ふくざわゆきち | 福澤諭吉

文明論之概略 巻之四 第七章 智徳の行わるべき時代と場所とを論ず

이윤진이카루스 2011. 4. 9. 07:14

文明論之概略 巻之四

第七章 智徳の行わるべき時代と場所とを論ず

 事物の得失便不便を論ずるには時代と場所とを考えざるべからず。陸に便利なる車も海に在ては不便利なり。昔年便利とせし所のものも今日に至ては既に不便なり。又これを倒にして今日の世には至便至利のものたりと雖ども,之を上世に施すべからざるもの多し。時代と場所とを考の外に置けば,何物にても便利ならざるものなし,何事にても不便利ならざるものなし。故に事物の得失便不便を論ずるとは,その事物の行わるべき時節と場所とを察すると云うに異ならず。時代と場所とにさえ叶えば事物に於て真に得失はなきものなり。中古発明長柄の鎗は中古の戦に便利なれども,之を明治年間に用ゆべからず。東京の人力車は東京の市中に便利なれども,之を「ロンドン」「パリス」に用ゆべからず。戦争は悪事なれども敵に対すれば戦わざるを得ず。人を殺すは無道なれども戦のときには殺さゞるを得ず。立君専制の暴政は賤しむべしと雖ども,「ピイトル」帝の所業を見て深く咎むべからず。忠臣義士の行状は好みすべしと雖ども,無君の合衆国を評して野蛮と称すべからず。彼も一時一処なり。此れも一時一処なり。到底世の中の事に,一以て之を貫くべき道はあるべからず。唯時と処とに随て進むべきのみ。

 時を察し処を視るの事は極て難し。古来の歴史に於て人の失策と称するは,悉皆この時と処とを誤たるものなり。その美事盛業と称するはよくこの二者に適したるものなり。蓋しそのこれを視察するの難きは何ぞや。処には類似したるもの多く,時には前後緩急の機あればなり。譬えば実子と養子と相類するが故に,養子を御するに実子を遇するの法を以てして大に誤ることあり。或は馬と鹿と相似たるが故に,馬を飼うの術を用いて鹿を失うことあり。或は宮と寺とを誤り,或は提灯と釣鐘とを誤り,或は騎兵を沼地に用いて重砲を山路に牽かしむることあり。或は東京と「ロンドン」とを誤認めて「ロンドン」に人力車を用いんとする等,この類の失策は計るに遑あらず。又時に就て論ずれば,中古の戦争と今の戦争と相似たればとて,中古に便利なりし長柄の鎗を今世の戦に用ゆべからず。所謂時来れりと称するものは多くは真の時機にに後れたる時なり。食事の時は飯を喰う時なり,飯を炊くの時はその以前になかるべからず。飯を炊かずして空腹を覚え,乃ち時来れりと云うと雖ども,その時は炊きたる飯を喰うべき時にて,飯を炊くべき時には非ず。又眠を貪て午前に起き,その起たる時を朝と思うと雖ども,真の朝は日出の時に在て,その時は睡眠の中に既に過ぎたるが如し。故に場所は撰ばざるべからず。時節は機に後るべからざるなり。

 前章には智恵と徳義との区別を示してその功用の異なる所を論じたり。今またその行わるべき時節と場所とのことを弁論して,以てこの一章を終るべし。

 開闢の後,野蛮を去ること遠からざる時代には,人民の智力未だ発生せずしてその趣恰も小児に異ならず,内に存するものは唯恐怖と喜悦との心のみ。地震,雷霆,風雨,水火,皆恐れざるものなし。山を恐れ海を恐れ,旱魃を恐れ飢饉を恐れ,都てその時代の人智を以て制御すること能わざるものは,之を天災と称して唯恐怖するのみ。或はこの天災なるものを待て来らざるか,又は来て速に去ることあれば,乃ち之を天幸と称して唯喜悦するのみ。譬えば旱の後に雨降り,飢饉の後に豊年あるが如し。而してこの天災天幸の来去するや,人民に於ては悉皆その然るを図らずして然るものなれば,一に之を偶然に帰して,嘗て人為の工夫を運さんとする者なし。 工夫を用いずして禍福に遇うことあれば,人情としてその源因を人類以上のものに帰せざるを得ず。即ち鬼神の感を生ずる由縁にて,その禍の源因を名けて悪の神と云い,福の源因を名けて善の神と云う。凡そ天地間に在る一事一物,皆これを司る所の鬼神あらざるはなし。日本にて云えば八百万神の如き是なり。その善の神に向ては幸福を降さんことを願い,悪の神に向ては禍災を避けんことを願い,その願の叶うと否とは我工夫に在らずして鬼神の力に在り。その力を名けて神力と云い,神力の扶助を願うことを名けて祈と云う。即ちその時代に行わるゝ祈祷なるもの是なり。

