ふくざわゆきち | 福澤諭吉

文明論之概略 巻之五 第九章 日本文明の由来

이윤진이카루스 2011. 4. 9. 07:16

文明論之概略 巻之五

第九章 日本文明の由来

 前章に云える如く,西洋の文明は,その人間の交際に諸説の並立して漸く相近づき,遂に合して一と為り,以てその間に自由を存したるものなり。之を譬えば金銀銅鉄等の如き諸元素を鎔解して一塊と為し,金に非ず,銀に非ず,又銅鉄に非ず,一種の混和物を生じて自からその平均を成し,互に相維持して全体を保つものゝ如し。顧て我日本の有様を察すれば大に之に異なり。日本の文明もその人間の交際に於て固より元素なかるべからず。立君なり貴族なり,宗教なり人民なり,皆古より我国に存して各一種族を為し,各自家の説なきに非ざれども,その諸説並立するを得ず,相近づくを得ず,合して一と為るを得ず。之を譬えば金銀銅鉄の諸品はあれども,之を鎔解して一塊と為すこと能わざるが如し。若し或は合して一と為りたるが如きものありと雖ども,その実は諸品の割合を平均して混じたるに非ず。必ず片重片軽,一を以て他を滅し,他をしてその本色を顕わすを得せしめざるものなり。猶かの金銀の貨幣を造るに十分一の銅を混合するも,銅はその本色を顕わすを得ずして,その造り得たるものは純然たる金銀貨幣なるが如し。之を事物の偏重と名く。抑も文明の自由は他の自由を費して買うべきものに非ず。諸の権義を許し諸の利益を得せしめ,諸の意見を容れ諸の力を逞うせしめ,彼我平均の間に存するのみ。或は自由は不自由の際に生ずと云うも可なり。故に人間の交際に於て,或は政府,或は人民,或は学者,或は官吏,その地位の如何を問わず,唯権力を有する者あらば,仮令い智力にても腕力にても,その力と名るものに就ては必ず制限なかるべからず。都て人類の有する権力は決して純精なるを得べからず。必ずその中に天然の悪弊を胚胎して,或は卑怯なるがために事を誤り,或は過激なるがために物を害すること,天下古今の実験に由て見るべし。之を偏重の禍と名く。有権者常に自から戒めざるべからず。我国の文明を西洋の文明に比較して,その趣の異なる所は特にこの権力の偏重に就て見るべし。

 日本にて権力の偏重なるは,洽ねくその人間交際の中に浸潤して至らざる所なし。本書第二章に,一国人民の気風と云えることあり。即ちこの権力の偏重も,かの気風の中の一箇条なり。今の学者,権力の事を論ずるには,唯政府と人民とのみを相対して,或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈を咎る者多しと雖ども,よく事実を詳にして細に吟味すれば,この偏重は交際の至大なるものより至小なるものに及び,大小を問わず公私に拘わらず,苟も爰に交際あればその権力偏重ならざるはなし。その趣を形容して云えば,日本国中に千百の天秤を掛け,その天秤大となく小となく,悉く皆一方に偏して平均を失うが如く,或は又三角四面の結晶物を砕て,千分と為し万分と為し遂に細粉と為すも,その一分子は尚三角四面の本色を失わず,又この砕粉を合して一小片と為し又合して一塊と為すも,その物は依然として参角四面の形を保つが如し。権力偏重の一般に洽ねくして事々物々微細緻密の極にまで通達する有様は斯の如しと雖ども,学者の特に之に注意せざるは何ぞや。唯政府と人民との間は交際の大にして公なるものにて著しく人の耳目に触るゝが故に,その議論も之を目的とするもの多きのみ。

 今実際に就て偏重の在る所を説かん。爰に男女の交際あれば男女権力の偏重あり,爰に親子の交際あれば親子権力の偏重あり,兄弟の交際にも是あり,長幼の交際にも是あり,家内を出でゝ世間を見るも亦然らざるはなし。師弟,主従,貧富貴賤,新参故参,本家末家,何れも皆その間に権力の偏重を存せり。尚一歩を進めて人間の稍や種族を成したる所のものに就て之を見れば,封建の時に大藩と小藩あり,寺に本山と末寺あり,宮に本社と末社あり,苟も人間の交際あれば必ずその権力に偏重あらざるはなし。或は又政府の中にても官吏の地位階級に従てこの偏重あること最も甚し。政府の吏人が平民に対して威を振う趣を見ればこそ権あるに似たれども,この吏人が政府中に在て上級の者に対するときは,その抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚甚しきものあり。譬えば地方の下役等が村の名主共を呼出して事を談ずるときはその傲慢厭うべきが如くなれども,この下役が長官に接する有様を見れば亦愍笑に堪えたり。名主が下役に[逢]うて無理に叱らるゝ模様は気の毒なれども村に帰て小前の者を無理に叱る有様を見れば亦悪むべし。

 甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ,強圧抑制の循環,窮極あることなし。亦奇観と云うべし。固より人間の貴賤貧富,智愚強弱の類は,その有様(コンヂ-ション)にて幾段も際限あるべからず。この段階を存するも交際に妨あるべからずと雖ども,この有様の異なるに従て兼て又その権義(ライト)をも異にするもの多し。之を権力の偏重と名るなり。

 今世間の事物を皮相すれば有権者は唯政府のみの如くなれども,よく政府の何物たるを吟味してその然る由縁を求めなば,稍や議論の密なるものに達すべし。元来政府は国人の集りて事を為す処なり。この場所に在る者を君主と名け官吏と名るのみ。而してこの君主官吏は生れながら当路の君主官吏に非ず。仮令い封建の時代に世位世官の風あるも,実際に事を執る者は多くは偶然に撰ばれたる人物なり。この人物,一旦政府の地位に登ればとて,忽ち平生の心事を改るの理なし。その或は政府に在て権を恣にすることあるは,即ち平生の本色を顕わしたるものゝみ。その証拠には封建の時代にても賤民を挙て政府の要路に用いたることなきに非ずと雖ども,その人物の所業を見れば決して奇なるものなし。唯従前の風に従て少しく事を巧にするより外ならず。その巧は即ち擅権の巧にて,民を愛して愚にするに非ざれば,之を威して退縮せしむるものなり。若しこの人物をして民間に在らしめなば,必ず民間に在てこの事を行うべし。村に在らば村にて行い,市に在らば市にて行い,到底我国民一般に免かるべからざるの流行病なれば,独りこの人に限て之を脱却することあるべからず。唯政府に在ればその事業盛大にしてよく世間の耳目に触るゝを以て,人の口吻にも掛ることなり。故に政府は独り擅権の源に非ず,擅権者を集会せしむるの府なり。擅権者に席を貸して平生の本色を顕わし盛に事を行わしむるに恰も適当したる場所なり。若し然らずして擅権の源は特に政府に在りとせば,全国の人民は唯在官の間のみこの流行病に感じて前後は果して無病なるか,不都合なりと云うべし。抑も権を恣にするは有権者の通弊なれば,既に政府に在て権を有すればその権のために自から眩惑して益これを弄ぶの弊もあらん,或は又政府一家の成行にて擅権に非ざれば事を行うべからざるの勢もあらんと雖ども,この一般の人民にして平生の教育習慣に絶てなき所のものを,唯政府の地位に当ればとて頓に之を心に得て事に施すの理は万々あるべからざるなり。

 右の議論に従えば,権を恣にしてその力の偏重なるは決して政府のみに非ず,之を全国人民の気風と云わざるを得ず。この気風は即ち西洋諸国と我日本とを区別するに著しき分界なれば,今爰にその源因を求めざるべからずと雖ども,その事甚だ難し。西人の著書に亜細亜洲に擅権の行わるゝ源因は,その気候温暖にして土地肥沃なるに由て人口多きに過ぎ,地理山海の険阻洪大なるに由て妄想恐怖の念甚しき等に在りとの説もあれども,この説を取て直に我日本の有様に施し,以て事の不審を断ずべきや,未だ知るべからず。仮令い之に由て不審を断ずるも,その源因は悉皆天然の事なれば人力を以て之を如何ともすべからず。故に余輩は唯事の成行を説て,擅権の行わるゝ次第を明にせんと欲するのみ。その次第既に明ならば亦これに応ずるの処置もあるべし。

 抑も我日本国も開闢の初に於ては,世界中の他の諸国の如く,若干の人民一群を成し,その一群の内より腕力最も強く智力最も逞しき者ありて之を支配するか,或は他の地方より来り之を征服してその酋長たりしことならん。歴史に拠れば神武天皇,西より師を起したりとあり。一群の人民を支配するは固より一人の力にて能すべきことに非ざれば,その酋長に附属して事を助る者なかるべからず。その人物は,或は酋長の親戚,或は朋友の内より取て,共に力を合せ,自から政府の体裁を成したることならん。既に政府の体裁を成せば,この政府に在る者は人民を治る者なり,人民はその治を被る者なり。是に於てか始て治者と被治者との区別を生じ,治者は上なり主なり又内なり,被治者は下なり客なり又外なり。上下主客内外の別,判然として見るべし。蓋しこの二者は日本の人間交際に於て最も著しき分界を為し,恰も我文明の二元素と云うべきものなり。往古より今日に至るまで交際の種族は少なからずと雖ども,結局その至る所はこの二元素に帰し,一も独立して自家の本分を保つものなし。(治者と被治者と相分る) 人を治るはその事固より易からず。故にこの治者の党に入る者は必ず腕力と智力と兼て又多少の富なかるべからず。既に身心の力あり,又これに富有を兼るときは,必ず人を制するの権を得べし。故に治者は必ず有権者ならざるを得ず。王室はこの有権者の上に立ち,その力を集めて以て国内を制し,戦て克たざるはなし,征して降さヾるはなし。且被治者なる人民も,王室の由来久しきの故を以て益これに服従し,神后の時代より[屡]外征の事もあり,国内に威福の行われて内顧の患なかりしこと推して知るべし。爾後人文漸く開け,養蚕造船の術,織縫耕作の器械,医儒仏法の書,その他文明の諸件は,或は朝鮮より伝え,或は自国にて発明し,人間生々の有様は次第に盛大に及ぶと雖ども,この文明の諸件を施行するの権は悉皆政府の一手に属し,人民は唯その指揮に従うのみ。加之全国の土地,人民の身体までも,王室の私有に非ざるはなし。この有様を見れば被治物は治者の奴隷に異ならず。後世に至るまでも御国,御田地,御百姓等の称あり。この御の字は政府を尊敬したる語にて,日本国中の田地も人民の身体も皆政府の私有品と云う義なり。仁徳天皇民家に炊煙の起るを見て朕既に富めりと云いしも,必竟愛人の本心より出て,民の富むは猶我富むが如しとの趣意にて,如何にも虚心平気なる仁君と称すべしと雖ども,天下を一家の如く視做して之を私有するの気象は窺い見るべし。この勢にて天下の権は悉く王室に帰し,その力,常に一方に偏して,以て王代の末に至れり。蓋し権力の偏重は前に云える如く至大より至細に至り,人間の交際を千万に分てば千万段の偏重あり,集めて百と為せば百段の偏重あり,今王室と人民との二段に分てば,偏重も亦この間に生じて,王室の一方に偏したるものなり。(国力王室に偏す) 源平の起るに及んで天下の権は武家に帰し,之に由て或は王室と権力の平均を為し,人間交際の勢一変すべきに似たれども,決して然らず。源平なり,王室なり,皆是れ治者中の部分にて,国権の武家に帰したるは治者中の此部分より彼部分に力を移したるのみ。治者と被治者との関係は依然として上下主客の勢を備え,毫も旧時に異なることなし。啻に異なることなきのみならず,曩に光仁天皇,宝亀年中天下に令を下だして兵と農とを分ち,百姓の富て武力ある者を撰て兵役に用い,その羸弱なる者をして農に就かしめたりとあり。この令の趣意に従えば,人民の富て強き者は武力を以て小弱を保護し,その貧にして弱き者は農を勉めて武人に給することなれば,貧弱は益貧弱に陷り,富強は益富強に進み,治者と被治者との分界益判然として,権力の偏重は益甚しからざるを得ず。

