ふくざわゆきち | 福澤諭吉

文明論之概略 巻之一 第三章 文明の本旨を論ず

이윤진이카루스 2011. 4. 9. 07:10

文明論之概略 巻之一

第三章 文明の本旨を論ず

 前章の続きに従えば,今こゝに西洋文明の由来を論ずべき場所なれども,これを論ずる前に先ず文明の何物たるを知らざるべからず。その物を形容すること甚だ難し。啻にこれを形容すること難きのみならず,甚しきに至ては世論或は文明を是とし或はこれを非として争うものあり。蓋しこの論争の起る由縁を尋るに,もと文明の字義はこれを広く解すべし,又これを狭く解すべし。その狭き字義に従えば,人力を以て徒に人間の需用を増し,衣食住の虚飾を多くするの意に解すべし。又その広き字義に従えば,衣食住の安楽のみならず,智を研き徳を脩めて人間高尚の地位に昇るの意に解すべし。学者若しこの字義の広狭に眼を着せば,又喋々たる争論を費すに足らざるべし。

 抑も文明は相対したる語にて,その至る所に限あることなし。唯野蛮の有様を脱して次第に進むものを云うなり。元来人類は相交るを以てその性とす。独歩孤立するときはその才智発生するに由なし。家族相集るも未だ人間の交際を尽すに足らず。世間相交り人民相触れ,その交際愈広くその法愈整うに従て,人情愈和し知識愈開くべし。文明とは英語にて「シウヰリゼイション」と云う。即ち羅甸語の「シウヰタス」より来りしものにて,国と云う義なり。故に文明とは人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様を形容したる語にて,野蛮無法の独立に反し一国の体裁を成すと云う義なり。

 文明の物たるや至大至重,人間万事皆この文明を目的とせざるものなし。制度と云い文学と云い,商売と云い工業と云い,戦争と云い政法と云うも,これを概して互に相比較するには何を目的としてその利害得失を論ずるや。唯そのよく文明を進るものを以て利と為し得と為し,そのこれを却歩せしむるものを以て害と為し失と為すのみ。文明は恰も一大劇場の如く,制度文学商売以下のものは役者の如し。この役者なるもの各得意の芸を奏して一段の所作を勤め,よく劇の趣意に叶うて真情を写出だし,見物の客をして悦ばしむる者を名けて役者の巧なる者とす。進退度を誤り,言語節を失し,その笑うや真ならず,その泣や無情にして,芝居の仕組これがために趣を失する者を名けて役者の拙なる者とするなり。或は又その泣くと笑うとは真に迫て妙なりと雖ども,場所と時節とを誤て,泣くべきに笑い,笑うべきに泣く者も亦,芸の拙なるものと云うべし。文明は恰も海の如く,制度文学以下のものは河の如し。河の海に水を灌ぐこと多きものを大河と名け,そのこれを灌ぐこと少きものを名けて小河と云う。文明は恰も倉庫の如し。人間の衣食,渡世の資本,生々の気力,皆この庫中にあらざるはなし。人間の事物或は嫌うべきものと雖ども,苟もこの文明を助るの功あればこれを捨てゝ問わず。譬えば内乱戦争の如きか。尚甚しきは独裁暴政の如きも,世の文明を進歩せしむるの助となりてその功能著しく世に顕わるゝの時に至れば,半は前日の醜悪を忘れてこれを咎るものなし。その事情恰も銭を出して物を買い,その価過当なりと雖ども,その物を用いて便利を得ること大なるの時に至れば,半は前日の損亡を忘るゝが如し。即是れ世間人情の常なり。