 この人民等の恐怖し又喜悦する所のものは,啻に天災と不幸とのみならず,人事に於ても亦斯の如し。道理に暗き世の中なれば,強大なる者の腕力を以て小弱なる者を虐するも,理を以て之を拒むの術なくして唯これを恐怖するのみ。その有様は殆ど天災に異ならず。故に小弱なる者は一方の強大に依頼して他の強暴を防ぐの外に手段あるべからず。この依頼を受る者を名けて酋長と云う。酋長はその腕力に兼て聊かの智徳を有し,他の強暴を制して小弱を保護し,之を保護すること愈厚ければ人望を得ることも亦愈固くして,遂に一種の特権を握り,或は之を子孫に伝ることあり。世界中何れの国にても,草昧の初に於ては皆然らざるものなし。我邦王代に於ては,天子,国権を執り,中古,関東にて源氏の威を専らにしたるもその一例なり。

 この酋長なる者,既に権威を得ると雖ども,無智の人民,反覆常なくして之を維持すること甚だ難し。之に諭すに高尚の道理を以てすべからず,之に説くに永遠の利益を以てすべからず。その方向を一にして共に一種族の体裁を保たんとするには,唯その天然に備わりたる恐怖と喜悦との心に依頼して,目前の禍福災幸を示すの一法あるのみ。これを君長の恩威と云う。是に於てか始て礼楽なるものを作り,礼は以て長上を敬するを主として自から君威の貴きを知らしめ,楽は以て無言の際に愚民を和して自から君徳を慕うの情を生ぜしめ,礼楽以て民の心を奪い,征伐以て民の腕力を制し,衆庶を率いて識らず知らずその処を得せしめ,善き者を褒てその喜悦の心を満足せしめ,悪き者を罰してその恐怖の心を退縮せしめ,恩威並行われて人民も自から苦痛なきに似たり。

 然りと雖どもそのこれを褒めこれを罰するは皆君長の心を以て決することなれば,人民は唯この褒罰に遇うて恐怖し又喜悦するのみ。褒罰の由て来る由縁の道理は之を知ることなし。その事情恰も天の禍災幸福を蒙るが如く,悉皆その然るを図らずして然るものにて,一事一物も偶然に出でざるはなし。故に一国の君主は偶然の禍福の由て来る所の源なれば,人民より之を抑て自から亦人類以上の観を為さゞるを得ず。支那にて君主のことを尊崇して天の子と称するも蓋しこの事情に由て起りし名称ならん。譬えば古の歴史に往々百姓の田租を免すと云うことあり。政府にて何程の倹約を行うも,国君以下衣食住の入用と多少の公費は欠くべからず。然るに幾年の間,年貢を取らずして尚この諸入費に差支なきは,前年の租税苛酷にしてその時に余財ありし証なり。この苛税を出しても人民はその出す所以を知らず。今頓に幾年の間,無税と為るも,人民はその無税と為りし所以を知らず。苛き時は之を天災と思うて恐怖し,寛なるときは之を天幸と思うて喜悦するのみ。その災もその幸も天子より降り来ることにて,天子は恰も雷と避雷針と両様の力あるものゝ如し。雷霆の震するも天子の命なり,この雷霆を避けしむるも天子の命なり。人民はこれに向て唯祈願するの一術あるのみ。その天子を尊崇すること鬼神の如くするも亦理なきに非ざるなり。

 今人の心を以て右の事情を考れば極て不都合なるに似たれども,時勢の然らしむる所,決して之を咎むるの理なし。この時代の人民に向ては,共に智恵の事を語るべからず,共に規則を定め難し,共に約束を守り難し。譬えば堯舜の世に今の西洋諸国の法律を用いんとするも,その法律の趣意を解してよく之に従う者なかるべし。そのこれに従わざるは人民の不正に非ず,その法律の趣意を解すべき智恵あらざればなり。この人民を放て各その赴く所に向わしめなば,何等の悪事を犯して世のために何等の災害を醸すべきやも測るべからず。唯酋長なる者,独りよくその時勢を知り,恩を以て之を悦ばしめ,威を以て之を嚇し,一種族の人民を視ること一家の子供の如くし,之を保護維持して,大は生殺与奪の刑罰より,小は日常家計の細事に至るまでも,君上の関り知らざるものなし。その趣を見れば天下は正しく一家の如く又一教場の如くにして,君上はその家の父母の如く又教師の如く,その威徳の測るべからざるは鬼神の如く,一人の働を以て父母と教師と鬼神との三職を兼帯する者なり。

 この有様にて国君よく私慾を制し己を虚うして徳義を脩れば,仮令い智恵は少なくとも仁君明天子の誉あり。之を野蛮の太平と名く。その時代に在ては固より止むを得ざることにて,亦これを美事と云うべし。陶虞三代の治世即ち是なり。或は然らずして国君,私の慾を逞うし,徳を施さずして唯威力のみを用るときは,則ち暴君の名あり。所謂野蛮の暴政なるものにて,人民はその生命をも安んずること能わず。結局野蛮の世には人間の交際に唯恩威の二箇条あるのみ。即ち恩徳に非ざれば暴威なり,仁恵に非ざれば掠奪なり。この二者の間に智恵の働あるを見ず。古書に,道二あり,仁と不仁となりとは,是を謂うなり。この風は唯政治の上に行わるゝのみならず,人の私の行状に就ても皆双方の極度に止て,明にその界を分てり。和漢著述の古書を見るに,経書にても史類にても,道を説て人の品行を評するには悉皆徳義を以て目的と為し,仁不仁,孝不孝,忠不忠,義不義,正しく切迫に相対して,伯夷に非ざる者は盗跖なり,忠臣に非ざる者は賊なりとて,その間に智恵の働を容れず。偶ま智恵の事を為すものあれば之を細行末事と称して顧みる者なし。畢竟野蛮不文の時代に在ては,人間の交際を支配するものは唯一片の徳義のみにて,この外に用ゆべきものあらざるの明証なり。