 諸書を案ずるに,頼朝が六十余州の総追捕使と為りて,毎国に守護を置き,荘園に地頭を補し,以て従前の国司荘司の権を殺ぎしより以来,諸国の健児の内にて筋目もあり人をも持つ者は守護地頭の職に任じ,以下の者は御家人と称して守護地頭の支配を受け,悉皆幕府の手の者と為りて,或は百日交代にて鎌倉に宿衛するの例もありと云う。北条の時代にも大抵同じ有様にて,国中処として武人あらざるはなし。承久の乱に泰時十八騎にて鎌倉を打立たるは五月二十二日のことなるが,同二十五日まで三日の間に東国の兵尽く集りて,都合十九万騎とあり。是れに由て考れば,諸国の武人なる者は平生より出陣の用意に忙わしく,固より農業を勉るの暇あるべからず,必ず他の小民の力に依て食いしこと明に知るべし。兵農の分界愈明に定りて,人口の増加するに従い武人の数も次第に増したることならん。頼朝の時には概ね関東伺候の武家を以て諸国の守護に配し,三,五年の交代なりしが,その後いつとなく譜代世禄の職と為り,北条亡びて足利の代に至ては,この守護なる者,互に相併呑し,或は興り或は廃し,或は土豪に逐われ或は家来に奪われ,漸く封建の勢を成したるなり。

 王代以来の有様を概して云えば,日本の武人,始は国内の処在に布散して一人一人の権を振い,以て王室の命に服したるもの,鎌倉の時代に至るまでに漸く合して幾個の小体を成し,始て大小名の称あり。足利の代に至りては又合して体の大なるものを成したれども,その体と体と合するを得ず。即ち応仁以後の乱世にて,武人の最も盛なる時なり。斯の如く,武人の世界には合離集散あり進退栄枯あれども,人民の世界には何等の運動あるを聞かず。唯農業を勉めて武人の世界に輸するのみ。故に人民の目を以て見れば,王室も武家も区別あるべからず。武人の世界に治乱興敗あるは,人民のためには恰も天気時候の変化あるに異ならず。唯黙してその成行を見るのみ。【(この部分二段組み)武家興て神政府の惑溺を一掃したるの利益は第二章三十五葉に論じたり】

 新井白石の説に,天下の大勢九変して武家の代と為り,武家の世又五変して徳川の代に及ぶと云い,その外諸家の説も大同小異なれども,この説は唯日本にて政権を執る人の新陳交代せし模様を見て幾変と云いしのみのことなり。都てこれまで日本に行わるゝ歴史は唯王室の系図を詮索するものか,或は君相有司の得失を論ずるものか,或は戦争勝敗の話を記して講釈師の軍談に類するものか,大抵是等の箇条より外ならず。稀に政府に関係せざるものあれば仏者の虚誕妄説のみ,亦見るに足らず。概して云えば日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ。学者の不注意にして国の一大欠典と云うべし。新井先生の読史余論なども即ちこの類の歴史にて,その書中に天下の勢変とあれども,実は天下の大勢の変じたるに非ず,天下の勢は早く既に王代の時に定まりて,治者と被治者との二元素に区別し,兵農の分るゝに及て益この分界を明にして,今日に至るまで一度びも変じたることなし。

 故に王代の末に藤原氏,権を専にし,或は上皇,政を聴くことあるも,唯王室内の事にて固より世の形勢に関係あるべからず。平家亡びて源氏起り,新に鎌倉に政府を開くも,北条が陪臣にて国命を執るも,足利が南朝に敵して賊と称せらるゝも,織田も豊臣も徳川も各日本国中を押領して之を制したれども,そのこれを制するに唯巧拙あるのみ。天下の形勢は依然として旧に異ならず。故に北条足利にて悦びしことは徳川も之を喜び,甲の憂いしことは乙も之を憂い,その喜憂に処するの法も甲乙に於て毫も異なることなし。譬えば北条足利の政府にて五穀豊熟人民柔順を喜ぶの情は,徳川の政府も之に同じ。北条足利の政府にて恐るゝ所の謀反人の種類は,徳川の時代にてもその種類を異にせず。

 顧て彼の欧洲諸国の有様を見れば大に趣の異なる所あり。その国民の間に宗旨の新説漸く行わるれば政府も亦これに従て処置を施さヾるべからず。昔日は封建の貴族をのみ恐れたりしが,世間の商工次第に繁昌して中等の人民に権力を有する者あるに至れば,亦これを喜び或は之を恐れざるべからず。故に欧羅巴の各国にてはその国勢の変ずるに従て政府も亦その趣を変ぜざるべからずと雖ども,独り我日本は然らず,宗旨も学問も商売も工業も悉皆政府の中に籠絡したるものなれば,その変動を憂るに足らず,又これを恐るゝに足らず,若し政府の意に適せざるものあれば輙ち之を禁じて可なり。唯一の心配は同類の中より起る者ありて,政府の新陳交代せんことを恐るゝのみ。【(この部分二段組み)同類の中より起る者とは治者の中より起る者を云う】故に建国二千五百有余年の間,国の政府たるものは同一様の仕事を繰返し,その状恰も一版の本を再々復読するが如く,同じ外題の芝居を幾度も催うすが如し。新井氏が天下の大勢九変又五変と云いしは,即ちこの芝居を九度び催うし又五度び催うしたることのみ。或る西人の著書に,亜細亜洲の諸国にも変革騒乱あるは欧羅巴に異ならずと雖ども,その変乱のために国の文明を進めたることなしとの説あり。蓋し謂れなきに非ざるなり。(政府は新旧交代すれども国勢は変ずることなし)

 右の如く政府は時として変革交代することあれども,国勢は則ち然らず,その権力常に一方に偏して,恰も治者と被治者との間に高大なる隔壁を作てその通路を絶つが如し。有形の腕力も無形の智徳も,学問も宗教も,皆治者の党に与みし,その党与互に相依頼して各権力を伸ばし,富も爰に集り才も爰に集り,栄辱も爰に在り廉恥も爰に在り,遥に上流の地位を占めて下民を制御し,治乱興廃,文明の進退,悉皆治者の知る所にして,被治者は嘗て心に之を関せず,恬として路傍の事を見聞するが如し。

 譬えば古来日本に戦争あり。或は甲越の合戦と云い,或は上国と関東との取合と云い,その名を聞けば両国互に敵対して戦うが如くなれども,その実は決して然らず。この戦は唯両国の武士と武士との争にして,人民は嘗て之に関することなし。元来敵国とは全国の人民一般の心を以て相敵することにて,仮令い躬から武器を携て戦場に赴かざるも,我国の勝利を願い敵国の不幸を祈り,事々物々些末のことに至るまでも敵味方の趣意を忘れざるこそ,真の敵対の両国と云うべけれ。人民の報国心はこの辺に在るものなり。然るに我国の戦争に於ては古来未だその例を見ず。戦争は武士と武士との戦にして,人民と人民との戦に非ず。家と家との争にして,国と国との争に非ず。両家の武士,兵端を開くときは,人民之を傍観して,敵にても味方にても唯強きものを恐るゝのみ。故に戦争の際,双方の旗色次第にて,昨日味方の輜重を運送せし者も今日は敵の兵糧を担うべし。勝敗決して戦罷むときは,人民は唯騒動の鎮まりて地頭の交代するを見るのみ,その勝利を栄とするに非ず,又その敗北を辱とするに非ず。或は新地頭の政令寛にして年貢米の高を減ずることもあらば之を拝して悦ばんのみ。その一例を挙て云わん。後北条の国は関八州なり。一旦豊臣と徳川に敵対して敗滅を取り,滅後直に八州を領したる者は讐敵なる徳川なり。徳川家康如何なる人傑なればとて一時に八州の衆敵を服するを得んや。蓋し八州の人民は敵にも非ず味方にも非ず,北条と豊臣との戦争を見物したるものなり。徳川の関東に移りし後に敵の残党を鎮撫征討したりとは,唯北条家の遺臣を伐ちしのみのことにて,百姓町人等の始末に至ては恰も手を以てその頭を撫で即時に安堵したることなり。

 是等の例を計れば古来枚挙に遑あらず。今日に至ても未だその趣の変じたるを見ず。故に日本は古来未だ国を成さずと云うも可なり。今若しこの全国を以て外国に敵対する等の事あらば,日本国中の人民にて仮令い兵器を携えて出陣せざるも戦のことを心に関する者を戦者と名け,此戦者の数と彼の所謂見物人の数とを比較して何れか多かるべきや,預め之を計てその多少を知るべし。嘗て余が説に,日本には政府ありて国民(ネ-ション)なしと云いしも是の謂なり。固より欧羅巴諸国にても戦争に由て他国の土地を兼併すること[屡]これありと雖ども,そのこれを併すること甚だ易からず,非常の兵力を以て抑圧するか,若しくばその土地の人民と約束して幾分の権利を附与するに非ざれば,之を我版図に入るゝこと能わずと云う。東西の人民その気風を殊にすること以て見るべし。(日本の人民は国事に関せず)