 今仮に数段の問題を設て文明の在る所を詳にせん。

 第一 爰に一群の人民あり。その外形安くして快く,租税は薄く力役は少なく,裁判の法正しからざるに非ず,懲悪の道行われざるに非ず,概してこれを云えば,人間衣食住の有様に就てはその処置宜しきを得て更に訴うべきものなし。然りと雖ども,唯衣食住の安楽あるのみにて,その智徳発生の力をば故さらに閉塞して自由ならしめず,民を視ること牛羊の如くして,これを牧しこれを養い,唯その飢寒に注意するのみ。その事情,啻に上より抑圧するの類に非ずして,周囲八方より迫窄するものゝ如し,昔日松前より蝦夷人を取扱いしが如き是なり。これを文明開化と云うべきか。この人民の間に智徳進歩の有様を見るや否。

 第二 爰に又一群の人民あり。その外形の安楽は前段の人民に及ばずと雖ども亦堪ゆべからざるに非ず。その安楽少なきの代りとして智徳の路は全く塞がるに非ず。人民或は高尚の説を唱る者あり,宗旨道徳の論も進歩せざるに非ず。然りと雖ども自由の大義は毫も行わるゝことなく,事々物々皆自由を妨げんとするに注意するのみ。人民或は智徳を得る者ありと雖ども,そのこれを得るや恰も貧民が救助の衣食を貰うが如く,自からこれを得るに非ず,他に依頼してこれを得るのみ。人民或は道を求る者ありと雖ども,そのこれを求るや,自からために求ること能わずして人のためにこれを求るなり。亜細亜諸国の人民,神政府のために束縛を蒙り,活溌*の気象を失い尽して蠢爾卑屈の極度に陥りたるもの,即是なり。これを文明開化と云うべきか。この人民の間に文明進歩の痕を見るや否。

 第三 爰に又一群の人民あり。その有様自由自在なれども,毫も事物の順序なく,毫も同権の趣意を見ず。大は小を制し,強は弱を圧し,一世を支配するものは唯暴力のみ。譬えば往昔欧羅巴の形勢斯の如し。これを文明開化と云うべきか。固より文明の種はこゝに胚胎すと云うと雖ども,現にこの有様を名て文明と云うべからざるなり。

 第四 爰に又一群の人民あり。人々その身を自由にして之を妨るものなく,人々その力を逞うして大小強弱の差別あらず。行かんと欲すれば行き,止らんと欲すれば止まりて,各人その権義を異にすることなし。然りと雖ども,この人民は未だ人間交際の味を知らず,人々その力を一人のために費して全体の公利に眼を着けず,一国の何物たるを知らず交際の何事たるを弁ぜず,世々代々生て又死し,死して又生れ,その生れしときの有様は死するときの有様に異ならず。幾世を経ると雖どもその土地に人間生々の痕跡をみることなし。譬えば方今野蛮の人種と唱るもの,即是なり。自由同権の気風に乏しからずと雖ども,之を文明開化と云うべきや否。

 右四段に挙る所の例を見るに,一もこれを文明と称すべきものなし。然ば則ち何事を指して文明と名るや。云く,文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云うなり,衣食を饒にして人品を貴くするを云うなり。或は身の安楽のみを以て文明と云わんか。人生の目的は衣食のみに非ず。若し衣食のみを以て目的とせば,人間は唯蟻の如きのみ,又蜜蜂の如きのみ。これを天の約束と云うべからず。或は心を高尚にするのみを以て文明と云わんか。天下の人皆陋巷に居て水を飲む顔回の如くならん。これを天命と云うべからず。故に人の身心両ながらその所を得るに非ざれば文明の名を下だすべからざるなり。然り而して,人の安楽には限あるべからず,人心の品位にも亦極度あるべからず。その安楽と云い高尚と云うものは,正にその進歩する時の有様を指して名けたるものなれば,文明とは人の安楽と品位との進歩を云うなり。又この人の安楽と品位とを得せしむるものは人の智徳なるが故に,文明とは結局,人の智徳の進歩と云て可なり。