 人文漸く開化し智力次第に進歩するに従て,人の心に疑を生じ,天地間の事物に遇うて軽々之を看過することなく,物の働を見ればその働の源因を求めんとし,仮令い或は真の源因を探り得ざることあるも,既に疑の心を生ずればその働の利害を撰て,利に就き害を避るの工夫を運らすべし。風雨の害を避るには家屋を堅くし,河海の溢るゝを防ぐには土堤を築き,水を渡るに船を造り,火を防ぐに水を用い,医薬を製して病を療し,水理を治めて旱魃に備え,稍や人力に依頼して安心の地位を作るに至るべし。

 既に人力を以て自から地位を得るの術を知れば,天災を恐怖するの痴心は次第に消散して,昨日まで依頼せし鬼神に対しても半はその信仰を失わざるを得ず。故に智恵に一歩を進れば一段の勇気を生じ,その智恵愈進めば勇力の発生も亦限あることなし。試に今日西洋の文明を以てその趣を見るに,凡そ身外の万物,人の五官に感ずるものあれば先ずその物の性質を求めその働を糺し,随て又その働の源因を探索して,一利と雖ども取るべきは之を取り,一害と雖ども除くべきは之を除き,今世の人力の及ぶ所は尽さゞることなし。水火を制御して蒸気を作れば大平洋の波濤を渡るべし,「アルペン」山の高きも之を砕けば車を走らしむべし。避雷の法を発明したるの後は雷霆もその力を逞うするを得ず,化学の研究漸く実効を奏して飢饉も亦人を殺すを得ず。電気の力,恐るべしと雖ども,之を使えば飛脚の代用を為さしむべし。光線の性質,微妙なりと雖ども,影を捕えて物の真像を写すべし。風波の害を及さんとするものあれば,港を作て船を護り,流行病の来て襲わんとするものあれば,之を駆て人間に近づくを得せしめず。

 概して之を云えば,人智を以て天然の力を犯し,次第にその境に侵入して造化の秘訣を発し,その働を束縛して自由ならしめず,智勇の向う所は天地に敵なく,人を以て天を使役する者の如し。既に之を束縛して之を使役するときは,又何ぞ之を恐怖して拝崇することをせんや。誰か山を祭る者あらん。誰か河を拝する者あらん。山沢,河海,風雨,日月の類は文明の人の奴隷と云うべきのみ。

 既に天然の力を束縛して之を我範囲の内に籠絡せり。然ば則ち何ぞ独り人為の力を恐怖して之に籠絡せらるゝの理あらん。人民の智力次第に発生すれば,人事に就ても亦その働と働の源因とを探索して軽々看過することなし。聖賢の言も悉く信ずるに足らず,経典の教も疑うべきものあり。堯舜の治も羨むに足らず,忠臣義士の行も則とるべからず。古人は古に在て古の事を為したる者なり,我は今に在て今の事を為す者なり。何ぞ古に学で今に施すことあらんとて,満身恰も豁如として天地の間に一物以て我心の自由を妨るものなきに至るべし。

 既に精神の自由を得たり,又何ぞ身体の束縛を受けん。腕力漸く権を失して智力次第に地位を占め,二者互に歯するを得ずして人間の交際に偶然の禍福を受る者少し。世間に強暴を恣にする者あれば道理を以て之に応じ,理に伏せざれば衆庶の力を合して之を制すべし。理を以て暴を制するの勢に至れば,暴威に基きたる名分も亦これを倒すべし。故に政府と云い人民と云うと雖ども,唯その名目を異にし職業を分つのみにて,その地位に上下の別あるを許さず。政府よく人民を保護し小弱を扶助して強暴を制するは即ちその当務の職掌にて,之を過分の功労と称するに足らず,唯分業の趣意に戻らざるのみ。或は国君なる者自から徳義を脩め,礼楽征伐を以て恩威を施さんとするも,人民は先ずその国君の何物たるを察し,その恩威の何事たるを詳にし,受くべからざるの私恩は之を受けず,恐るべからざるの暴威は之を恐れず,一毫をも貸さず一毫をも借らず,唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉むべし。智力発生する者は能く自からその身を支配し,恰も一身の内に恩威を行うが故に他の恩威に依頼するを要せず。譬えば善を為せば心に慊きの褒ありて,善を為すべきの理を知るが故に,自から善を為すなり。他人に媚るに非ず,古人を慕うに非ず。悪を為せば心に恥るの罰ありて,悪を為すべからざるの理を知るが故に悪を為さゞるなり。他人を憚るに非ず,古人を恐るゝに非ず,何ぞ偶然に出たる人の恩威を仰で之を恐怖喜悦することをせんや。