 故に遇ま民間に才徳を有する者あれば,己が地位に居てこの才徳を用るに方便なきがため,自からその地位を脱して上流の仲間に入らざるを得ず。故に昨日の平民,今日は将相と為りしこと,古今にその例少なからず。之を一見すれば彼の上下の隔壁もなきが如くなれども,この人物は唯その身を脱して他に遁れたるのみ。之を譬えば土地の卑湿を避けて高燥の地に移りたるが如し。一身のためには都合宜しかるべしと雖ども,元とその湿地に自から土を盛て高燥の地位を作りたるに非ず。故に湿地は旧の湿地にて,目今己が居を占めたる高燥の地に対すれば,その隔壁尚存して上下の別は少しも趣を変ずることなし。

 猶在昔尾張の木下藤吉が太閤と為りたれども,尾張の人民は旧の百姓にしてその有様を改めざるが如きもの是なり。藤吉は唯百姓の仲間を脱走して武家の党に与みしたるなり。その立身は藤吉一人の立身なり,百姓一般の地位を高くしたるに非ず。固よりその時の勢なれば今より之を論ずべからず,之を論ずるも万々無益なれども,若し藤吉をしてその昔欧羅巴の独立市邑に在らしめなば,市民は必ずこの英雄の挙動を悦ばざることなるべし。或は又今の世に藤吉を生じて藤吉の事を為さしめ,彼の独立の市民を今の世に蘇生せしめてその事業を評せしめなば,この市民は必ず藤吉を目して薄情なる人物と云うならん。墳墓の地を顧みず,仲間の百姓を見捨て,独り武家に依頼して一身の名利を貪る者は,我党の人に非ずとて,之を詈ることならん。到底藤吉とこの市民とはその説の元素を異にするものなれば,その挙動の粗密寛猛は互に相似たるも,時勢に由らず世態に拘わらず,古より今に至るまで遂に相容るゝことを得ざるものなり。

 蓋し欧羅巴にて千二,三百年代の頃,盛に行われたる独立市民の如きは,その所業固より乱暴過激,或は固陋蠢愚なるものありと雖ども,決して他に依頼するに非ず,その本業には商売を勉め,その商売を保護するために兵備を設けて,自からその地位を固くしたる者なり。近世に至り英仏その他の国々に於て,中等の人民次第に富を致して随て又その品行を高くし,議院等に在て論説の喧しきものあるも,唯政府の権を争うて小民を圧制するの力を貪らんとするに非ず,自から自分の地位の利を全うして他人の圧制を圧制せんがために勉強するの趣意のみ。その地位の利とは,地方に就ては「ロカルインテレスト」あり,職業に就ては「カラッスインテレスト」あり,各その人の住居する地方,又はその営業を共にする等の交情に由て,各自家の説を主張し自家の利益を保護し,之がためには或は一命をも棄る者なきに非ず。この趣を見れば,古来日本人が自分の地位を顧みずして便利の方に附き,他に依頼して権力を求るか,或は他人に依頼せざれば,自から他に代て他の事を為し,暴を以て暴に易えんとするが如きは,鄙劣の甚しきものなり。之を西洋独立の人民に比すれば雲壌の相違と云わざるべからず。

 昔支那にて楚の項羽が秦の始皇の行列を見て,彼れ取て代るべしと云い,漢の高祖は之を見て大丈夫当に斯の如くなるべしと云いたることあり。今この二人の心中を察するに,自分の地位を守らんがために秦の暴政を忿るに非ず,実はその暴政を好機会と為して己が野心を逞うし,秦皇の位に代て秦の事を行わんと欲するに過ぎず。或はその暴虐秦の如くならざるも,少しく事を巧にして人望を買うのみ。その擅権を以て下民を御するの一事に至ては,秦皇も漢祖も区別あることなし。我国にても古来英雄豪傑と称する者少なからずと雖ども,その事跡を見れば項羽に非ざれば漢祖なり。開闢の初より今日に至るまで,全日本国中に於て独立市民等の事は夢中の幻に妄想したることもあるべからず。(国民その地位を重んぜず) 宗教は人心の内部に働くものにて,最も自由最も独立して,毫も他の制御を受けず,毫も他の力に依頼せずして,世に存すべき筈なるに,我日本に於ては則ち然らず。元来我国の宗旨は神仏両道なりと云う者あれども,神道は未だ宗旨の体を成さず。仮令い往古にその説あるも,既に仏法の中に籠絡せられて,数百年の間本色を顕わすを得ず。或は近日に至て少しく神道の名を聞くが如くなれども,政府の変革に際し僅に王室の余光に藉て微々たる運動を為さんとするのみにて,唯一時偶然の事なれば,余輩の所見にては之を定りたる宗旨と認むべからず。兎に角に古来日本に行われて文明の一局を働きたる宗旨は,唯一の仏法あるのみ。然るにこの仏法も初生の時より治者の党に入てその力に依頼せざる者なし。古来名僧智識と称する者,或は入唐して法を求め,或は自国に在て新教を開き,人を教化し寺を建るもの多しと雖ども,大概皆天子将軍等の眷顧を徼倖し,その余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚しきは政府より爵位を受けて栄とするに至れり。僧侶が僧正,僧都等の位に補せらるゝの例は最も古く,延喜式に僧都以上は三位に准ずと云い,後醍醐天皇建武二年の宣旨には,大僧正を以て二位大納言,僧正を以て二位中納言,権僧正を以て三位参議に准ずとあり(釈家官班記)。この趣を見れば,当時の名僧智識も天朝の官位を身に附け,その位を以て朝廷の群臣と上下の班を争い,一席の内外を以て栄辱と為したることならん。

 之がため日本の宗旨には,古今その宗教はあれども自立の宗政なるものあるを聞かず。尚その実証を得んと欲せば,今日にても国中有名の寺院に行てその由来記を見るべし。聖武天皇の天平年中,日本の毎国に国分寺を立て,桓武天皇延暦七年には伝教大師比叡山を開き根本中堂を建てゝ王城の鬼門を鎮し,嵯峨天皇弘仁七年には弘法大師高野山を開き帝より印符を賜わりてその大伽籃を建立したり。その他南都の諸山,京都の諸寺,中古には鎌倉の五山,近世には上野の東叡山,芝の増上寺等,何れも皆政府の力に依らざるものなし。その他歴代の天子自から仏に帰し,或は親王の僧たる者も甚だ多し。白河天皇に八男ありて,六人は僧たりしと云う。是亦宗教に権を得たる一の源因なり。独り一向宗は自立に近きものなれども尚この弊を免かれず。足利の末,大永元年,実如上人の時に天子即位の資を献じ,その賞として永世准門跡とて法親王に准ずるの位を賜わりたることあり。王室の衰微貧困を気の毒に思うて有余の金を給するは僧侶の身分として尤のことなれども,その実は然らず,西三条入道の媒酌に由り銭を以て官位を買たるものなり。之を鄙劣と云うべし。

 故に古来日本国中の大寺院と称するものは,天子皇后の勅願所に非ざれば将軍執権の建立なり。概して之を御用の寺と云わざるを得ず。その寺の由来を聞けば,御朱印は何百石,住職の格式は何々とて,その状恰も歴々の士族が自分の家柄を語るに異ならず。一聞以て厭悪の心を生ずべし。寺の門前には下馬札を建て,門を出れば儻勢を召連れ,人を払い道を避けしめ,その威力は封建の大名よりも盛なるものあり。然り而してその威力の源を尋れば,宗教の威力に非ず,唯政府の威力を借用したるものにして,結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛なりと雖ども,その教は悉皆政権の中に摂取せられて,十方世界に遍く照らすものは,仏教の光明に非ずして,政権の威光なるが如し。寺院に自立の宗政なきも亦怪むに足らず,その教に帰依する輩に信教の本心なきも亦驚くに足らず。

 その一証を挙れば,古来日本にて宗旨のみの為に戦争に及びしことの極て稀なるをみても,亦以て信教者の懦弱を窺い知るべし。その教に於て信心帰依の表に現われたる所は,無智無学の田夫野嫗が涙を垂れて泣くものあるに過ぎず。この有様を見れば,仏法は唯是れ文盲世界の一器械にして,最愚最陋の人心を緩和するの方便たるのみ。その他には何等の功用もなく,又何等の勢力もあることなし。その勢力なきの甚しきは,徳川の時代に,破戒の僧とて,世俗の罪を犯すに非ず,唯宗門上の戒を破る者あれば,政府より直に之を捕え,市中に晒して流刑に処するの例あり。斯の如きは則ち僧侶は政府の奴隷と云うも可なり。近日に至ては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。この令に拠れば,従来僧侶が肉を食わず婦人を近づけざりしは,その宗教の旨を守るがためには非ずして,政府の免許なきがために勉めて自から禁じたることならん。是等の趣を見れば,僧侶は啻に政府の奴隷のみならず,日本国中既に宗教なしと云うも可なり。(宗教権なし) 宗教尚且然り。況や儒道学問に於てをや。我国に儒書を伝えたるは日既に久し。王代に博士を置て,天子自から漢書を読み,嵯峨天皇の時に大納言冬嗣,勧学院を建てゝ宗族子弟を教え,宇多天皇の時には中納言行平,奨学院を設る等,漢学も次第に開け,殊に和歌の教は古より盛なりしことなれども,都てこの時代の学問は唯在位の子弟に及ぶのみにて,著述の書と雖ども悉皆官の手に成りしものなり。固より印書の術も未だ発明あらざれば,民間に教育の達すべき方便あるべからず。鎌倉の時に大江広元,三善康信等,儒を以て登用せられたれども,これ亦政府に属したるものにて,人民の間に学者あるを聞かず。承久三年北条泰時,宇治勢多に攻入たるとき,後鳥羽上皇より宣旨来り,従兵五千余人の内よりこの宣旨読むべき者をと尋ねしに,武蔵国の住人藤田三郎なる者一人を得たりと云う。世間の不文なること以て知るべし。これより足利の末に至るまで,文学は全く僧侶の事と為り,字を学ばんとする者は必ず寺に依らざればその方便を得ず。後世習字の生徒を呼て寺子と云うもその因縁なり。或人の説に,日本に版本の出来たるは鎌倉の五山を始とすと云えり。果して信ならん。徳川の初にその始祖家康,首として藤原惺窩を召し,次で林道春を用い,太平の持続するに従て碩儒輩出,以て近世に及びしことなり。斯の如く学問の盛衰は世の治乱と歩を共にして,独立の地位を占ることなく,数十百年干戈騒乱の間,全く之を僧侶の手に任したるは,学問の不面目と云わざるを得ず。この一事を見ても儒は仏に及ばざること以て知るべし。