 前既に云えり,文明は至大至重にして人間万事を包羅し,その至る所際限なくして今正に進歩の有様に在りと。世人或はこの義を知らずして甚だしき誤謬に陥ることあり。その人の説に云く,文明とは人の智徳の外に見われたるものなり,然るに今西洋諸国の人を見るに,果して不徳の所業多し,或は偽詐を以て商売を行う者あり,或は人を威して利を貪る者あり,これを有徳の人民と云うべからず,又至文至明と称する英国の管下に在る「アイルランド」の人民は,生計の道に暗く終歳蠢爾として芋を喰うのみ,これを智者と云うべからず,是に由て之を観れば,文明は必ずしも智徳と並び行わるゝものに非ずと。然りと雖ども,この人は今の世界の文明を見てこれをその極度なりと思い,却てその進歩の有様に在る所以を知らざるものなり。今日の文明は未だその半途にも至らず,豈遽に清明純美の時を望むべけんや。この無智無徳の人は即是れ文明の世の疾病なり。今の世界に向て文明の極度を促すは,これを譬えば世に十全健康の人を求るが如し。世界の蒼生多しと雖ども,身に一点の所患なく,生れて死に至るまで些少の病にも罹らざる者あるべきや。決してあるべからず。病理を以て論ずれば,今世の人は仮令い健康に似たるものあるも,これを帯患健康と云わざるを得ず。国も亦猶この人の如し。仮令い文明と称すと雖ども,必ず許多の欠典なかるべからざるなり。

 或人又云く,文明は至大至重なり,人間万事これに向て道を避けざるものなし,然るに文明の本旨は上下同権に在るに非ずや,西洋諸国文明の形勢を見るに,改革の第一着は必ず先ず貴族を倒すに在り,英仏その他の歴史を見てその実跡を証すべし,近くは我日本に於ても,藩を廃して県を置き,士族既に権を失うて華族も亦顔色なし,是れ亦文明の趣意ならん,この理を拡めて論ずるときは,文明の国には君主を奉ずべからざるが如し,果して然るや。答て云く,是れ所謂片眼を以て天下の事を窺うの論なり。文明の物たるや大にして重なるのみならず,亦洪にして且寛なり。文明は至洪至寛なり。豈国君を容るゝの地位なからんや。国君も容るべし,貴族も置くべし,何ぞ是等の名称に拘わりて区々の疑念を抱くに足らん。「ギゾ-」氏の文明史に云えることあり。立君の政は人民の階級を墨守すること印度の如き国にも行わるべし,或は之に反して人民,権を同うし,漠然として上下の名分を知らざる国にも行わるべし,或は専制抑圧の世界にも行わるべし,或は開化自由の里にも行わるべし,君主は恰も一種珍奇の頭の如く,政治風俗は体の如し,同一の頭を以て異種の体に接すべし,君主は恰も一種珍奇の菓実の如く,政治風俗は樹の如し,同一の菓実よく異種の樹に登るべしと。この言真に然り。

 都て世の政府は唯便利のために設けたるものなり。国の文明に便利なるものなれば,政府の体裁は立君にても共和にてもその名を問わずしてその実を取るべし。開闢の時より今日に至るまで,世界にて試たる政府の体裁には,立君独裁あり,立君定律あり,貴族合議あり,民庶合議あれども,唯その体裁のみを見て何れを便と為し何れを不便と為すべからず。唯一方に偏せざるを緊要とするのみ。立君も必ず不便ならず,共和政治も必ず良ならず。千八百四十八年,仏蘭西の共和政治は公平の名あれどもその実は惨刻なり。墺地利にて第二世「フランシス」の時代には独裁の政府にて寛大の実あり。今の亜米利加の合衆政治は支那の政府よりも良からんと雖ども,「メキシコ」の共和政は英国立君の政に及ばざること遠し。故に墺地利,英国の政を良とするも,之がために支那の風を慕うべからず。亜米利加の合衆政治を悦ぶも,仏蘭西,「メキシコ」の例に傚うべからず。政はその実に就て見るべし,その名のみを聞て之を評すべからず。政府の体裁は必ずしも一様なるべからざるが故に,その議論に当ては学者宜しく心を寛にして一方に僻すること勿るべし。名を争うて実を害するは古今にその例少からず。