 政府と人民との関係に付き,文明の人の心に問わば左の如く答うべし。国君と雖ども同類の人のみ,偶然の生誕に由て君長の位に居る者か,又は一時の戦争に勝て政府の上に立つ者より外ならず,或は代議士と雖ども素と我撰挙を以て用いたる一国の臣僕のみ,何ぞこの輩の命令に従て一身の徳義品行を改る者あらんや,政府は政府たり,我は我たり,一身の私に就ては一毫の事と雖ども豈政府をして喙を入れしめんや,或は兵備刑典懲悪の法も我輩の身に取ては無用の事なり,之がために税を出すは我輩の責に非ずと雖ども,悪人多き世の中にて之と雑居するが為に止むを得ずして姑く之を出し,その実は唯この悪人に投与するのみ,然るを況や政府にて,宗教学校の事を支配し,農工商の法を示し,甚しきは日常家計の事を差図して,直に我輩に向て善を勧め生を営むの道を教るがためにとて銭を出さしめんとするに於てをや,謂れなきの甚しきものなり,誰か膝を屈して人に依頼し我に善を勧めよとて請求する者あらん,誰か銭を出して無智の人に依頼し我に営生の道を教えよとて歎願する者あらんと。

 文明の人の心事を写してその趣を記せば大凡そ斯の如し。この輩に向て無形の徳化を及ぼし私の恩威を以て之を導かんとするも亦無益ならずや。固より今の世界の有様にて何れの地方にても全国の人民悉皆有智なるには非ずと雖ども,開闢を去ること次第に遠くしてその国の文明却歩することなくば,人民の智恵は必ず進て一般の間に平均すべきが故に,仮令い或は旧習に浸潤し上の恩威を仰て下民の気力甚だ乏しきに似たるものあるも,事に触れ物に接して往々疑心を発せざるを得ず。譬えば一国の君主を聖明と称してその実は聖明ならざることあり,民を視ること赤子の如しと云てその実は父母と赤子と租税の多寡を争い,父母は赤子を却し赤子は父母を欺き,その醜態見るべからざることあり。この際に当ては中人以下の愚民にても他の言行の齟齬するを疑い,仮令い之に向て抵抗せざるも,その処置を怪しまざる者なし。既に之を疑い又これを怪むの心を生ずるときは,信心帰依の念は忽ち断絶して又これを御するに徳化の妙法を用ゆべからず。その明証は歴史を読で知るべし。

 和漢にても西洋にても,仁君の世に出でゝよく国を治めたるは往古の時代なり。和漢に於ては近世に至るまでもこの君を造らんとして常に之を誤り,西洋諸国に於ては千六,七百年の頃より仁君漸く少なくして,千八百年代に至ては仁君なきのみならず智君もなきに至れり。こは国君の種族に限りて徳の衰えたるに非ず,人民一般に智徳を増したるがために君長の仁徳を輝すに処なきなり。之を譬えば今の西洋諸国に仁君を出すも月夜に提灯を灯すが如きのみ。故に云く,仁政は野蛮不文の世に非ざれば用を為さず,仁君は野蛮不文の民に接せざれば貴からず,私徳は文明の進むに従て次第に権力を失うものなり。