 然りと雖ども,兵乱の際に学問の衰微するは独り我日本のみに非ず,世界万国皆然らざるはなし。欧羅巴に於ても中古暗黒の時より封建の代に至るまでは,文字の権,全く僧侶に帰して,世間に漸く学問の開けたるは実に千六百年代以降のことなり。又東西の学風その趣を異にして,西洋諸国は実験の説を主とし,我日本は孔孟の理論を悦び,虚実の相違,固より日を同うして語るべきに非ざれども,亦一概に之を咎むべからず。兎に角に我人民を野蛮の域に救て今日の文明に至らしめたるものは,之を仏法と儒学との賜と云わざるを得ず。殊に近世儒学の盛なるに及て,俗間に行わるゝ神仏者流の虚誕妄説を排して人心の蠱惑を払たるが如きは,その功最も少なからず。この一方より見れば儒学も亦有力のものと云うべし。故に今東西学風の得失は姑く擱き,唯その学問の行われたる次第に就き,著しき両様の異別を掲げて爰に之を示すのみ。

 蓋しその異別とは何ぞや。乱世の後,学問の起るに当て,この学問なるもの,西洋諸国に於ては人民一般の間に起り,我日本にては政府の内に起たるの一事なり。西洋諸国の学問は学者の事業にて,その行わるゝや官私の別なく,唯学者の世界に在り。我国の学問は所謂治者の世界の学問にして,恰も政府の一部分たるに過ぎず。試に見よ,徳川の治世二百五十年の間,国内に学校と称するものは,本政府の設立に非ざれば諸藩のものなり。或は有名の学者なきに非ず,或は大部の著述なきに非ざれども,その学者は必ず人の家来なり,その著書は必ず官の発兌なり。或は浪人に学者もあらん,私の蔵版もあらんと雖ども,その浪人は人の家来たらんことを願て得ざりし者なり,その私の蔵版も官版たらんことを希うて叶わざりし者なり。国内に学者の社中あるを聞かず,議論新聞等の出版あるを聞かず,技芸の教場を見ず,衆議の会席を見ず,都て学問の事に就ては毫も私の企あることなし。

 遇ま碩学大儒,家塾を開て人を教る者あれば,その生徒は必ず士族に限り,世禄を食て君に仕るの余業に字を学ぶ者のみ。その学流も亦治者の名義に背かずして,専ら人を治るの道を求め,数千百巻の書を読み了するも,官途に就かざれば用を為さヾるが如し。或は稀に隠君子と称する先生あるも,その実は心に甘んじて隠するに非ず,窃に不遇の歎を為して他を怨望する者か,然らざれば世を忘れて放心したる者なり。その趣を形容して云えば,日本の学者は政府と名る籠の中に閉込められ,この籠を以て己が乾坤と為し,この小乾坤の中に煩悶するものと云うべし。幸にして世の中に漢儒の教育洽ねからずして学者の多からざりしこそ目出たけれ,若し先生の思通りに無数の学者を生ずることあらば,狭き籠の中に混雜し,身を容るべき席もなくして,怨望益多く,煩悶益甚しからざるを得ず。気の毒千万なる有様に非ずや。

 斯の如く限ある籠の中に限なき学者を生じ,籠の外に人間世界のあるを知らざる者なれば,自分の地位を作るの方便を得ず。只管その時代の有権者に依頼して,何等の軽蔑を受るも嘗て之を恥るを知らず。徳川の時代に学者の志を得たる者は政府諸藩の儒官なり。名は儒官と云うと雖ども,その実は長袖の身分とて,之を貴ぶに非ず,唯一種の器械の如くに御して,兼て当人の好物なる政治上の事務にも参らしめず,僅に五斗米を与えて少年に読書の教を授けしむるのみ。字を知る者の稀なる世の中なれば,唯その不自由を補うがために用いたるまでのことにて,之を譬えば革細工に限りて穢多に命ずるが如し。卑屈賤劣の極と云うべし。この輩に向て又何をか求めん,又何をか責めん。その党与の内に独立の社中なきも怪むに足らず,一定の議論なきも亦驚くに足らざるなり。加之,政府専制よく人を束縛すと云い,少しく気力ある儒者は動もすれば之に向て不平を抱く者なきに非ず。然りと雖どもよくその本を尋れば,夫子自から種を蒔て之を培養し,その苗の蔓延するがために却て自から窘めらるゝものなり。政府の専制,これを教る者は誰ぞや。仮令い政府本来の性質に専制の元素あるも,その元素の発生を助けて之を潤色するものは漢儒者流の学問に非ずや。古来日本の儒者にて最も才力を有して最もよく事を為したる人物と称する者は,最も専制に巧にして最もよく政府に用いられたる者なり。この一段に至ては漢儒は師にして政府は門人と云うも可なり。

 憐むべし,今の日本の人民,誰か人の子孫に非ざらん。今の世に在て専制を行い,又その専制に窘めらるゝものは,独り之を今人の罪に帰すべからず,遠くその祖先に受けたる遺伝毒の然らしむるものと云わざるを得ず。而してこの病毒の勢を助けたる者は誰ぞや,漢儒先生も亦預て大に力あるものなり。(学問に権なくして却て世の専制を助く) 前段に云える如く,儒学は仏法とともに各その一局を働き,我国に於て今日に至るまでこの文明を致したることなれども,何れも皆古を慕うの病を免かれず。宗旨の本分は人の心の教を司り,その教に変化あるべからざるものなれば,仏法又は神道の輩が数千百年の古を語て今世の人を諭さんとするも尤のことなれども,儒学に至ては宗教に異なり,専ら人間交際の理を論じ,礼楽六芸の事をも説き,半は之を政治上に関する学問と云うべし。今この学問にして変通改進の旨を知らざるは遺憾のことならずや。人間の学問は日に新に月に進て,昨日の得は今日の失と為り,前年の是は今年の非と為り,毎物に疑を容れ毎事に不審を起し,之を糺し之を吟味し,之を発明し之を改革して,子弟は父兄に優り後進は先進の右に出て,年々歳々生又生を重ね,次第に盛大に進て,顧て百年の古を見れば,その粗鹵不文にして愍笑すべきもの多きこそ,文明の進歩,学問の上達と云うべきなり。

 然るに論語に曰く,後世畏るべし,焉ぞ来者の今に如かざるを知らんと。孟子に曰く,舜何人ぞ,予何人ぞ,為ることある者は亦是の如し。又曰く,文王は我師なり,周公豈我を欺かんやと。この数言以て漢学の精神を窺い見るべし。後世畏るべし云々とは,後進の者が勉強せば或は今人の如く為ることもあらん,油断はならぬと云う意味なり。されば後人の勉強して達すべき頂上は辛うじて今人の地位に在るのみ。加之その今人も既に古人に及ばざる季世の人なれば,仮令い之に及ぶことあるも余り頼母しき事柄に非ず。又後進の学者が大に奮発して,大声一喝,その慷慨の志を述べたる処は,数千年以前の舜の如くならんと欲するか,又は周公を証人に立てゝ恐れながら文王を学ばんとするまでのことにて,その趣は不器用なる子供が先生に習字の手本を貰い,御手本の通りに字を書かんとして苦心するが如し。初めより先生には及ばぬものと覚悟を定めたれば,極々よく出来たる処にて先生の筆法を真似するのみ,迚もその以上に出ることは叶うべからず。

 漢儒の道の系図は,尭舜より禹,湯,文,武,周公,孔子に伝え,孔子以後は既に聖人の種も尽きて,支那にも日本にも再びその人あるを聞かず。孟子以後宋の世の儒者又は日本の碩学大儒にても,後世に向ては矜るべしと雖ども,孔子以上の古聖に対しては一言もあるべからず。唯これを学で及ばざるの歎を為すのみ。故にその道は後の世に伝うれば伝うるほど悪しく為りて,次第に人の智徳を減じ,漸く悪人の数を増し,漸く愚者の数を増して,一伝又一伝,以て末世の今日に至りては,疾く既に禽獸の世界と為るべきは十露盤の上に明なる勘定なれども,幸にして人智進歩の定則は自から世に行われて儒者の考の如くならず,往々古人に優る人物を生じたることにや,今日までの文明を進めて,彼の勘定の割合に反したるこそ,我人民の慶福と云うべけれ。斯の如く古を信じ古を慕うて毫も自己の工夫を交えず,所謂精神の奴隷(メンタルスレ-ヴ)とて,己が精神をば挙て之を古の道に捧げ,今の世に居て古人の支配を受け,その支配を又伝えて今の世の中を支配し,洽ねく人間の交際に停滞不流の元素を吸入せしめたるものは,之を儒学の罪と云うべきなり。

 然りと雖ども又一方より云えば,在昔若し我国に儒学と云うもの無かりせば,今の世の有様には達すべからず。西洋の語に「リフ[ハ]インメント」とて,人心を鍛錬して清雅ならしむるの一事に就ては,儒学の功徳亦少なしとせず。唯昔に在ては功を奏し今に在ては無用なるのみ。物の不自由なる時節に於ては,敗筵も夜着に用ゆべし,糠も食料と為すべし。況や儒学に於てをや,必ずその旧悪を咎むべからず。余思うに儒学を以て古の日本人を教えたるは,田舎の娘を御殿の奉公に出したるが如し。御殿にて起居動作は自から清雅に倣い,その才智も或は穎敏を増したれども,活[溌]なる気力は失い尽して,家産営業の為には無用なる一婦人を生じたることなり。蓋しその時節には娘を教ゆべき教場もなかりしゆえ,奉公も謂れなきに非ざれども,今日に至てはその利害得失を察して別に方向を定めざるべからず。

 古来我日本は義勇の国と称し,その武人の慓悍にして果断,誠忠にして率直なるは,亜細亜諸国に於ても愧るものなかるべし。就中足利の末年に至て天下大乱,豪傑所在に割拠して攻伐止む時なく,凡そ日本に武の行われたる,前後この時より盛なるはなし。一敗,国を亡す者あり,一勝,家を興す者あり,門閥もなく由緒もなく,功名自在,富貴瞬間に取るべし。文明の度に前後の差はあれども,之を彼の羅馬の末世に北狄の侵入せし時代に比して彷彿たる有様と云うも可なり。この事勢の中に在ては日本の武人にも自から独立自主の気象を生じ,或は彼の日耳曼の野民が自主自由の元素を遺したるが如く,我国民の気風も一変すべきに思わるれども,事実に於ては決して然らず。この章の首に云える権力の偏重は,開闢の初より人間交際の微細なる処までも入込み,何等の震動あるも之を破るべからず。