 支那日本等に於ては君臣の倫を以て人の天性と称し,人に君臣の倫あるは猶夫婦親子の倫あるが如く,君臣の分は人の生前に先ず定たるものゝように思込み,孔子の如きもこの惑溺を脱すること能わず,生涯の心事は周の天子を助けて政を行うか,又は窮迫の余りには諸候にても地方官にても己を用いんとする者あれば之に仕え,兎にも角にも土地人民を支配する君主に依頼して事を成さんとするより外に策略あることなし。畢竟孔子も未だ人の天性を究るの道を知らず,唯その時代に行わるゝ事物の有様に眼を遮られ,その時代に生々する人民の気風に心を奪われ,知らず識らずその中に籠絡せられて,国を立るには君臣の外に手段なきものと臆断して教を遺したるものゝみ。固よりその教に君臣のことを論じたる趣意は頗る純精にして,その一局内に居て之を見れば差支なきのみならず,如何にも人事の美を尽したるが如くなりと雖ども,元と君臣は人の生れて後に出来たるものなれば,之を人の性と云うべからず。人の性のまゝに備わるものは本なり,生れて後に出来たるものは末なり。事物の末に就て議論の純精なるものあればとて,之に由てその本を動かすべからず。

 譬えば古人,天文の学を知らずして只管天を動くものと思い,地静天動の考を本にして無理に四時循環の算を定め,その説く所に一通りは条理を備えたるように見ゆれども,地球の本の性を知らざるが故に,遂に大に誤りて星宿分野の妄説を作り,日食月食の理をも解くこと能わず,事実に於て不都合なること甚だ多し。元来古人が地静天動と云いしは,唯日月星辰の動くが如くなるを目撃し,その目撃する所の有様に従て臆断したるのみのことなれども,その事に就て実を糺せば,この有様はもと地球と他の天体と相対して地球の動くがために生じたる現像なるゆえ,地動は本の性なり,現像は末の験なり。末の験を誤認めて本の性にあらざることを誣ゆべからず。天動の説に条理あればとて,その条理を主張して地動の説を排すべからず。その条理は決して真の条理に非ず。畢竟物に就てはその理を究めずして唯物と物との関係のみを見て強いて作たる説なり。若しこの説を以て真の条理とせば,走る船の中より海岸の走るが如くなるを見て,岸は動き船は静なりと云わざるを得ず。大なる誤解ならずや。故に天文を談ずるには,先ず地球の何物にしてその運転の如何なるを察して,然る後にこの地球と他の天体との関係を明にし,四時循環の理をも説くべきなり。故に云く,物ありて然る後に倫あるなり,倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆談を以て先ず物の倫を説き,その倫に由て物理を害する勿れ。

 君臣の論も猶斯の如し。君と臣との間柄は人と人との関係なり。今この関係に就き条理の見るべきものありと雖ども,その条理は偶ま世に君臣なるもの有て然る後に出来たるものなれば,この条理を見て君臣を人の性と云うべからず。若しこれを人の性なりと云わば,世界万国,人あれば必ず君臣なかるべからざるの理なれども,事実に於て決して然らず。凡そ人間世界に父子夫婦あらざるはなし,長幼朋友あらざるはなし。この四者は人の天稟に備わりたる関係にて,これをその性と云うべしと雖ども,独り君臣に至ては地球上の某国にその関係なき処あり,方今民庶会議の政府を立たる諸国,即是なり。この諸国には君臣なしと雖ども,政府と人民との間に各その義務ありて,その治風或は甚だ美なるものあり。天に二日なし地に二王なしとは孟子の言なれども,目今現に無王の国ありて,然もその国民の有様は遥に陶虞三代の右に出るものあるは如何ん。仮に孔孟をして今日に在らしめなば,将た何の面目有てこの諸国の人民を見ん。聖賢の粗漏と云うべし。