 徳義は文明の進むに従て次第に権力を失うと云うと雖ども,世に徳義の分量を減ずるに非ず,文明の進むに従て智徳も共に量を増し,私を拡て公と為し,世間一般に公智公徳の及ぶ所を広くして次第に太平に赴き,太平の技術は日に進み争闘の事は月に衰え,その極度に至ては土地を争う者もなく財を貪る者もなかるべし。況や君長の位を争うが如き鄙劣なる事に於てをや。君臣の名義などは既に已に地を払て小児の戯にも之を言う者なかるべし。戦争も止むべし,刑法も廃すべし。政府は世の悪を止るの具に非ず,事物の順序を保て時を省き無益の労を少くするがために設るのみ。世に約束を違る者あらざれば貸借の証文も唯備忘のために記すのみ,他日訴訟の証拠に用るに非ず。世に盗賊あらざれば窓戸は唯風雨を庇い犬猫の入るを防ぐのみにて錠前を用るに及ばず。道に遺を拾う者あらざれば邏卒は唯遺物を拾うて主人を求るに忙わしきのみ。大砲の代に望遠鏡を作り,獄屋の代に学校を建て,兵士罪人の有様は僅に古画に存するか,或は芝居を見るに非ざれば想像すべからず。家内の礼義厚ければ又教化師の説法を聞くに及ばず,全国一家の如く,毎戸寺院の如し。父母は教主の如く,子供は宗徒の如し。世界の人民は恰も礼譲の大気に擁せられて徳義の海に浴するものと云うべし。之を文明の太平と名く。今より幾千万年を経てこの有様に至るべきや,余輩の知る所に非ず,唯是れ夢中の想像なりと雖ども,若し人力を以てよくこの太平の極度に達し得ることあらば,徳義の功能も亦洪大無辺なりと云わざるを得ず。故に私徳は野蛮草昧の時代に於てその功能最も著しく,文明の次第に進むに従て漸く権力を失いその趣を改めて公徳の姿と為り,遂に数千万年の後を推して文明の極度を夢想すれば又一般にその徳沢を見るべきなり。 右は徳義の行わるゝ時代を論じたるものなり。今又爰にその場所の事を説かん。野蛮の太平は余輩の欲する所に非ず。数千万年の後を待て文明の太平を期するも迂遠の談のみ。故に今の文明の有様にて徳義の行わるべき場所と行わるべからざる場所とを区別するは,文明の学問に於て最も大切なる要訣なり。一国人民の野蛮を去ること愈遠ければこの区別も亦愈明白なるべき筈なるに,不文の人は動もすればこれを知らずして大に目的を誤り,野蛮の太平を維持して直に文明の太平に到らんと欲する者多し。即ち古学者流の人が今の世に在て古を慕うもその源因蓋しこの区別順序を誤るに在るなり。その事の難きは木に縁て魚を求るが如く,梯子を用いずして屋根に登らんとするが如し。その心に思う所と事実に行わるゝ所と常に齟齬するが故に,明にその心事を人に語ること能わざるのみならず,自から問うて自から答うべからず,心緒錯乱,思慮紛紜,一生の間,曖昧の内に惑溺して向う所を知らず,随て建て随て毀ち,自から論じて自から駁し,生涯の事業を加減乗除すれば零に均しきのみ。豈愍むべきに非ずや。この輩は所謂徳義を行う者に非ずして徳義に窘めらるゝ奴隷と云うべきのみ。今その次第を左に示さん。 夫婦親子一家に居るものを家族と云う。家族の間は情を以て交を結び,物に常主なく与奪に規則なし,失うも惜むに足らず,得るも悦ぶに足らず,無礼を咎めず拙劣を恥じず,婦子の満足は夫親の悦と為り,夫親の苦は婦子の患と為り,或は自から薄くして他を厚くし,他の満足を見て却て心に慊きを覚るものなり。譬えば愛子の病に苦しむときに,若しこの病苦を親の身に分て子の苦痛を軽くするの術ありと云う者あらば,天下の父母たるものは必ず身の健康を棄てゝ子を救うことなるべし。概して云えば家族の間には私有を保護するの心なく,面目を全うするの心なく,生命を重んずるの心も亦あらざるなり。故に家族の交には,規則を要せず,約束を要せず,況や智術策略をや,これを用いんとするも用ゆべき場所なく,智恵の事は僅に世帯整理の一部に用を為すのみにて,一家の交際は専ら徳義に依て風化の美を尽せり。 骨肉の縁少しく遠ざかれば少しくこの趣を異にし,兄弟姉妹は夫婦親子よりも遠く,叔父と姪とは兄弟よりも遠く,従兄弟は他人の始なり。肉縁の遠きに従てその交に情合を用ることも亦次第に減少せざるべからず。故に兄弟も成長して家を異にすれば私有の別あり。叔父,姪,従兄弟に至ては最も然り。或は朋友の交にも情合の行わるゝことあり。刎頚の交と云い莫逆の友と云うが如きは,その交際の親しきこと殆ど親子兄弟に異ならずと雖ども,今の文明の有様にてはその区域甚だ狭し。数十の友を会して長く莫逆の交を全うしたるの例は古今の歴史にも未だ之を見ず。又或は世に君臣なる者ありて,その交際は殆ど家族骨肉の如くにして,共に艱苦を嘗め,共に生死を与にし,忠臣の純精なるに至ては親子兄弟を殺して君のためにする者あり。古今世間の通論に於て,この働の由て来る所をば全くその君とその臣との交情に帰するのみにて他に源因を求ることなし。然りと雖どもこの世論は唯一方の光に照されて君臣の名義に掩われ,その所見未だ事の実際に達せざるものなり。若し他の光を以て事実を明にせば,必ず別に大なる源因の在る所を見るべし。蓋しその源因とは何ぞや。人の天賦に備わりたる党与の心と,その時代に行わるゝ人の気風と,この二者,即是なり。

 君臣の初め人数少なくして,譬えば北条早雲が六人の家来と共に剣を杖ついて東に来りしときの如きは,その交情必ず厚くして親子兄弟よりも親しきことならんと雖ども,既に一州一国を領して臣下の数も随て増加し,その君家の位をも次第に子孫に伝るに及では,君臣の交際決して初の如くなるを得べからず。この時に至ては君臣共にその祖先の有様を口碑に伝え,君は臣下の力に依てその家を守らんとし,臣は君家の系統を尊崇してその家に属し,自から一種の党与を結で,事変あれば臣下の力を尽して君の家を守り,兼て亦一身の私を保護し,或は機に投じて利を得ることあり,或はその時代の気風にて一世に功名を燿すべきことあるが故に,粉骨砕身の働をも為すことなり。必ずしもその時の君臣に刎頚の交あるに非ず。故に忠義家の言に,社稷重しとし君を軽しとするとて,役に立たぬ人物とさえ思えば一家に唯一人の主人にても之を処するに非常の道を以てすることあり。之を情合の厚きものと云うべからず。又かの戦場に討死し落城のときに割腹する者とても,多くはその時代の気風にて,一命を棄てざれば武士の面目立たずとて一身の名誉のためにする者か,又は遁逃しても命の助かるべき見込なきが故に命を致すものなり。