 この時代の武人快活不覊なるが如くなれども,この快活不覊の気象は一身の慷慨より発したるものに非ず,自から認めて一個の男児と思い,身外無物,一己の自由を楽むの心に非ず,必ず外物に誘われて発生したるものか,否ざれば外物に藉て発生を助けたるものなり。何を外物と云う。先祖のためなり,家名のためなり,君のためなり,父のためなり,己が身分のためなり。凡そこの時の師に名とする所は必ず是等の諸件に依らざるものなし。或は先祖家名なく,君父身分なき者は,故さらにその名義を作て口実に用るの風なり。如何なる英雄豪傑にして有力有智の者と雖ども,その智力のみを恃て事を為さんと企たる者あるを聞かず。爰にその事跡に見われたるものを撮て一,二の例を示さん。

 足利の末年に諸方の豪傑,或はその主人を逐い,或はその君父の讐を報じ,或は祖先の家を興さんとし,或は武士たるの面目を全うせんがためにとて,党与を集め土地を押領し,割拠の勢を為すと雖ども,その期する所は唯上洛の一事に在るのみ。抑もこの上洛の何物たるを尋れば,天子若くは将軍に謁し,その名義を借用して天下を制せんとすることなり。或は未だ上洛の方便を得ざる者は,遥に王室の官位を受け,この官位に藉て自家の栄光を増し,以て下を制するの術に用る者あり。この術は古来日本の武人の間に行わるゝ一定の流儀にて,源平の酋長,皆然らざるはなし。北条に至ては直に最上の官位をも求めずして,名目のために将軍を置き,身は五位を以て天下の権柄を握りたるは,啻に王室を器械に用るのみならず,兼て将軍をも利用したるものなり。その外形を皮相すれば美にして巧なるに似たれども,よく事の内部に就て之を詳にすれば,必竟人心の鄙怯より生じたることにて,真に賤しむべく悪むべきの元素を含有するものと云わざるを得ず。足利尊氏が赤松円心の策を用いて後伏見帝の宣旨を受け,その子光明天皇を立たるが如きは,万人の目を以て見るも之を尊王の本心より出たるものと認むべからず。信長が初は将軍義昭を手に入れたれども,将軍の名は天子の名に若かざるを悟り,乃ち義昭を逐うて直に天子を挟みたるも,その情厚しと云うべからず。何れも皆詐謀偽計の明著なるものにて,凡そ天下に耳目を具したる者ならば,その内情を洞察すべき筈なれども,尚その表面には忠信節義を唱え,児戯に等しき名分を口実に用いて自から之を策の得たるものと為し,人も亦これに疑を容れざるは何ぞや。蓋しその党与の内に於て上下共に大に利する所あればなり。日本の武人は開闢の初よりこの国に行わるゝ人間交際の定則に従て,権力偏重の中に養われ,常に人に屈するを以て恥とせず。彼の西洋の人民が自己の地位を重んじ,自己の身分を貴て,各その権義を持張する者に比すれば,その間に著しき異別を見るべし。故に兵馬騒乱の世と雖ども,この交際の定則は破るべからず。一族の首に大将あり,大将の下に家老あり,次で騎士あり,又徒士あり,以て足軽中間に及び,上下の名分判然として,その名分と共に権義をも異にし,一人として無理を蒙らざる者なく,一人として無理を行わざる者なし。無理に抑圧せられ,又無理に抑圧し,此に向て屈すれば,彼に向て矜るべし。

 譬えば爰に甲乙丙丁の十名ありて,その乙なる者,甲に対して卑屈の様を為し,忍ぶべからざるの恥辱あるに似たれども,丙に対すれば意気揚々として大に矜るべきの愉快あり。故に前の恥辱は後の愉快に由て償い,以てその不満足を平均し,丙は丁に償を取り,丁は戊に代を求め,段々限あることなく,恰も西隣へ貸したる金を東隣へ催促するが如し。又これを物質に譬えて云えば,西洋人民の権力は鉄の如くにして,之を膨脹すること甚だ難く,之を收縮することも亦甚だ易からず。日本の武人の権力はゴムの如く,その相接する所の物に従て縮張の趣を異にし,下に接すれば大に膨脹し,上に接すれば頓に收縮するの性あり。この偏縮偏重の権力を一体に集めて之を武家の威光と名け,その一体の抑圧を蒙る者は無告の小民なり。小民を思えば気の毒なれども,武人の党与に於ては上大将より下足軽中間に至るまで,上下一般の利益と云わざるを得ず。

 啻に利益を謀るのみに非ず,その上下の関係,よく整斉して頗る条理の美なるものあるが如し。即ちその条理とは党与の内にて,上下の間に人々卑屈の醜態ありと雖ども,党与一体の栄光を以て強いて自から之を己が栄光と為し,却て独一個の地位をば棄てゝその醜体を忘れ,別に一種の条理を作て之に慣れたるものなり。この習慣の中に養われて終に以て第二の性を成し,何等の物に触るゝも之を動かすべからず。威武も屈すること能わず,貧賤も奪うこと能わず,儼然たる武家の気風を窺い見るべし。その一局の事に就き一場の働に就て之を察すれば,真に羨むべく又慕うべきもの多し。在昔三河の武士が徳川家に附属したる有様などもこの一例なり。

 斯る仕組を以て成立たる武人の交際なれば,この交際を維持せんがためには,止むを得ず一種無形最上の権威なかるべからず。即ちその権威の在る所は王室に止まると雖ども,人間世界の権威は,事実,人の智徳に帰するものなるが故に,王室と雖ども実の智徳あらざれば実の権威は之に帰すべからず。是に於てかその名目のみを残して王室に虚位を擁せしめ,実権をば武家の統領に握らんとするの策を運らしたることにて,即ち当時諸方の豪傑が上洛の一事に熱中し,児戯に等しき名分をも故さらに存して之を利用したる由縁なり。必竟その本を尋れば,日本の武人に独一個人の気象(インヂヴ[ヰ]ヂュアリチ)なくして,斯る卑劣なる所業を恥とせざりしことなり。(乱世の武人に独一個の気象なし)

 古来世の人の等閑に看過して意に留めざりし所なれども,今特に之を記せば,日本の武人に独一個人の気象なき趣を窺い見るべき一個条あり。即ちその個条とは人の姓名の事なり。元来人の名は父母の命ずるものにて,成長の後或は改名することあるも,他人の差図を受くべきに非ず。衣食住の物品は人々の好尚に任し,自由自在たるに似たれども,多くは外物に由て動かされ,自から時の流行に従うものなれども,人の姓名は衣食住の物に異なり,之を命ずるに他人の差図を受けざるは勿論,仮令い親戚朋友と雖ども,我より求て相談を受るに非ざれば喙を入るべき事柄に非ず。人事の形に見われたるものゝ中にて最も自由自在なる部分と云うべし。法に由て改名を禁ずる国に於ては,固よりその法に従うも自由を妨るに非ざれども,改名自由の国に於て,源助と云う名を平吉と改るか,又は之を改めざるの自由は,全く一己の意に任して,夜寝るに右を枕にし又左を枕にするの自由なるが如し。毫も他人に関係あるべからず。

 然るに古来我日本の武家に,偏諱を賜わり姓を許すの例あり。卑屈賤劣の風と云うべし。上杉謙信の英武も尚これを免れず,将軍義輝の偏諱を拝領して輝虎と改名したることあり。尚甚しきは,関原の戦争後に天下の大権徳川氏に帰して,諸侯の豊臣氏を冒す者は悉く本姓に復し,又松平を冒す者あり。是等の変姓は或は自から願い或は上命にて賜わることもあらんと雖ども,何れにも事柄に於ては賤しむべき挙動と云わざるを得ず。或人謂えらく,改名冒姓の事は,当時の風習にて人の意に留めざることなれば,今より咎むべからずと云うものあれども,決して然らず。他人の姓名を冒して心に慊しと思わざるの人情は,古今皆同じ。その証拠には足利の時,永享六年,鎌倉の公方持氏の子,元服して名を義久と命じたりしに,管領上杉憲実は例の如く室町の諱を願わるべしと諌めたれども聴かずとあり。この時持氏は既に自立の志あり。その志は善にも悪にも,他の名を冒すは賤しき挙動と思いしことならん。又徳川の時代に,細川家へ松平の姓を与えんとせしに辞したりとて,民間には之を美談として云伝えり。虚実詳ならざれども,之を美とするの人情は今も古も同様なること明に証すべし。以上記す所の姓名のことは左まで大事件にも非ざれども,古来義勇と称する武人の,その実は思の外卑怯なるを知るべく,又一には権威を握る政府の力は恐ろしきものにて,人心の内部までも犯して之を制するに足るとの次第を示さんがために,数言を爰に贅したるなり。 右条々に論ずる如く,日本の人間交際は,上古の時より治者流と被治者流との二元素に分れて,権力の偏重を成し,今日に至るまでもその勢を変じたることなし。人民の間に自家の権義を主張する者なきは固より論を竢たず。宗教も学問も皆治者流の内に籠絡せられて嘗て自立することを得ず。乱世の武人義勇あるに似たれども,亦独一個人の味を知らず。乱世にも治世にも,人間交際の至大より至細に至るまで,偏重の行われざる所なく,又この偏重に由らざれば事として行わるべきものなし。恰も万病に一薬を用るが如く,この一薬の功能を以て治者流の力を補益し,その力を集めて之を執権者の一手に帰するの趣向なり。前既に云える如く,王代の政治も将家の政治も,北条足利の策も徳川の策も,決して元素を異にする者に非ず。只彼を此より善しとし,此を彼より悪しと云うものは,この偏重を用るの巧なると拙なるとを見てその得失を判断するのみ。巧に偏重の術を施して最上の権力を執権者の家に帰するを得れば,百事既に成りて他に又望むべきものなし。