 故に立君の政治を主張するものは,先ず人性の何物たるを察して後に君臣の義を説き,その義なるものは果して人の性に胚胎したるものか,或は人の生れて然る後に偶然の事情に由て君臣の関係を生じ,この関係に就ての約束を君臣の義と名るものか,事実に拠てその前後を詳にせざるべからず。虚心平気深く天理の在る所を求めなば,必ずこの約束の偶然に出でたる所以を発明すべし。既にその偶然なるを知らば又随てその約束の便不便を論ぜざるべからず。事物に就て便不便の議論を許すは即ちこれに修治改革を加うべきの証なり。修治を加えて変革すべきものは天理に非ず。故に子は父たるべからず,婦は夫たるべからず,父子夫婦の間は変革し難しと雖ども,君は変じて臣たるべし。湯武の放伐,即是なり。或は君臣席を同うして肩を比すべし。我国の廃藩置県,即是なり。是に由て之を観れば,立君の政治も改むべからずに非ず。唯之を改ると否とに就ての要訣は,その文明に便利なると不便利なるとを察するに在るのみ。++或る西洋学者の説に,君臣は支那日本に限らず,西洋にも「マ-ストル」と「セルウェント」の称あり,即ち君臣の義なりと云う者あれども,西洋の君臣と支那日本の君臣とはその義一ならず。彼の「マ-ストル」及び「セルウェント」に当るべき文字なきゆえ,仮に之を君臣と訳したることなれども,この文字に拘泥すべからず。余輩は古来和漢の人心に認る所の君臣を君臣と云うなり。譬えば昔我国にて主人を殺す者は磔,家来は手打にするも不苦と云う。この主人この家来は即ち君臣なり。封建の時に大名と藩士との間柄などは明なる君臣と云うべし。++

 前の論に従えば,立君の政治は之を変革して可なり。然ば則ち之を変革して合衆政治を取り,この政治を以て至善の止まる所とするか。云く,決して然らず。亜米利加の北方に一族の人民あり。今を去ること二百五十年,その種族の先人なる者++「ピルグリム・フハアザス」を云う。その人員百一人にて,英国を去りしは千六百二十年のことなり。++英国に於て苛政に苦み,君臣の義を厭尽して自から本国を辞し,去て北亜米利加の地方に来り,千辛万苦を嘗めて漸く自立の端を開きしことあり。即ちその地は「マツサチヲセツト」の「プリマウス」にして,その古跡今尚存せり。爾後有志の輩,跡を追うて来り,本国より家を移す者甚だ多く,処を撰び居を定めて「ニウエンゲランド」の地方を開き,人口漸く繁殖し,国財次第に増加し,千七百七十五年に至ては既に十三州の地を占め,遂に本国の政府に背き,八年の苦戦,僅に勝利を得て,始て一大独立国の基を開きたり。即ち今の北亜米利加合衆国,是なり。