 太平記に鎌倉の北条滅亡のとき,元弘三年五月二十二日,東勝寺に於て高時と一所に自殺したる将士八百七十余人,この外門葉恩顧の輩これを聞き伝えて従死する者鎌倉中に六千余人なりとあり。北条高時,何ほどの仁君なればこの六千八百人の臣下に交てその交情親子兄弟の如くするを得たるや。決してあるべからざることなり。この様子を見れば討死割腹等の多少に由てその君徳の厚薄を卜すべからず。暴君のために死し仁君のために死すると云うも,事実君臣の情に迫て命を致す者は思の外に少なきものなり。その源因は別に之を求めざるべからず。故に徳義の功能は君臣の間に於てもその行わるゝ所甚だ狭し。

 貧院病院等を立てゝ窮民を救うは徳義情合の事なれども,元とこの事を起すは窮民と施主との間に交誼あるに非ず,一方は富にして一方は貧なるが故に出来たる事なり。施主は富て且仁なれども,施を受る者は唯貧なるのみにて,その徳不徳はこれを知るべからず。他の人物をも詳にせずして之に交るべき理なし。故に救窮の仕組を盛大にするは,普く人間交際に行わるべき事柄に非ず。唯仁者が余財を散じて徳義の心を私に慰るのみのことなり。施主の本意は人のためにするに非ず,自からためにすることなれば,固より称すべき美事なれども,救窮の仕組愈盛大にしてその施行愈久しければ,窮民は必ずこれに慣れてその施を徳とせざるのみならず,之を定式の所得と思い,得る所の物,以前よりも減ずれば,却て施主を怨むことあり。斯の如きは則ち銭を費して怨を買うに異ならず。西洋諸国にても救窮の事に就ては識者の議論甚だ多くして未だその得失を決せずと雖ども,結局恵与の法は之を受くべき人の有様と人物とを糺して,身躬からその人に接し,私に物を与うるより外に手段あるべからず。此亦徳義の以て広く世間に及ぼすべからざるの一証なり。

 右の次第を以て之を考れば,徳義の力の十分に行われて毫も妨なき場所は唯家族のみ。戸外に出れば忽ちその力を逞うすること能わざるが如し。然りと雖ども人の説に家族の交は天下太平の雛形なりと云うことあれば,数千万年の後には世界中一家の如くなるの時節もあらんか。且世の事物は活動して常に進退するものなれば,今日の文明に就てその進退如何を問えば之を進歩の中に在りと云わざるを得ず。然ば則ち仮令い前途は遠くして,千里の路,僅に一歩を進ると雖ども,進は則ち進なり。前途の永遠なるに恐縮し自から画して進まざるの理なし。今西洋諸国の文明と日本の文明とを比較するに,唯この一歩の前後あるのみにて,学者の議論も唯この一歩の進退を争うのみ。

 抑も徳義は情愛の在る処に行われて規則の内に行わるべからず。規則の功能を見ればよく情愛の事を成すと雖ども,その行わるゝ所の形は則ち然らずして,規則と徳義とは正しく相反して両ながら相容れざるものゝ如し。又規則の内に区別ありて,事物の順序を整理するための規則と,人の悪を防ぐための規則と,二様に分つべし。甲の規則を犯すは人の過なり,乙の規則を犯すは人の悪心なり。今爰に論ずる所の規則は人の悪を防ぐための規則を指して云うものなれば,学者之を誤るべからず。譬えば家族の事を整理するために,家内の者朝は六時に起て夜は十時に房に入るべしと規則を立ることあらんと雖ども,家内の悪念を防ぐために非ず。この規則を犯せばとて罪人と云うべからず。唯一家内の便利のために申合せて定めたる規則にて,書面を認るにも及ばず,家内の心を以て自から行わるゝものなり。この外真実睦しき親族朋友の間に金を貸借するもこの類なり。

 されども今広く世間に行わるゝ証文,約条書又は政府の法律,各国の条約書等を見るに,或は民法刑法等の別ありて事物の順序を整理するための規則も少なからずと雖ども,一般にその所用如何を尋れば悉皆悪を防ぐの器械と云わざるを得ず。都て規則書の趣意は利害を裏表に並べて人に示し,その人の私心を以てこれを撰ばしむるの策なり。譬えば千両の金を盗めば懲役十年と云い,其の約条を十日延期すれば償金百両と云うが如し。千両の金と十年の懲役と,百両の償金と十日の違約と両方に掲げて,人の私心をしてその便利と思う方へ就かしむるの趣向なれば,徳義の精神は毫も存することなく,その状恰も飢たる犬猫に食物を示して傍に棒を振揚げ,喰わば打たんとて威を示すものゝ如し。その形のみを見れば決して之を情愛の事と云うべからず。