 古来の因襲に国家と云う文字あり。この家の字は人民の家を指すに非ず,執権者の家族又は家名と云う義ならん。故に国は即ち家なり,家は即ち国なり。甚しきは政府を富ますを以て御国益などゝ唱るに至れり。斯の如きは則ち国は家の為に滅せられたる姿なり。是等の考を以て政治の本を定るが故に,その策の出る所は常に偏重の権力を一家に帰せしめんとするより外ならず。山陽外史,足利の政を評して尾大不掉とてその大失策とせり。この人も唯偏重の行われずして足利の家に権力の帰せざりしを論じたるまでのことにて,当時の儒者の考には尤のことなれども,到底家あるを知て国あるを知らざるの論なり。若し足利の尾大不掉を失策とせば,徳川の首大偏重を見て之に満足せざるべからず。凡そ偏重の政治は古来徳川家より巧にして美なるものはなし。一統の後,頻に自家の土木を起して諸侯の財を費さしめ,一方には諸方の塁堡を毀ち藩々の城普請を止め,大船を造るを禁じ,火器を首府に入るゝを許さず,侯伯の妻子を江戸に拘留して盛に邸宅を築かしめ,自から之を奢侈に導て人間有用の事業を怠らしめ,尚その余力あるを見れば,或は御手伝と云い,或は御固めと云い,百般の口実を設けて奔命に疲れしめ,令するとして行われざるなく,命ずるとして従はざるなかりしは,その状恰も人の手足を挫て之と力を較するが如し。偏重の政治に於ては実に最上最美の手本と為すべきものにて,徳川一家の為を謀れば巧を尽し妙を得たるものと云うべし。

 固より政府を立るには中心に権柄を握て全体を制するの釣合なかるべからず。この釣合の必用なるは独り我日本のみならず世界万国皆然らざるはなし。野蛮不文なる古の日本人にても尚且この理を解したればこそ,数千百年の前代より専制の趣意ばかりは忘れざりしことならずや。況や文物次第に開けたる後の世に於て,誰か政府の権を奪い去て然る後に文明を期すると云うものあらん。政権の必用なるは学校の童子も知る所なり。然りと雖ども,西洋文明の各国にてはこの権の発源唯一所に非ず,政令は一途に出ると雖ども,その政令は国内の人心を集めたるものか,仮令い或は全く之を集ること能わざるも,その人心に由て多少の趣を変じ,様々の意見を調合して唯その出る処を一にしたるものなり。然るに古来日本に於ては,政府と国民とは啻に主客たるのみに非ず,或は之を敵対と称するも可なり。即ち徳川政府にて諸侯の財を費さしめたるは,敵に勝て償金を取るに異ならず。国民に造船を禁じ,大名に城普請を止めたるは,戦勝て敵国の台場を毀つに異ならず。之を同国人の所業と云うべからざるなり。 都て世の事物には初歩と次歩との区別あるものにて,初段の第一歩を処するには,之をして次の第二歩に適せしむるの工夫なかるべからず。故に次歩は初歩を支配するものと云うも可なり。譬えば諺に,苦は楽の種と云い,良薬口に苦しと云うことあり。苦痛を苦痛として之を避け,苦薬を苦薬として之を嫌うは,人情の常にして,事物の初歩にのみ精神を注ぐときは,之を避け嫌うも尤なるに似たれども,次の第二歩なる安楽と病の平癒とに眼を着すれば,之を忍て之に堪えざるべからず。彼の権力の偏重も,一時国内の人心を維持して事物の順序を得せしむるには止むを得ざるの勢にて,決して人の悪心より出たるものには非ず。所謂初歩の処置なり。加之その偏重の巧なるに至ては,一時,人の耳目を驚かすほどの美を致すものありと雖ども,唯如何せん,第二歩に進まんとするの時に及び,乃ち前年の弊害を顕わして初歩の宜しきを得ざりし徴候を見るべし。是を以て考れば,専制の政治は愈巧なればその弊愈甚しく,その治世愈久しければその余害愈深く,永世の遺伝毒と為りて容易に除くべからざる者の如し。徳川の太平の如きは即ちその一例なり。今日に至て世の有様を変革し,交際の第二歩に進まんとして,その事極て難きに非ずや。その難き由縁は何ぞや。徳川の専制は巧にしてその太平の久しかりしを以てなり。

 余嘗て鄙言を以てこの事情を評したることあり。云く,専制の政治を脩飾するは,閑散なる隠居が瓢簟を愛して之を磨くが如し。朝に夕に心身を労して磨き得たるものは,依然たる円き瓢簟にして,唯光沢を増たるのみ。時勢の将に変化して第二歩に入らんとするに当り,尚旧物を慕うて変通を知らず,到底求めて得べからざる所の物を求めて腦中に想像を画き,之を実に探り得んとして煩悶するものは,瓢簟の既に釁きたるを知らずして尚これを磨くが如し。愚も亦一層甚しと云うべしと。この鄙言或は当ることあらん。何れも皆事物の初歩に心配して次歩あるを知らず,初歩に止て次歩に進まざるものなり,初歩を以て次歩を妨るものなり。斯の如きは則ち,彼の初歩の偏重を以て事物の順序を得せしめたりと云うも,その実は順序を得たるに非ず,人間の交際を枯死せしめたるものと云うべし。交際を枯死せしむるものなれば,山陽外史の所謂尾大不掉も,徳川の首大偏重も,孰れか得失を定むべからず。必竟外史なども唯事の初歩に眼を着して瓢簟を磨くの考あるのみ。 試に徳川の治世を見るに,人民はこの専制偏重の政府を上に戴き,顧て世間の有様を察して人の品行如何を問えば,日本国中幾千万の人類は各幾千万個の箱の中に閉され,又幾千万個の墻壁に隔てらるゝが如くにして,寸分も動くを得ず。士農工商,その身分を別にするは勿論,士族の中には禄を世にし官を世にし,甚しきは儒官医師の如きもその家に定ありて代々職を改るを得ず。農にも家柄あり,商工にも株式ありて,その隔壁の堅固なること鉄の如く,何等の力を用るも之を破るべからず,人々才力を有するも進て事を為すべき目的あらざれば,唯退て身を守るの策を求るのみ。数百年の久しき,その習慣遂に人の性と為りて,所謂敢為の精神を失い尽すに至れり。

 譬えば貧士貧民が無智文盲にして人の軽蔑を受け,年々歳々貧又貧に陷り,その苦は凡そ人間世界に比すべきものなきが如くなれども,自から難を犯して敢て事を為すの勇なし。期せずして来るの難には,よく堪ゆれども,自から難を期して未来の愉快を求る者なし。啻に貧士貧民のみならず,学者も亦然り,商人も亦然り。概して之を評すれば,日本国の人は,尋常の人類に備わるべき一種の運動力を欠て停滞不流の極に沈みたるものと云うべし。是即ち徳川の治世二百五十年の間,この国に大業を企る者,稀なりし由縁なり。輓近廃藩の一挙ありしかども,全国の人,俄にその性を変ずること能わず,治者と被治者との分界は今尚判然として毫もその趣を改めざる由縁なり。その本を尋れば悉皆権力の偏重より来りしものにて,事物の第二歩に注意せざるの弊害と云うべし。故にこの弊害を察して偏重の病を除くに非ざれば,天下は乱世にても治世にても,文明は決して進むことあるべからず。但しこの病の療法は,目今現に政治家の仕事なれば,之を論ずるは本書の旨に非ず,余輩は唯その病の容体を示したるのみ。

  抑も亦西洋諸国の人民に於ても,貧富強弱一様なるに非ず。その富強なる者は貧弱を御するに,刻薄残忍なることもあらん,傲慢無礼なることもあらん。貧弱も亦名利のために,人に諂諛することもあらん,人を欺くこともあらん。その交際の醜悪なるは決して我日本人に異なることなし,或は日本人より甚しきこともあるべしと雖ども,その醜悪の際,自から人々の内に独一個人の気象を存して精神の流暢を妨げず。その刻薄傲慢は唯富強なるが故なり,別に恃む所あるに非ず。その諂諛欺詐は唯貧弱なるが故なり,他に恐るゝ所あるに非ず。然り而して,富強と貧弱とは天然に非ず,人の智力を以て致すべし。智力を以て之を致すべきの目的あれば,仮令い事実に致すこと能わざるも,人々自からその身に依頼して独立進取の路に赴くべし。試に彼の貧民に向て問わば,口に云う能わずと雖ども,心には左の如く答ることならん。我は貧乏なるが故に富人に従順するなり,貧乏なる時節のみ彼に制せらるゝなり,我の従順は貧乏と共に消すべし,彼の制御は富貴と共に去るべしと。蓋し精神の流暢とはこの辺の気象を指して云うことなり。之を我日本人が,開闢以来世に行わるゝ偏重の定則に制せられて,人に接すればその貧富強弱に拘らず,智愚賢不肖を問わずして,唯その地位の為に或は之を軽蔑し或は之を恐怖し,秋毫の活気をも存せずして,自家の隔壁の内に固着する者に比すれば,雲壌の相違あるを見るべきなり。(権力偏重なれば治乱共に文明は進むべからず) この権力の偏重よりして全国の経済に差響きたる有様も等閑に看過すべからざるものなり。抑も経済の議論は頗る入組たるものにて,之を了解すること甚だ易からず。各国の事態時状に由て一様なるものに非ざれば,西洋諸国の経済論を以て直に我国に施すべからざるは固より論を俟たずと雖ども,爰に何れの国に於ても何れの時に在ても,普ねく通用すべき二則の要訣あり。

 即ちその第一則は財を積て又散ずることなり。而してこの積むと散ずるとの両様の関係は,最も近密にして決して相離るべきものに非ず。積は即ち散の術なり,散は即ち積の方便なり。譬えば春の時節に種を散ずるは秋の穀物を積むの術にして,衣食住の為に財を散ずるは,身体を健康に保てその力を養い,又衣食住の物を積むの方便なるが如し。この積散の際に,或は散じて積むこと能わざるものあり。火災水難の如き是なり。或は人心の嗜慾にて奢侈を好み,徒に財物を費散して跡なきものあり。是亦水火の災難に異ならず。経済の要は決して費散を禁ずるに非ず,唯これを費し之を散じたる後に,得る所の物の多少を見てその費散の得失を断ずるのみ。その所得の物,所費より多ければ,之を利益と名け,所得所費相同じければ之を無益と名け,所得却て所費よりも少なきか,或は全く所得あらざれば,之を損と名け又全損と名く。経済家の目的は,常にこの所得をして所損より多からしめ,次第に蓄積し又費散して全国の富有を致さんとするに在るなり。

