉越の観をなす者なきに非ず。甚だしき無分別なり。人に交わらんとするには啻に旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた新友を求めざるべからず。人類相接せざれば互いにその意を尽くすこと能わず、意を尽くすこと能わざればその人物を知るに由なし。試みに思え、世間の士君子、一旦の偶然に人に遭うて生涯の親友たる者あるに非ずや。十人に遭うて一人の偶然に当たらば、二十人に接して二人の偶然を得べし。人を知り人に知らるるの始源は多くこの辺りに在りて存するものなり。人望栄名なぞの話は姑く擱き、今日世間に知己朋友の多きは差向きの便利に非ずや。先年宮の渡しに同船したる人を、今日銀座の往来に見掛けて双方図らず便利を得ることあり。今年出入の八百屋が来年奥州街道の旅籠屋にて腹痛の介抱してくれることもあらん。

 人類多しと雖ども鬼にも非ず蛇にも非ず、殊更に我を害せんとする悪敵はなきものなり。恐れ憚るところなく、心事を丸出にして颯々と応接すべし。故に交わりを広くするの要はこの心事を成る丈け沢山にして、多芸多能一色に偏せず、様々の方向に由って人に接するに在り。或いは学問をもって接し、或いは商売に由って交わり、或いは書画の友あり、或いは碁将棋の相手あり、凡そ遊冶放蕩の悪事に非ざるより以上の事なれば、友を会するの方便たらざるものなし。或いは極めて芸能なき者ならば共に会食するもよし、茶を飲むもよし、なお下がりて筋骨の丈夫なる者は腕押し、枕引き、足角力も一席の興として交際の一助たるべし。腕押しと学問とは道同じからずして相与に謀るべからざるようなれども、世界の土地は広く人間の交際は繁多にして、三、五尾の鮒が井中に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌いするなかれ。

        (明治九年十一月出版)

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