 又徳義の行わるゝ所と規則の行わるゝ所とその分界を明にせんため左にその一例を示さん。爰に甲乙二人,金を貸借することあらん。二人相互に親愛して,これを貸すも徳とせず,借て返さヾるも怨とせず,殆ど私有の別なきは情愛の深きものにて,その交情は全く徳義に基くものなり。或は返済の期限と利足の割合とを定め,備忘のために之を紙に記してこの書附を貸主に渡し置くも,その交情未だ徳義の領分を出でず。されどもこの書附に印を押して証券の印紙を貼し,或は請人を立て或は質物を取るに至ては,既に徳義の領分を脱し,双方共に唯規則に依頼して相接するのみ。この貸借に就ては借主の正不正信じ難きが故に之を不正者と認め,金を返さヾれば請人へ掛り,尚も返さヾれば政府に訴て裁判を受るか,又はその質物を取押えんとする趣向にて,所謂利害を裏表に掲げ,棒を振揚げて犬を威するものなり。故に規則に依頼して事物を整理する処には徳義の形は毫も存することあるべからず。政府と人民との間にても,会主と会員との間にても,売主と買主との間も,貸主と借主との間も,或は銭を取て学芸を教る教師と生徒との間にても,規則のみを以て相会するものは之を徳義の交際と云うべからず。譬えば政府の官に同僚二人ありて,甲は深く公務に心配して誠実を尽し,役所より帰宅して夜も眠られぬ程に苦労すれども,乙は然らずして酒を飲み遊盪を事として嘗て公務を心頭に掛けず。されども朝八時より出頭して午後四時退出までの間は,乙も勉強してその働は少しも甲に異ならず,言うべき事を言い書くべき事を書き,公務に差支あらざれば之を咎むべからず。甲の誠意も光を顕すこと能わざるなり。

 又人民の租税を納るにも,政府より促さヾれば之を納めざるも可なり,之を納るに贋金を以てするも之を請取れば請取たるものゝ落度なり,誤て多く納るも既に手渡すれば納めたるものゝ損なり,売物に掛直を云うも之を買えば買たる者の損なり,つり銭を多く与るも既に之を渡せば渡したる者の不調法なり,金を貸渡すもその証文を紛失すれば貸方の損なり,金札引替もその日限を過れば札を所持する者の損なり,物を拾うて之を隠すも人の知る者あらざれば拾うたる者の徳なり,加之人の物を盗むも露顕に及ばざれば之を盗賊の利と云わざるを得ず。この有様を見て之を考れば,今の世界は全く悪人の集る処にして徳義の痕跡をも見ず,唯無情の規則に依頼して僅に事物の順序を保ち,悪念内に充満すれども規則に制せられて之を事跡に顕わさず,規則の許す所の極界に至て乃ち止り,恰も鋭き刃の上を歩するものゝ如し。豈驚駭すべきに非ずや。

 人心の賤むべき斯の如く,規則の無情なる斯の如し。遽にその外形を一見すれば実に驚駭に堪えずと雖ども,今一歩を進めてこの規則の起る所以の源因と,之に由て得る所の功徳とを察すれば,決して無情なるに非ず,之を今の世界の至善と云わざるを得ず。規則は悪を止むるためのものなりと雖ども,天下の人悉皆悪人なるが故に之を作るに非ず,善悪相混じて弁ずべからざるが故に,之を作て善人を保護せんがためなり。悪人の数は仮令い万人に一人たりとも,必ずそのなきを保すべからざれば,万人中に行わるゝ規則は悪人を御するの趣意に従わざるべからず。譬えば贋金を見分るが如し。一万円の内に仮令い一円にても贋金あらんことを恐るゝときは,悉皆一万円の金を改めざるべからず。故に人間の交際に於て,その規則は日に繁多なるも規則の外形は無情なるが如くなるも,万々之を賤しむの理なし。益これを固くして益これを遵奉せざるべからず。今日の有様にて世の文明を進るの具は規則を除て他に方便あることなし。物の外形を嫌うてその実の功能を棄るは智者の為さヾる所なり。悪人の悪を防ぐが為に規則を設ると雖ども,善人の善を為すの妨と為るに非ず。規則繁雜の世の中にても善人は思のまゝに善を行うべし。唯天下後世の為に謀るに,益この規則を繁多に為して次第に之を無用ならしめんことを祈るのみ。その時節は数千年の後にあるべし。数千年の久きを期して今より規則を作らざるの理なし。時代の沿革を察せざるべからず。

 在昔野蛮不文の世に,君民一体天下一家にして,法を三章に約し仁君賢相は誠を以て下民を撫し,忠臣義士は命を抛て君のためにし,万民上の風に化して上下共にその所を得るが如きは,規則に依頼せずして情実を主とし,徳を以て太平を致したるものにて,遽に之を想像すれば或は羨むべきに似たれども,その実はこの時代に規則を蔑視して用いざるに非ず,之を用いんとするもその処あらざるなり。之に反して人智次第に発生すれば世の事務も亦次第に繁多ならざるを得ず。事務繁多なればその規則も随て増加すべし。且人智の進むに従て,規則を破るの術も自から亦巧なるべきが故に,之を防ぐの法も亦密ならざるを得ず。その一例を挙れば,昔は政府,法を設けて人民を保護せしもの,今日は人民,法を設けて政府の専制を防ぎ,以て自から保護するに至れり。古の眼を以てこの有様を見れば,冠履転倒,上下の名分,地を払うたるが如くなれども,少しくその眼力を明かにして所見を広くすれば,この際に自から条理の紊れざるものありて,政府も人民も互に面目を失するの患あることなし。今の世界に居て一国の文明を進めその独立を保たんとするには唯この一法あるのみ。