 故にこの蓄積費散の二箇条は,何れを術と為し何れを目的と為すべからず,何れを前と為し何れを後と為すべからず。前後緩急の別なく,難易軽重の差なし。正しく同一様の事にして,正しく同一様の心を以て処置すべきものなり。蓋し蓄積してよく之を散ずるの法を知らざる者は,遂に大に蓄積するを得ず。費散して又よく積むの働なき者は,遂に大に散ずるを得ざればなり。富国の基は唯この蓄積と費散とを盛大にするに在るのみ。その盛大なる国を名けて之を富国と称す。是に由て考れば,国財の蓄積費散は全国の人心を以て処置せざるべからず。既に国財の名あれば国心の名あるも謂れなきに非ず。国財は国心を以て扱わざるべからざるなり。政府の歳入歳出も国財の一部分なれば,西洋諸国にて政府の会計を民と議するも,その趣意は蓋し爰に基きしものなり。

 第二則,財を蓄積し又これを費散するには,その財に相応すべき智力とその事を処するの習慣なかるべからず。所謂理財の智,理財の習慣なるもの,是なり。譬えば,千金の子,その家を亡し,博奕に贏つ者,永くその富を保つこと能わざるが如し。何れも皆その財とその智力習慣と相当せざるものなり。智力なく習慣なき者へ過分の財を附するは,徒にその財を失うのみならず,小児の手に利刀を任するが如く,却て之を以て身を害し人を傷うの禍を致すべし。古今にその例甚だ多し。 右所記の二則果して是ならば,之を照らして古来我日本国に行われたる経済の得失を見るべし。王代の事は姑く擱き,葛山伯有先生の田制沿革考に云く,

  源平の乱に至り,徴発国衙に由らず。民奉ずる所を知らず。一郷一荘の地, 官に奉じ,平族に奉じ,源氏に奉ず。間亦奸窃の徒の為に粮食を取られ,無告の民,塗炭惟谷。終に源公の権行われ,国に守護を置き,荘に地頭を設く。国司荘司は依然として存すれば,民両君を戴くと云うべし。中略 足利氏の国郡を制する,他の政令なく,国郡郷荘尽く割て士に与え,租税はその主の指揮に任せ,別に五十分一の課を充て,自から奉とす。譬えば租米五十石を出すべき地は,別に一石を出さしめて京に運送し,将軍の厨料に充られしなり。或は増して二十分一に至りし年もあり。守護地頭は自からその出る用を量りて入ることを制する故に,両税なり。中略 又段銭,棟別,倉役は時を撰ばずして之を取る。段銭とは田地にかけて銭を出さしむ,今の高掛りと云うが如し。棟別とは軒別に割附て銀を出さしむるなり,今云う鍵役などに同じ。倉役とは富民富商人へばかり割附るなり,今云う分限割と云うに同じ。倉役,義満公の代には四季にあてられ,義教公の代には一箇年十二度に及び,義政公には十一月九度,十二月八度に至りしゆえ,百姓は田宅を棄てゝ逃散し,商旅,戸を閉て財を交えざりしこと応仁記に出,云々。又云く,豊臣家一統の後,文禄三年に至り,定則ありし所は,天下の租税三分の二は地頭取て,三分の一は百姓の得分たるべしとあり,云々。又云く,[茲]に国初【(この部分二段組み)徳川】に及び,勝国の苛刻を厭い,租税三分の一を弛め【四公六民の法を云う】民の倒懸の急を解き,云々。

 右沿革考の説に拠れば,古来我国の租税は甚だ苛刻なりしこと疑なし。徳川の初に至て少しく弛めたるも,年月を経るに従いいつとなく旧の苛税に復したることなり。

 又古より世の識者と称する人の説に,農民は国の本なれども,工商の二民は僅に賦を出すか出さずして坐食逸飽,理に於てあるまじきことなりとて,頻に工商を咎れども,よく事実を詳にすれば,工商は決して逸民に非ず。稀に富商大賈は逸して食う者もあらんと雖ども,こは唯その財本に依て活計を立るものなれば,豪農が多分の田地を所持して坐食する者に異ならず。以下の貧商に至ては仮令い直に公の税を払わざるも,その生産の難きは農民に異ならず。日本には古来工商の税なし。その税なきが故に,之を業とする者も自から増加せざるを得ず。されどもその増加するや亦必ず際限あるものなり。この際限は農の利と工商の利と互に平均するに至て止むべし。

 譬えば四公六民の税地を耕すは,その利,固より饒なるに非ずと雖ども,平年なれば尚妻子を養うて饑を免かるべし。工商が都邑に住居して無税の業を営むは,農民に比すれば便利なるに似たれども,尚饑寒を免かれざる者多し。その然る由縁は何ぞや。仲間の競に由るものなり。蓋し全国工商の仕事には限ありて,若干の人員あれば之を為すべきに定りたる処へ,仕事を増さずして人員のみを増せば,十人にて為すべき商業をば二,三十人の手に分ち,百人にて取るべき日傭賃をば二,三百人に配分し,三割の口銭を得べき商売も一割に減し,二貫文を取るべき賃銭も五百文に下り,自から仲間の競業を以て自からその利潤を薄くし,却て他の便利を為して農民も亦この便利を受くべければなり。故に工商の名は無税なりと云うと雖ども,その実は有税の農に異ならず。或は工商に利益の多きことあらば,その多き由縁は,政府にて識者の言を用い,様々の故障を設けて,農民の商に帰するを妨げ,その人数の割合尚少なきがために,聊か専売の利を得せしめたるものなり。この事情に由て考れば,農と工商とは正しくその利害を共にして,共に国内有用の事業を為すものなれば,その名目に有税と無税との別ありと雖ども,何れも逸民に非ず。双方共に国財を蓄積する種類の人民と云うべし。

 故に人間の交際に於て,治者流と被治者流とに区別したるものを,今爰には経済の上にて生財者と不生財者との二種に分つべし。即ち農工商以下被治者の種族は国財を生ずる者にして,士族以上治者の種族は之を生ぜざる者なり。或は前段の文字を用いて,一を蓄積の種族と云い,一を費散の種族と云うも可なり。この二種族の関係を見るに,その労逸損徳の有様,固より公平ならずと雖ども,人口多くして財本の割合に過ぎ,互に争うて職業を求るの勢に迫れば,富者は逸して貧者は労せざるを得ず。是亦独り我邦のみに非ず,世界普通の弊害にして,如何ともすべからざるものなれば深く咎るに足らず。且又士族以上,治者流の人を不生財又費散の種族と名くと雖ども,政府にて文武の事を施行して世の事物の順序を整斉ならしむるは,経済を助るの大本なれば,政府の歳出を以て一概に之を無益の費と云うべからず。唯我国の経済に於て,特に不都合にして特に他の文明国に異なる所は,この同一様の事なる国財の蓄積と費散とを処置するに,同一様の心を以てせざるの一事に在り。

 古来我国の通法に於て,人民は常に財を蓄積し,譬えば四公六民の税法とすれば,その六分を以て僅に父母妻子を養い,残余の四分は之を政府に納め,一度び己が手を離ればその行く処を知らず,その何の用に供するを知らず,余るを知らず,足らざるを知らず。概して云えば之を蓄積するを知てその費散の道を知らざるものなり。政府も亦既に之を己が手に請取るときは,その来る処を忘れ,その何の術に由て生じたるを知らず,恰も之を天与の物の如くに思うて,之を費し之を散じて一も意の如くならざるはなし。概して云えば之を費散するを知て蓄積の道を知らざるものなり。

 経済の第一則に,蓄積と費散とは正しく同一様の事にして,正しく同一様の心を以て処置すべきものなりと云えり。然るに今この有様を見れば,同一様の事を為すに二様の心を以てし,之を譬えば一字の文字を書くに,偏と作とを分て二人の手を用るが如し。如何なる能筆にても字を成すべからざるや明なり。斯の如く上下の心を二様に分て,各その所見の利益を別にし,互に相知らざるのみならず,互にその挙動を見て相怪むに至れり。安ぞ経済の不都合を生ぜざるを得んや。費すべきに費さず,費すべからざるに費し,到底その割合の宜しきを得べからざるなり。

 足利義政が大乱の最中に銀閣寺を興し,花御所の甍珠玉に金銀を飾りて六十万緡,高倉御所の腰障子一間に二万銭を費す程の奢侈にて,諸国の人民へ段銭,棟別を譴責して,政府に一銭の余財もなきは,上下共に貧なる時節なり。太閤が内乱の後に大阪城を築き,次で又朝鮮を征伐し,外は兵馬の冗費,内は宴楽の奢侈を尽して,尚金馬の貯あるは,下は貧にして上は殷富なる時節と云うべし。又歴代の内にて賢明の名ある北条泰時以下時頼貞時等の諸君は,その自から奉ずること必ず質素倹約なりしことならん。下て徳川の時に至り,その初代には明君賢相輩出して,政府の体裁は一も間然すべきものなし。之を義政の時代などに比すれば同日の論に非ずと雖ども,民間に富を致して事を企たる者あるを聞かず。北条及び徳川の遺物として今日に伝えたるものゝ内にて最も著しきは,鎌倉の五山なり,江戸及び名古屋の城なり,日光山なり,東叡山なり,増上寺なり,何れも盛大なるものなれども,独り怪しむべきはその時代の日本にして斯る盛大なる工業を興し得たるの一事なり。果して全国経済の割合に適したるものか,余輩は決して之を信ぜず。

 今国内にある城郭は勿論,神社仏閣の古跡とて,或は大仏大鐘,或は大伽藍等の壮大なるものあるは,大概皆神道仏教の盛なりし徴には非ずして,独裁君主の盛なるを証するに足るのみ。稀には水道堀割等の大工を起したることもあれども,決して人民の意に出たるに非ず。唯その時の君相有司の好尚に従い,所謂民の疾苦を問うてその便利を推量したるものゝみ。固より古代無智の世の中なれば,政府にて独り事を為すは必然の勢にて,誰か之を怪しむ者あらん。今よりその挙動を是非するの理は万々あるべからずと雖ども,国財の蓄積と費散とその路を別にして,経済上に限なき不都合を生じ,明君賢相の世にても暴君汚吏の時にても,共にこの弊を免かれざりしは明に証すべきことなれば,後世苟も爰に眼力の達したる者あらば,再びその覆轍を踏むべからず。

 明君賢相は必ず有用の事に財を費すべしと雖ども,その有用とは君相の意を以て決する所の有用なれば,人々の好尚に由て武を有用とする者もあらん,文を有用とする者もあらん,或は真に有用の事を有用とすることもあらんと雖ども,又は無用の事を有用とすることもあらん。足利義政の時代に,政府より令して一切借金の約束を破りて之を徳政と名けたることあり。徳川の時代にも之に似たる例なきに非ず。是等も政府より徳と云えば徳なるが如し。何れにも国内の蓄積者は費散者の処置に付き少しも喙を入れざる風なれば,費散者は出を量りて入を制するに非ず,出入共に限なく,唯下民の生計を察して従前の有様に止まれば,之を最上の仁政として他に顧る所あらず。年々歳々同一様の事を繰返して,此処に積ては彼処に散じ,一字の文字を二人にて書き,以て数百年の今日に至り,顧て古今を比較して全国経済の由来を見れば,その進歩の遅きこと実に驚くに堪えたり。