 抑もこの国の独立せし由縁は,その人民敢て私を営むに非ず,敢て一時の野心を逞うするに非ず。至公至平の天理に基き,人類の権義を保護し,天与の福祚を全うせんがためのみ。その趣旨は当時独立の檄文を読て知るべし。況やその初め,かの一百一名の先人が千六百二十年十二月二十二日,風雪の中に上陸して海岸の石上に足を止めしその時には,豈一点の私心あらんや。所謂本来無一物なるものにて,神を敬し人を愛するの外,余念なきこと既に明なり。今この人の心事を推て計るに,その暴君汚吏を嫌うは固より論を俟たず,或は全世界に政府なるものを廃却してその痕跡なからしめんとする程の素志なるべし。二百五十年以前既にこの精神あり。次で千七百七十年代独立の戦争も,この精神を承けてこれを実に顕わしたるものならん。戦争終て後に政体を作りたるもこの精神に基きしことならん。爾後国内に行わるゝ百工商売,政令法律等,都て人間交際の道も皆この精神を目的として之に向いしことならん。然ば則ち合衆国の政治は独立の人民その気力を逞うし,思ひのまゝに定めたるものなれば,その風俗純精無雑にして,真に人類の止るべき所に止り,安楽国土の真境を摸し出したるが如くなるべき筈なるに,今日に至て事実を見れば決して然らず。合衆政治は人民合衆して暴を行うべし,その暴行の寛厳は立君独裁の暴行に異ならずと雖ども,唯一人の意に出るものと衆人の手に成るものとその趣を異にするのみ。又合衆国の風俗は簡易を貴ぶと云えり。簡易は固より人間の美事なりと雖ども,世人簡易を悦べば簡易を装うて世に佞する者あり,簡易を仮て人を嚇する者あり。猶かの田舎児が訥朴を以て人を欺くが如し。又合衆国にて賄賂を禁ずるの法甚だ密なりと雖ども,之を禁ずること愈密なればその行わるゝことも亦愈甚し。その事情は在昔日本にて博奕を禁ずること最も厳にして,その流行最も盛なりしが如し。

 是等の細件を枚挙すれば際限なしと雖ども,今姑くこれを擱き,世論に合衆政治を公平なりとする所以は,その国民一般の心を以て政を為し,人口百万人の国には百万の心を一に合して事を議定するゆえ公平なりと云うことならん。然るに事実に於て大に差支あり。爰にその一箇条を示さん。合衆政治にて代議士を撰ぶに,入札を用いて多数の方に落札するの法あり。多数とあれば一枚多きも多数なるゆえ,万一国中の人気二組に分るゝことありて,百万の人口の内より一組を五十一万人とし一組を四十九万人として札を投ずれば,撰挙に当る人物は必ず一方に偏して,四十九万人の人は最初より国議に与るを得ざる訳けなり。又この撰挙に当たる代議士の数を百人として,議院に出席し大切なる国事を議定するときに,例の如く入札を用いて五十一人と四十九人との差あれば,是亦五十一人の多数に決せざるべからず。故にこの決議は全国人民中の多数に従うに非ず,多数中の多数を以て決し,その差,極て少なきものなれば,大数国民四分一の心を以て他の四分の三を制するの割合なり。之を公平と云うべからず(「ミル」氏代議政治論の内)。この他代議政治の事に就ては頗る議論の入組たるものあり。容易にその得失を断ずべからず。又立君の政治には政府の威を以て人民を窘るの弊あり。合衆の政治には人民の説を以て政府を煩わすの患あり。

 故に政府或はその煩わしきに堪えざれば,乃ち兵力に依頼して遂に大に禍を招くことあり。合衆政治に限りて兵乱少なしと云うべからず。近くは千八百六十一年,売奴の議論よりして合衆国の南北に党類を分ち,百万の市民忽ち兇器を取て古来未曾有の大戦争を開き,兄弟相屠り同類相残い,内乱四年の間に財を費し人を失うこと殆どその数を計るべからず。元とこの戦争の起る原因は,国内上流の士君子,売奴の旧悪習を悪み,天理人道を唱えて事件に及びしことにて,人間界の一美談と称すべしと雖ども,その事一度び起れば,事の枝末に又枝末を生じ,理と利と相混じ,道と慾と相乱れ,遂には本趣意の在る所を知るべからずして,その事跡に現われたるものを見れば,必竟自由国の人民,相互に権威を貪りその私を逞うせんと欲するより外ならず。その状恰も天上の楽園に群鬼の闘うが如くなり。若し地下の先人をして知ることあらしめなば,今この衆鬼子の戦うを見てこれを何とか云わん。戦死の輩も黄泉に赴くと雖ども,先人を見るに顔色なかるべし。又英国の学士「ミル」氏著述の経済書に云く,或人の説に,人類の目的は唯進で取るに在り,足以て踏み手以て推し,互に踵を接して先を争うべし,是即ち生産進歩のために最も願うべき有様なりとて,唯利是争うを以て人間最上の約束と思う者なきに非ざれども,余が所見にては甚だこれを悦ばず,方今世界中にてこの有様を事実に写出したる処は亜米利加の合衆国なり。「コウカス」人種++白人種++の男子相合し,不正不公の覊軛を脱して別に一世界を開き,人口繁殖せざるに非ず,財用富饒ならざるに非ず,土地も亦広くして耕すに余あり,自主自由の権は普く行われて国民又貧の何物たるを知らず,斯る至善至美の便宜を得ると雖ども,その一般の風俗に顕われたる成跡を見れば亦怪むべし,全国の男児は終歳馳駆して金円を逐い,全国の婦人は終身孜々としてこの逐円の男子を生殖するのみ,これを人間交際の至善と云わんか,余はこれを信ぜずと。以上「ミル」氏の説を見ても亦以て合衆国の風俗に就き其の一斑を窺知るに足るべし。