 時代の移るに従て人智の発生するは猶小児の成長して大人と為るが如し。小児の時には自から小児の事を事として,その喜怒哀楽の情,自から大人に異なり,年月を経て識らず知らず大人と為るに至れば,嘗て悦びし竹馬も今は以て楽とするに足らず,嘗て恐れし百物語も今は以て恐とするに足らざるは自然の理なり。且その小児の心事,痴愚なりと雖ども,敢て之を咎るに足らず。小児は小児の時に在て小児の事を為したる者にて,固よりその分なれば,之に多を求むべからず。唯小児の群集する家は家力弱くして,他家に向て並立の附合を能せざるのみ。今この小児の成長するは家のために祝すべきことに非ずや。然るにその前年嘗て小児たりし由来を以て強いて之を小児の如くならしめ,竹馬を以て之を悦ばしめ百物語を以て之を威せんとし,甚しきは昔の小児の言行を録して今の大人の手本と為し,この手本に従わざる者を名けて不順粗暴と唱るが如きは,智徳の行わるべき時代と場所とを誤りて適ま家を弱くするの禍を招くのみ。

 仮に又規則の趣意を無情なるものと為し,之を守る人の心をも賤しむべきものと視做すと雖ども,尚人事に益すること大なり。譬えば物を拾うてこれを主人に返せば,その物を半折して拾うたる者へ与うるの規則あり。今こゝに物を拾うて只その半折の利を得んがために之をその主人に返す者あらば,その心事は誠に賤しむべし。然りと雖どもこの規則を鄙劣なりとして廃することあらば,世の中に落したる物は必ず主人の手に返るを期すべからず。されば半折の法も徳義を以て論ずれば好むべきに非ざれども,之を文明の良法と云わざるを得ず。

 又商売上に目前の小利を貪て廉恥を破ることあり,之を商人の不正と云う。譬えば日本人が生糸蚕卵紙を製するに不正を行うて一時の利を貪り,遂に国産の品価を落して永く全国の大利を失い,遂には不正者も共にその損亡を蒙るが如きは,面目も利益も并せて之を棄る者なり。之に反して西洋諸国の商人は取引を慥にして人を欺くことなく,方寸の見本を示して数万反の織物を売るに,嘗て見本の品に異ならず,之を買う者も箱の内を改ることなく安心して荷物を引取るべし。この趣を見れば日本人は不正にして西洋人は正しきが如し。されどもよくその事情を詳にすれば,西洋人の心の誠実にして日本人の心の不誠実なるに非ず。西洋人は商売を広くして永遠の大利を得んと欲する者にて,取引を誠実にせざれば後日の差支と為りて己が利潤の路を塞ぐの恐あるが故に,止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実に非ず,勘定ずくの誠なり。言葉を替えて云えば,日本人は欲の小なる者にて,西洋人は欲の大なる者なり。されども今西洋人の誠は欲のための誠なれば賤むべしとて,日本人の丸出しの不正を学ぶの理なし。欲のためにも利のためにも誠実を尽して商売の規則を守らざるべからず。この規則を守ればこそ商売も行われて文明の進歩を助くべきなり。今の人間世界にて家族と親友とを除くの外は,政府も会社も商売も貸借も,事々物々,悉皆規則に依らざるものなし。規則の形,或は賤しむべきものありと雖ども,之を無規則の禍に比すればその得失,同年の論に非ざるなり。

 方今西洋諸国の有様を見るに,人智日に進で敢為の勇力を増し,恰も天地の間には天然の物にても人為の事にても人の思想を妨るものなきが如くして,自由に事物の理を究め自由に之に応ずるの法を工夫し,天然の物に就ては既にその性質を知り又その働を知り,その性に従て之を御するの定則を発明したるもの甚だ多し。人事に就ても亦斯の如し。人類の性質と働とを推究して漸くその定則を窺い,その性と働とに従て之を御するの法を得んとするの勢に進めり。その進歩の一,二を挙れば,法律密にして国に冤罪少なく,商法明にして人に便利を増し,会社の法正しくして大業を企る者多く,租税の法巧にして私有を失う者少し。兵法の精しきは人を殺すの術なれども,却て之がために人命を残うの禍を減じ,万国公法も粗にして遁るべしと雖ども,聊か殺戮を寛にするの方便と為り,民庶会議は以て政府の過強を平均すべし,著書新聞は以て強大の暴挙を防ぐべし。近日は又万国公会なるものを白耳義の首府に設けて全世界の太平を謀らんとするの説あり。是等は皆規則の益精にして益大なるものにて,規則を以て大徳の事を行うものと云うべし。

文明論之概略 巻之四 第八章 西洋文明の由来

『福澤諭吉著作集 第4巻 文明論之概略』(慶應義塾大学出版会