 その一例を挙て云わんに,徳川の治世二百五十年,国内に寸兵を用いたることもなきは,万古世界中に比類なき太平と云うべし。この世界に比類なき太平の世に居れば,日本の人民愚なりと雖ども,工芸の道開けずと雖ども,仮令いその蓄積は徐々たりと雖ども,二百五十年の間には経済の上に長足の進歩を為すべき筈なるに,事実に於て然らざるは何ぞや。独り之を将軍及び諸藩主の不徳のみに帰すべからず。若し或は之を君相有司の不徳不才に由て来りし禍とせば,その不徳不才はその人の罪に非ず,その地位に居れば止むを得ず不徳不才ならざるを得ざるの勢と為りて,その勢に迫られたるものなり。故に経済の一方より論ずれば,明君賢相も思の外に頼母しからず,天下太平も思の外に功能薄きものなり。

 或人の説に,戦争は実に恐るべく悪むべき禍なれども,その国の経済に差響く処は,之を人身に譬るに金創の如し,一時は人の耳目を驚かすと雖ども,生命貴要の部分に係らざれば,その癒着は案外に速なるものなり,唯経済に就て格別に恐るべきは,金創にあらずして彼労症の如く,月に日に次第に衰弱する病に在りと。この説に拠て考れば,我日本の経済に於ても,元と権力の偏重よりして蓄積者と費散者との二流に分ち,双方の間に気脈を通ぜずして,月に日に衰弱せざれば,歳に月に同一の有様に止まり,或は数百年の間に少しく進みたるも到底盛大活[溌]の域に入るを得ずして,徳川氏二百五十年の治世にも著しき進歩を見ざりしは,所謂経済の労症なるべし。【(この部分二段組み)昔より日本の学者の論に,政府の勘定奉行と郡奉行とは課を分たざるべからずと云えり。蓋しその趣意は,勘定奉行に收税の権を任すれば自から聚斂に陷るが故に,民に近き郡奉行の権を以て之を平均するの積りならん。固より一政府同穴の内に在る役人に課を分つも,事実に益はなかるべしと雖ども,その論の意を推して考れば,費散者の一手に財用の権を附するの害は,古人も暗に知らざるに非ざるなり。】

 経済の第二則に,財を蓄積し又これを費散するには,その財に相応すべき智力とその事を処するの習慣なかるべからずとあり。抑も理財の要は,活[溌]敢為の働と節倹勉強の力とに在るものにて,この二者その宜しきを得て,互に相制し互に相平均して,始て蓄積費散の盛大を致すべきなり。若し然らずして一方に偏し,敢為の働なくして節倹を専とすれば,その弊や貪慾吝嗇に陷り,節倹の旨を忘れて敢為の働を逞うすれば,その弊や浪費乱用と為り,何れも理財の大本に背くものと云うべし。然るに前段に云える如く,全国の人を蓄積者と費散者との二種族に区分して,その分界判然たるときは,その種族全体の品行に於て必ず一方に偏し,甲の種族には節倹勉強の元素を有するも,敢為の働を失して吝嗇の弊に陷らざるを得ず,乙の種族には活[溌]敢為の元素を有するも,節倹の旨を失して浪費の弊に陷らざるを得ず。

 日本の国人,その教育洽ねからずと雖ども,天稟の愚なるに非ざれば理財の一事に於て特に拙なりと云うの理なし。唯その人間交際の勢に由て分つべからざるの業を分て各種族の習慣を成し,遂にその品行を殊にして拙を見わすに至りしものなり。その品行の素質は決して悪性なるに非ず,適宜に之を調和すれば敢為活[溌],節倹勉強と名る物を生じて,理財に無二の用を為すべき筈なれども,その用を為さずして却て浪費乱用,貪慾吝嗇の形に変じたるは,必竟素質の悪性に非ず,調和の宜を失したるものなり。之を譬えば酸素と窒素とを調和すれば空気と名る物を生じて,動植物の生々に欠くべからざる功徳を為すべき筈なれども,この二元素を分析して各別にするときは,功徳を為さヾるのみならず,却て物の生を害するが如し。

 古来我国理財の有様を見るに,銭を費して事を為す者は常に士族以上治者の流なり。政府にて土木の工を興し,文武の事を企るは勿論,都て世間にて書を読み,武を講じ,或は技芸を研き,或は風流を楽む等,その事柄は有用にても無用にても,一身の衣食を謀るの外に余地を設けて,人生の稍や高尚なる部分に心を用ゆる者は,必ず士族以上に限り,その品行も自から穎敏活[溌]にして,敢て事を為すの気力に乏しからず。実に我文明の根本と称すべきものなれども,唯如何せん,理財の一事に至ては数千百年の勢に従い,出るを知て入るを知らず,散ずるを知て積むを知らず,有る物を費すを知て,無き物を作るを知らざる者なれば,その際に自から浪費乱用の弊を免かるべからず。加之因襲の久しき,遂に一種の風俗を成し,理財を談ずるは士君子の事に非ずとして,之を知らざるを恥とせざるのみならず,却て之を知るを恥と為し,士君子の最も上流なる者と,理財の最拙なる者とは,二字同義なるに至れり。迂遠も亦極ると云うべし。

 又一方より農商以下被治者の種族を見れば,上流の種族に対して明に分界を限り,恰も別に一場の下界を開て,人情風俗を殊にし,他の制御を蒙り,他の軽侮を受け,言うに称呼を異にし,坐するに席を別にし,衣服にも制限あり,法律にも異同あり,甚しきは生命の権義をも他に任するに至れり。徳川の律書に,

  足軽体に候共軽き町人百姓の分として法外の雑言等不届の仕方にて不得止切殺し候者は吟味の上紛無之候わば無構事とあり。この律に拠れば,百姓町人は常に幾千万人の敵に接するが如く,その無事なるは幸にして免かるゝのみ。既に生命をも安んずること能わず,何ぞ他を顧るに遑あらん。廉恥功名の心は身を払て尽き果て,又文学技芸等に志すべき余地を遺さず,唯上命に従て政府の費用を供するのみにて,身心共に束縛を蒙るものと云ふべし。然りと雖ども人類の天性に於て,心の働は何様の術を用るも全く之を圧窄禁錮すべきものに非ず,何れにか間隙を求めて僅に漏洩の路あらざるはなし。今この百姓町人等の身分も進退固より不自由なりと雖ども,私財を蓄積して産を営むの一事に於ては,その心の働を伸ばすべき路を開て之を妨るもの少なし。是に於てか稍や気力ある者は蓄財に心を尽して,千辛万苦を憚らず節倹勉強して往々巨万の富を致す者なきに非ず。されども元とこの輩は,唯富を欲して富を致したる者にて,他に志す所あるに非ず,富を求るは他の目的を達するための方便に非ずして,正に是れ生涯無二の目的なるが如し。

 故に人間世界,富の外に貴ぶべきものなし,富を抛て易うべきものなし,学術以上人心の高尚なる部分に属する所の事件は,之を顧みざるのみならず,却て奢侈の一箇条として之を禁じ,上流の人の挙動を見て窃にその迂遠を愍笑するに至れり。事勢に於ては亦謂れなきに非ざれども,その品行の鄙劣にして敢為の気象なきは,真に賤むに堪えたるものなり。試に日本国中富豪と称する家の由来とその興敗の趣とを探索せば,明に事の実証を見るべし。古来大賈豪農の家を興したる者は,決して学者士君子の流に非ず,百に九十九は無学無術の野人にして,恥ずべきを恥じず,忍ぶべからざるを忍び,唯吝嗇の一方に由て蓄積したる者のみ。又その家を亡す者を見れば,気力乏しくして蓄積の術を怠るか,或は酒色游宴肉体の欲を恣にして銭を失うものに過ぎず。彼の士族の流が飄然として産を治めず,その好む所に耽て敢てその志を屈せず,敢てその志す所の事を為して貧を患えざる者に比すれば,同日の論に非ず。固より肉体の欲を以て家を破るも,飄然として家を破るも,その家を破るの実は同様なれども,心思の向う所を論ずれば,上流の人には尚智徳の働に余地を存し,下流の人には唯銭を好み肉体の欲に奉ずるの一元素あるが如し。その品行の異別亦大なりと云うべし。

 右の次第を以て被治者流の節倹勉強はその形を改めて貪欲吝嗇と為り,治者流の活[溌]敢為はその性を変じて浪費乱用と為り,共に理財の用に適せず,以て今日の有様に至りしものなり。抑も我日本を貧なりと云うと雖ども,天然の産物乏しきに非ず,況や農耕の一事に於ては,世界万国に対して誇るべきもの多きをや。決して之を天然の貧国と云うべからず。或は税法苛刻ならんか,税法苛刻なりと雖ども,その税は集めて之を海に投げるに非ざれば,国内に留て財本の一部分たらざるを得ず。然るに今日の有様にて全国の貧なるは何ぞや。必竟財の乏しきに非ず,その財を理するの智力に乏しきなり。その智力の乏しきに非ず,その智力を両断して上下各その一部分を保つが故なり。之を概言すれば,日本国の財は開闢の初より今日に至るまで,未だ之に相応すべき智力に[逢]わざるものと云うべし。蓋しこの智力の両断したるものを調和して一と為し,実際の用に適せしむるは経済の急務なれども,数千百年の習慣を成したるものなれば,一朝一夕の運動を以て変革すべき事に非ず。近日に至て少しくその運動の端を見るが如くなれども,上下の種族,互にその所長を採らずして却てその所短を学ぶ者多し。是亦如何ともすべからざるの勢にて,必ずしもその人の罪に非ず。蕩々たる天下の大勢は上古より流れて今世に及び,億兆の人類を推倒してその向う所に傾きしものなれば,今に於て俄に之に抗抵すること能わざるも亦宜なりと云うべし。

文明論乃概略 巻之五 終

文明論之概略 巻之六 第十章 自国の独立を論ず

『福澤諭吉著作集 第4巻 文明論之概略』(慶應義塾大学出版会,2002)に基づく。
更新:2007-12-31 作成:上田修一ueda@flet.keio.ac.jp