 右所論に由て之を観れば,立君の政治必ずしも良ならず,合衆の政治必ずしも便ならず。政治の名を何と名るも必竟人間交際中の一箇条たるに過ぎざれば,僅にその一箇条の体裁を見て文明の本旨を判断すべからず。その体裁果して不便利ならば之を改るも可なり,或は事実に妨なくば之を改めざるも可なり。人間の目的は唯文明に達するの一事あるのみ。之に達せんとするには様々の方便なかるべからず。随て之を試み随て之を改め,千百の試験を経てその際に多少の進歩を為すべきものなれば,人の思想は一方に偏すべからず。綽々然として余裕あらんことを要するなり。凡そ世の事物は試みざれば進むものなし。仮令試てよく進むも未だその極度に達したるものあるを聞かず。開闢の初より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり。諸国の政治も今正にその試験中なれば遽にその良否を定むべからざるは固より論を俟たず。唯その文明に益すること多きものを良政府と名け,之に益すること少なきか,又は之を害するものを名けて悪政府と云うのみ。故に政治の良否を評するには,その国民の達し得たる文明の度を測量してこれを決定すべし。世に未だ至文至明の国あらざれば,至善至美の政治も亦未だあるべからず。或は文明の極度に至らば何等の政府も全く無用の長物に属すべし。若し夫れ然るときは,何ぞその体裁を撰ぶに足らん,何ぞその名義を争うに足らん。今の世の文明,その進歩の途中に在れば,政治も亦進歩の途中に在ること明なり。唯各国互に数歩の前後あるのみ。

 英国と「メキシコ」とを比較して,英の文明右に出でなばその政治も亦右に出ることならん。合衆国の風俗宜しからざるも,支那の文明に比してこれに優る所あらば,合衆国の政治は支那よりも良きことならん。故に立君の政治も共和の政治も,良なりと云えば共に良なり,不良なりと云えば共に不良なり。且政治は独り文明の源に非ず。文明に従てその進退を為し,文学商売等の諸件と共に,文明中の一局を働くものなりとのことは,前既に之を論じたり。故に文明は譬えば鹿の如く,政治等は射者の如し。射者固より一人に非ず,その射法も亦人々流を異にすべし。唯その目途とする所は鹿を射てこれを獲るに在るのみ。鹿をさえ獲れば,立てこれを射るも,坐してこれを射るも,或は時宜に由り赤手を以て之を捕るも妨あることなし。特り一家の射法に拘泥して,中たるべき矢を射ず,獲るべき鹿を失うは,田猟に拙なるものと云うべし。

文明論之概略 巻之一 終

文明論之概略 巻之二 第四章 文明の本旨を論ず

『福澤諭吉著作集 第4巻 文明論之概略』(慶應義塾大学出版会,2002)に基づく。
更新:2007-12-31 作成:上田修一ueda@flet.keio.ac.jp